「激白」41.作家からの手紙へ進む 

40. 真夏の死

  た夏がやってきた。HPを立ち上げて2年目の夏、
思いもしなかったことだが、早くも40000ヒットを越えた。
訪問者諸氏には感謝の言葉もない。最近はずっと100/日ヒットを超え、
千ヒットごとに「激白」一作という公約もおぼつかなくなっている。
怠惰の夏ということだろうか。ああ、これではいけない。無理やりに
せよ、何かを書かなければ。

  夏は好きである。激情の季節とでもいうのだろうか。
もっとも、私が「激情」であったためしはないけれど、ひとは夏、特に
若者において情熱を発露する。海に、山に、自然の中で存分な活力を
奮い、冒険の悦びを享受する。心身を解放し、素直になる。若い女性は
裸に近い姿になって街やリゾートを闊歩する。そういった風景を、非力な
私自身すらも、嬉しいことにおこぼれとして享受できる。夏の強い日差し
は悦びの源泉、活力の元である。じりじりした陽光の下に身を晒す
よるこびはまた格別である。歳を重ねた今になっても、そんな悦びは
まだ私の小脳(いや、間脳だったか)から失われてはいないのだろう。
たいした思い出もないくせに。

  陽光、熱気は、日本の亜熱帯気候に特有の蒸れむれる
湿気、雨水を伴って植物たちにも活力を与え、盛んな成長を促す。
夏こそ生物全体のいのちの季節なのだが、しかし、反面、強烈な
陽光自体は弱者から水分を奪い、渇きをおしつけて死をもたらす、
情け容赦もないものだ。もともとが、生物にとって害毒以外のなにもの
でもなかった酸素と同類のものだとも言える。その中の優位な成分で
ある紫外線は強い殺菌力を示す。殺風景な大地に降り注ぐ真夏の
強い陽光は、死の世界にも近い。そんな焼け焦げた砂浜に、人は裸に
なって、歓声をあげて集まる。海水浴は奇妙な人間の習俗である。

 

  三島由紀夫の小説「真夏の死」は夏に読むべきである。
伊豆半島のひなびた避暑地でひと夏を過ごそうと訪れた幸せな家族を
突然襲った椿事。二人の子と義姉、三人の肉親を一度に海で失った
美しい若妻、朝子(ともこ)の不幸。一時の錯乱と夫に対する様々な思い、
戸惑い、不幸を一身に負った彼女を取り巻く多くの人々や近親縁者に
対する様々な応接、押し殺した感情のたかぶり、三人一緒の葬儀を
終えたあとも、様々な機会、日常のなにげない事象に伴って不意に訪れる
”あの日”に連なる記憶、悲しみ、それらのすべてを作者は丹念に分析し、
再構成し、見事な筆致で描き尽くす。

  もちろん朝子だけではない、若くして外車販売店の
支配人となった夫、勝(まさる)の不幸も彼女と同等なはずである。
物語は三人の死に立ち会った妻と、それを電報で知ってすぐ現地へ
向かう勝との心の葛藤をも精緻な刻みで描きあげていく。もちろん
夫は夫なりに悲しみ、当事者になってしまった妻への心づかいと
いうものまで理想に近く、いや、まったくそうもあろうという適切さ、
あるいは饒舌すぎるほどに懇切丁寧になぞっていく。死という
そるべき宿敵に、完膚なきまでにたたきのめされ、一旦は錯乱の
手前まで敗退を重ねたヒロイン朝子が、そんな時日の過ぎるうちに、
私達が忘却といっている、あのしざま、時をも糧として次第に立ち直り、
やがて心身ともに癒え、以前の日常生活へと戻ってゆく。作者の、
時として重苦しい思弁を離れ、いかにも叙情的に「死」という怪物を
描写するときの生きいきした筆使いは、例えばこのような一節となって
私達を瞠目させる。三島由紀夫の比喩はいつも的確で、見事である。

  「たしかに一度夏空の中に、白いくっきりした輪郭を持った、
怖ろしい風姿の大理石の彫像が現れたのである。それは雲のような
模糊たるものになり、腕は落ち、首は欠け、手に捧げていた長剣は
脱落した。記憶のなかの、身の毛もよだつような石の表情は、
徐々に柔和な、不明瞭なものになった−−。」

