4.大島北上--離島

三日目。今日はPM:3:30鹿児島行きの便に乗るまでに大島の北部をのろのろあちこち寄り道しながら北上し、飛行場までたどりつけば良い。

レンタカーは飛行場前の営業所に乗り捨てればOKなのだ。前々日にバスで来た道を逆にたどるべく、空港を行く先に設定したら、のっけからバス道になかった名瀬郊外バイパスのトンネルがナビで指示されて戸惑った。これはないよ。

余り早くスムーズに最終目的地へ着いてしまっても困るのだ。それでナビは無視し、地図を見ながら港湾へ出て海沿いにバス道を探す。

ひとつには着いた日にバスで見た「田中一村終焉の地」に寄りたかったことがある。名瀬の近辺にそれがあるらしい。ガイド誌に載っていた電話番号をナビに入れると市役所が出た(携帯で役所の担当に訊けばよかったのかもしれないが、そのときは思いつかなかったな)。

こうなってみるとナビはまったく役立たずだ。時々案内標があるけれど、たどり着けないままにバス道になって行過ぎた感じ。しかたなくそばの「いすヾ自動車」の営業所へ飛び込んで訊いてみる。女性の事務員さんが詳しく、ゼンリンの住宅地図を出して丁寧に教えてくれた。彼女に寄れば、私の提示したガイド雑誌の当該ポイントは一村の終焉の地ではなく、それ以前に住んでいた場所である可能性がある、という。ガイド地図そのものが混乱しているようなのだ。

大体掴めたのでお礼をいい、来た道を引返した。思ったとおり大きく行過ぎていたのだ。平凡な住宅地の奥、奇跡的にその場所は見つかった。やはり案内標は途中まったくといっていいほどなかった。私たちが最初に見つけたのは到達点の外壁に貼られた「田中一村居住跡」の一枚だけだった。
  

やはり周囲はよく整備されてあったけれど、「一村の家」は掘っ立て小屋というものを形にしたような、粗末な陋屋だった。このままではいずれ朽ち果てて倒壊してしまうだろう。でも小屋周辺の奄美らしい静かな環境は気に入った。一村がここを気にいっていたにもかかわらず、十日しか住めずに早々に旅立ったのは残念だった。彼自身もそう思っているだろう。小屋前の掲示板にメモされた「坂本スミ子」さんというのは誰だろうか?あの歌手?どんな因縁だろうか?例の伝記をベースにした芝居には名前はなかったようだし。

裏山との境界の溝に繁茂した白いはす?系の花が印象的だった。

途中海岸と黒潮の景色を堪能しながら最後の目的地「奄美パーク」に入る。巨大な貝殻を伏せたような雄大な建物は奄美大島の文化と自然を総合的に紹介する立派な施設で、最新のハイテクが駆使されている。シアターは二人だけで見た。全体に面白かったけれど、その巨大空間は奄美の将来を祈念するコスト・パホーマンス以外のどんな意味があるんだろうかと思ってしまう。いや、もったいないというようなことではまったくないのだけれど。 

この施設のコア、一村記念美術館を見るまえに、奄美での最後の食事をこの雄大な空間の一郭を占める二階部分のレストランでとる。島料理の最右翼「鶏飯 (けいはん)」をいただく。ご飯の上に鶏肉の刻んだもの、のり、錦糸卵、漬物などを載せてスープをぶっかけ、いただく。これが意外(?失礼)に美味であった。

さて一村記念美術館である。一村を知ったのは’96年に最初の全国巡覧の展覧会があった時だと思うけれど、たまたま倉敷の美術館で見たのが最初だ。日本画特有の柔らかい色彩と形式美を残しつつもその厳格な写実美を徹底追求した独特の画風に衝撃を受けて次の日も見に行った。5年後に2度目の巡覧があって、これは福岡市立美術館で見た。だから、これで三度目ということになる。もちろん画集も持っているから、いつでも見れるのだけれど、やはり本物に接する喜びというのは何ものにも変えがたいものがある。    一村 奄美の杜G一村 奄美の杜E パンフレッドより

特別展では彼が千葉時代に書いた襖絵が屏風に改造された作品がいくつか展示されていたが、これらは福岡で見た記憶がある。写真を元に描いたという個人的な家族の肖像は初めて接したもので彼の誠実な仕事振りを実感させられた。旅上で描いた色紙も写実を徹底して見事だ。

しかし、彼の真骨頂である奄美時代の大作”奄美の杜”連作が2点しか見られなかったのは残念だった。この個人美術館が立地として特殊であり、内地の多くの同種の館に比べてもそう何度も来れないことは事実なのだから、出来れば出し惜しみせずにもっと多くを展示してほしかった。人気作家であり、他に貸し出しているのかもしれないが、実物でなくてもいいのではないだろうか(年4回 展示の入れ替えをしているらしいが)。

また機会があれば見たいと思う。それにしても彼が最後の創作の対象とした奄美大島にその常設の美術館が生まれたということは非常に意義のあることだと思う。一村自身も幸せなことだと思っているのではないだろうか。

名残惜しいけれど奄美パークを後にしてすぐそばの空港へ。ガソリンを満タンにしてレンタル会社へ戻す。近くだったけれど係りのひとがワンボックスカーで送ってくれたのは嬉しかった。

 

  

帰りはサアアブ、36人乗りのスゥエーデン機。満席だ。ターボプロップというのだろうか、30年前に乗ったYS-11に比べて非常に静かだった。

帰路、屋久島が見えた。晴天はここまで。鹿児島は雨の中だった。

                               あまみ 島ゆき  おわり

 

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