  切に待望した、失われた二人の子に替わる女児、
桃子が誕生し、椿事から二年が経った。また、夏が巡ってきたのだ。
あれほど忌み、忘れようとしていた事故の現場、あの三人を失った
鄙の避暑地へ、朝子は家族で行ってみたいと言い出す。勝は驚き、
妻の真意を測りかねつつも、その熱意に負けてとうとう一緒に
行く気になる。もちろんそのヒロインの異様ともいえる心の動き、
不自然さは作者もよく心得ているはずである。しかし、それは最後の、
まことにスリリングな場面、修羅の時をくぐってより強くなった朝子が
一歳の桃子を抱いて、あたかもあの愛しい二児を奪った死に神と
対決する姿勢を示す、その感動的なエンディングへのあからさまな
舞台廻しには違いない。
三島由紀夫自身が死ぬまで愛した「劇的な」ものといえばいいのだろうか。
人工的だ、わざとらしいと言えばそうだけれど、
そういった言い方が適切なのかどうかは私には判らない。

ただ、こんな彫りの深い、こってりした筋立ての小説が
私は好きなのである。

 



39.ひとはなぜ長生きなのか

  寿命は遺伝形質のひとつで、哺乳類では身体の絶対的な大きさや、
脳の体重比に比例するというのだが、それらの法則にに照らしても、
人間は他の類人猿、哺乳動物たちに比べて、例外的に長寿だという。
象は約50年、白ながすくじらは80年で死ぬというから、健康な個体で
百年以上生きるのが珍しくない、人間という動物はまことに凄いといえる。
大体、種の維持(これが生物の「生きる目的」である)という一点に関する
限り、生殖可能期間、あるいは子育てが終了してのちも生きながら得る
「余計者」の存在は、限られた食物を分け合わねばならぬ仲間の間では、
あるいは種全体にとっても困ったことなのである。なぜ人間だけがそんな
長寿命を獲得したのか。

  この件については、なぜかということにまで立ち入った
文章には長くお目にかからなかった。この手の問題を扱って名著とされた
象の時間ねずみの時間」でも、肝心の「人間の時間」については触れず
じまいだった。触れたくなかったのだろうか。

7/15(’02)の朝日新聞(夕刊)にこのことについての一文があった。

ヒトはなぜ長生きなのか  黒田洋一郎氏   
    
概略次のような内容である。

 

  サルからヒトへ進化する段階では、脳の進化が
他の肉体的な変化に比べて著しい。それで、脳の大きさはチンパンジーの
それにくらべて三倍あるという。大きいだけでなく、人間は身体が成熟した
あとも記憶にとって重要な脳の柔軟さが続くという。その結果、長生きすれば
するほど多様な情報が蓄積出来、過去の経験を統合して、より正しい
判断が出来る個体(古老)の存在する機会が増えた(現在、このような
総合的な判断力は「結晶的知能」と呼ばれており、六十歳を過ぎても
発達していくといわれている)。現存の人類は、3〜5万年前にあった
気候の激変期
を生き残った少数集団の子孫である。多くの集団が
絶滅していった中で、世代を越えた知恵の蓄積、伝承が可能な脳を
持った長寿者を保持した集団が飢えやら病気などを解決し、辛うじて
生き残ったのだろうという。

 

  そんなことも稀にはあったのだろう。しかし、大体が
百余歳まで生きさせるのはやりすぎだろうし、いくら多くの知恵を
持っているといったって、やはり足腰立たなくなった老人は、
原始集団では厄介者であることは間違いない。食餌を自力では
賄い切れなくなった人間が、少なくもあの厳しい氷河期の時代の社会で
積極的に生かされていたとは考えにくい。近世の日本でも、うばすての
慣習はあったのだ。いつの時代、どんな社会でも老齢者を持て余していた
だろうことは想像出来る。文字の発明は未だだったにせよ、言葉の発達は
知恵の普遍化、一般化を促進し、その面でも老人はさほど有難がられは
しなかったろうと思われる。

 

  大体から、いつの世も、若いリーダーは、かったるい老人の
知恵になど見向きもしないのだ。自分の力を過信し、たまさか自信を失うことが
あっても、強い自分の権限の及ぶ限り、老人にリーダーシップ(の一部であれ)
を譲る潔さを発揮するより、仲間を自分とともに道連れにして死ぬ方を選ぶだろう。

  むしろ、「結晶的知能」は、役立たずとされ、強制的に、
あるいは自発的に群れから出ていった老人たちがなお死なず、一人で
生きていくための唯一のツールとして与えられたものではないだろうか。
こんな考えは悲惨だろうか。

 

  もちろん、黒田氏の考えは魅力的である。
一人よがりの若い馬鹿なリーダーに従った集団が道に迷い、
知恵薄く、死に絶える中で、非生産的な老人を大切にし、
その知恵を必要に応じて採り入れてサバイバルに成功した賢明な
リーダー率いるごく少数の集団がわれわれの直接の先祖であった
というのは。

  そんな立派な遺伝子が、果たして現在もなお、
人類には引き継がれているのだろうか。

 

  38.はい、それまでよ


じられないと思われるだろうが、この欄の号数(ここでは<38>)
とわがHPのヒット数との綺麗な相関関係(X=総アクセス数/1000)に私が
気が付いたのはつい最近のことだ。
ずっとつきあって頂いておられる、ごくごく
少数の読者諸氏以外の向きはご存じかどうか、
五千ヒットを機にこの欄(激白)を新設し、その時は、
大小まとめて五作ほど作って、まとめて出したと記憶している。
当初はから八十ヒット/日が普通だったから、そこそこコンスタントに
書いてはいても、常に一作/千ヒットのペースからは遅れがちだった
(百ヒット/日なら一作/十日のペースが必要)と思う。
全く意識しなかったのだが。

  最初、ほぼ二週間に一作というノルマでやると宣言したが、
実際はいつも遅れがちで、最近では一作/月あたりのペースにまで
落ち込んできたような自覚があった。でも、
それなりに、継続的には書きつないできた(と自分では思っている)。
最近はアクセス数も50/日あたりになってきた結果が、
今のアクセス数(トータル)にこの激白ナンバーが追いつき、
同期したという状況なのだろう。初期の清新なHP作成更新の意欲は
ますます減退する一方であるし、最近一時的に、奇妙にアクセス数が
盛り返した(UWサイトと関係を作ったかららしい)現象もあるけれど、
また元にもどりつつあるから、つまり、千ヒットごとにこの欄の一作更新は、
三作/二ケ月のペースでOKということになる。これなら、
如何に遅筆な私でも楽勝ということになる、のだろうか?。

  われわれアマチュアの物かきは、テーマに注文が付かず、
締め切りがなく、出来のよしあし、枚数にすら注文がつかない。精神、
経済圧力ゼロ、快適係数百パーセントのそれをよいことにして、
ひたすら勝手気まま野放図に書き殴り、またはさぼっているのだけれど、
それはそれで全く素晴らしいことではあるのだけれど、また、それゆえに、
初期の純真な動機、意欲が薄れてきたら、なかなか踏ん張り頑張りが利かず、
新たなコンテンツも、更新も思いつかないまま放りっぱなしになり、結局
「はい、それまでよ。」ということにもなるわけだ。

 

これまで、私たちは如何に多くの、そのようなオンライン作家
盛衰消滅を見てきたことか。プロ作家のレベルが、なんんのかんのと
いったところで、やっぱりわれわれネット作家の平均を遥かに越えている
のは事実だろう。プロフェショナルであり続けるための自力(プライド?)
他力(上記の反対)の圧力に耐え続ける懸命の努力がそれを維持
させているのには違いない。

小林秀雄が「モオツァルト」でこう書いているのは当っている。

−−制約も障碍もないところで、精神はどうしてその力を
試す機会を掴むか。何処にも困難がなければ、当然、進んで
困難を発明する必要を覚えるだろう−−。

凡才にはこれが出来ない、と以下続く。

凡才のままで終わりたくはない。


37.西行花伝

西行花伝(さいぎょうかでん)辻邦夫  新潮社’95を読んだ。

  中世の高名な歌人である法名円位、俗名佐藤義清(のりきよ)
西行法師の生涯については、さほどの資料が世にあるわけではない。
ただおびただしい和歌が残っているのだけれど、それだけで彼の伝記が
書けるわけはない。私達が比較的彼を身近かに感じるのは、とびきり
有名な二、三の和歌の存在と、五十年以上以前に書かれた小林秀雄
掌編評論「西行」によってである。もちろん更に興味が湧けば、彼の自選
になる歌集「山家集」を手に入れることは簡単だ。定家などの選になる
「新古今和歌集」には彼の歌が百首近く入っている。しかし、多少の添え
書きはあるにせよ、やはり歌は歌であって、西行自身の日常と生涯を
大意でも知ることは難しい。だから、たいした準備もなくこの歌人の全体に
立ち入ろうとすれば、富士正晴のような惨さんたる結果になる(西行−
出家が旅
  淡交社S48年)のだろう。

  辻邦夫氏は、だから伝記としてこの二十一帖に及ぶ
大部の著を書いたわけではない。それは不可能であったし、
(例え可能であったにせよ)氏の資質からして
そんなことはしなかっただろう。
「花伝」という題からも知られるように、氏は乏しい資料と、もちろん
彼のおびただしい和歌を巧妙に織り込んで、ここに見事な
花の西行賛歌とでもいえるようなドラマ(小説)を作り上げたのだ。
武術や技芸に抜きん出て、貴人との恋を味わい、
出家しては当代最高の政治家共ともよしみを通じ、
更には大伽藍の堂宇を勧請し、
最高権威たる寺社の座首から尊崇される。
まさしく花も実もあるスーパーマン。
しかも背景となる舞台自体が実に波乱万丈、保元平治の乱を経て
平家一族の台頭栄華と源家の巻き返しによる急速な滅亡、
九郎義経
の勝利と没落、奥州藤原家の敗亡といとまもない。
それらのひとつひとつに西行は深く係わり、積極的な役割を演じたこと
にされている。それらのエピソードの描写と実際の歴史とが織り成す
筋立てが皆全く巧妙であり、本当にそうもあったであろうと自然に
心に沁み入ってくるのは、もちろん辻邦夫氏の非凡な筆力と
確かな論理性のゆえだろうし、それぞれの章(帖)において
直接の語り手(西行を身近かに見た人物)を替えるという工夫、様々な
立場、年代のひとびとから各々眺め、語らせることで、
作者のいう、西行法師という巨人の「焦点距離の深い」肖像を
作り上げることに成功したといえるのではないか。

 

  しかし、この小説の成功はやはり西行法師の(歌人だけではない)
優れて歴史的な存在があり、それに着目した辻氏の慧眼によるところ
だろうことは疑いない。西行とは何者だったのか。

  出家以前の西行が佐藤家という比較的裕福な武家の
出身で、鳥羽院の宮の警護に当る「北面の武士」だったことは私も
知っていた。いわゆる近衛兵士、その頃の若いさむらいのデビューと
しては望まれ得る最高のエリートだった。同時代、同じ北面の武士から
のしあがった清盛という図抜けて優れた武士もあったが、そんな立場
から鳥羽院の皇后である待賢門院との危険な恋も経験する。私は、
以前から出家の身である西行に、なぜこんなに色恋の歌が多いのかと
不思議に思っていたのだけれど、こんな作者の解釈もひとつの選択で
あるのだろうと自然に心へ沁み入ったことだった。

  西行は奥州藤原氏の流れを汲む武家の長男であり、
平氏とは流れとして反勢力に位置することになるのだが、出家したことも
あって、後々清盛とは親しい関係を保っていたことは、実際の歴史も
匂わせている。それはいいのだが、「北面の武士」そのものが、後日の
武士の世を現出させる直接の出発点になったことも歴史が示す通りで
ある。そんな幾つもの恵まれた条件で人生をスタートした二十三歳の
義清がどうして出家などする気になったのか。

  本書では、彼が直接の出家に至る動機として、実の弟で
ある仲清の死に直面し、世をはかなく思ったことを採っている。もちろん
同時進行していた賢門院との恋に絶望したことも匂わせているし、
なによりも、義清自身の真摯潔癖に過ぎるような精神が当時の院政と
土地制度の強い非合理性(既に佐藤兄弟が荘園制に叛旗を翻そうと
いう縁戚の武士からの誘いを受けて居たことも本著に採られている。
弟の死がこれに無関係であるとは思えない。)、自身の領地での
トラブルの間で悩み、立身出世の道の険しさ(彼自身は家の裕福な
こともあって、さほどのこともなかったようだが)もあって、結局出家
するという逃げ道を選択したということであったのだろう。もちろん、
表向きの理由として、人生の第一義として打ち込もうとした和歌の世界の
存在があったのだけれど、結婚もし、責任の大きな佐藤家頭領で、
生真面目な若武者であった義清が、それだけの理由で唐突な出家を
するはずはない、とは誰しも思うはずだ。しかし、実際、ことは起こったので、
後世我々がかこつける理由は多ければ多いほどいいのだし、
小説としても、より自然に思えるのは確かだ。
何にせよ、小林秀雄が書いている通り、理由などどうでもいいのである。
現代では全く異常なその現象が、
その時代には一種の流行になっていたことも歴史が示す通りなのだし、
それが二十三歳のわかげの至りであったにしても一向に構わないと、
私も思う。問題は出家して後の生きざまなのであって、西行は確かに、
人生の第一義として打ち込もうとした和歌の世界の存在を、彼自身数多の
独自で見事な秀歌を後世に向けて残してくれたことで、歴史的にも証明して
くれたのである。

  小説中での最大のやま、実父(伯父?)鳥羽院に嫌われ、
追い込まれて結局、保元の乱として世に知られた事件に心ならずも
巻き込まれて敗れ、厳しく罪に問われ、讃岐へ流されて狂死するに
至る悲劇の天皇崇徳院重仁親王父子のドラマは、歌よみ西行の
厳しく過ぎるほどの歌論と全人性の何たるかを、そして、非凡と平凡との
いつにもある葛藤の行く末を徹底的に追求し、描いたといえる激しくも
哀しい章(12から15の帖にかけて)として私たちの心を強く打つ。
ことに鬼気迫るほどの奇矯さで深夜僧房のねきに眠る西行の目前に
立ち現れた院の異様なデビュー、凄惨な描写(十の帖)はその運命の
行く末を確かな破滅への予感で満たして見事である。

 


36.ディべート

しい経験で云々するべき性質の話題ではないのかもしれないが、
どうも日本人はディベートの能力に欠けているのではないか。
日本語の非論理性が原因だと論じる一文が以前あったような気もするが
この際それを問題にはしない。

なにしろ
国会論戦の内容の空疎なこと。

多くの文人の対話集にせよ、
議論になっている対話は殆どないようである。

お互いが相手を思いやって、といえばその通りなのだろうが、
ただ知識のひけらかし競争にとどまって、
互いに持論を闘わせ、その創造的相乗的な結果として
更に何か新しい次元へと至ったような例を
私は余り知らない。

もっとも、そんな対談でも面白いものはあり、
私は対談集をよく読む方である(一方で忘れるばかりだが)。

私事で恐縮だが、会社組織にあって、
仕事上でディベートをする必要性、
特に創意工夫が必要な部門での重要さは
言うまでもないが、それが有効に働いたことの例を、
私は経験的に知らない。

社内での「会議(おびただしい時間がこれに費やされる)」というのは、
単なる報告、連絡と、座長の同意承認を得る簡便な方法であると、
私は経験的に知っている。
もちろん、これは私の個人的な経験則ではあるが。

これらの本来のシステムがうまく機能している会社も
理論的にはあると思う。

ただ、国家組織(国会、行政)、日本の殆どの歴史ある大会社では、
機能不全なこと大同小異であると私は推定している。
これらの安定した組織では、自分の権限で無視出来る
下部の意見を真面目に聞く上位組織人は、ごくごく少数だと思う。

ここまでは愚痴として聴いて欲しい。

私の属しているメールグループで、
最近脱退者があった。
理由のひとつに、
「ディベートしたかったのだが、
どうも会のカラーが自分と異質で、
浮きあがってしまいそうだから−−」
というのがあった。

彼の多くないメールで、ディベートをしかけるという気配はなかった。

「ディベート」というのは、本来が異質なもの同士の行為なのだ。
本当にそんな行為をやりたかったのだろうか。
何か別のことをしたかったような気がする。

その出来事に対する反応は余りなかった。
一人だけ、
「メールでのディベートは難しい
「ムづかしいことはやらないほうがいいのではないか
「ディベートは対面して(肉声で)やるべきだろう
という趣旨の意見があった。

それに対する意見はなかったから、
同意する面面が多かったのだろうと思う。

私も、少し疑問はあったけれど、
理解できる面もあったし、
まだ会では新参者でもあるし、そのままそっとしておいた。

やはり日本人なのだ。

実は以前、何度か(たいしたテーマではなかったが)
問題提起したことはあったけれど、
まともに反応したメールが続いた例はなかったということもある。

単なる情報交換、言い過ぎかもしれないが社交辞令の交換、
友好サロンとしての挨拶の域を踏み出す危険を冒したくはない
という雰囲気が多数なのだろう。

それはそれで充分意味のあることだし。

しかし「ディベート」はそんなに怖れねばならないものなのだろうか。

節度とモラールをしっかり守りつつこれを行うことは可能だと思うし、
そして、非常に知的な、楽しいゲームにすることも可能だと私は思う。

お互いに動かせない結論をちらつかせつつこれをやれば、
それは「ディベート」にならないことは見やすい道理である。
あくまで開かれた自由な精神が必要なのだ。

呉智英」的ディベートはこの際見本にはならない。

お互いを思いやるというのは、
どんな場合も必須の条件である。
その上で、偶偶得られた結論を大事にしようということなので、
当然ながら、勝敗などは、この際問題ではないのだということを、
胆に銘じることだ。


35.言葉の変遷

ール仲間と通信していると、いろんな情報が聴ける。

例えばこんなことがあった。

メールで飛び交う言葉に気になる言葉が混じる。

「Aさんの舞台を見ると、いつも
ほっこりする−−」

Aさんのファンであるその大阪在住の書き手は、その言葉を良い意味に使っているらしい。
こころが温まる。楽しくなってくる。
そんな意味をこの言葉に込めているようだった。

私はこの言葉を、よく福井県生まれの母が使うのを聴いた。

「今日は遠出をして、
ほっこりした。」
「だれそれさんの家へお邪魔すると、いつも
ほっこりする。」

気疲れ(肉体も)して嫌になった。くたくたになったというほどではないが、
しばらくゆっくり休みたい気になる−−。

そんな意味だったと記憶している。
温かいという意味に使ったことはなかった。
私も、文中でこれを使った記憶はないが、
話し言葉で使ったことはある。

どうも違和感が拭えなかった。

最近、
朝日新聞紙上で、前者の使い方を見た。
常設のコラムだったと思う。今手許にないのだが、
どこかの大学教授、専門の著述家ではないが、ひとかどの地位ある知識人だった。
他のメール仲間も、雰囲気としてこの方に多数派の気配があった。

広辞苑」少々古いが第一版を繰った。

あたたかなさま、ほかほか、とまずある。
上方方言としてやきいも。三番目に「疲れたさま」とあって、
私は少し引いた。

母は間違いではなかったが、
どちらかといえば私の方が分が悪いのかもしれない。
広辞苑にはあっても、
忘れられていく語彙というのはあるのである。
どうしてこのような、反対語に近い語彙が含まれてあったのか、
そんなことを詮索する間もなく。

三島由紀夫はいつも広辞苑を丹念に読んで、
語彙を豊かにしていたと聞いた。

ちょっと反省。

しかし一旦こころに沁み込んだ言葉の感じはなかなか転換できない。
この言葉をうまく使うことは、私にはもう出来ないだろう。

言葉というものは、本来、非常に保守的なものなのである。
変わっていく言葉も多いが、
何千年も変わらない言葉も沢山ある。
もっとも、
昨今の情報革命で、
言葉の変遷は加速するだろうことは予測できる。

民族固有の言語(今5千以上あるらしい)の数が減少し、
多くが滅亡へ向かっているという話もある。
共通言語の普及は良いことだけれど、
これは盾の両面でもある。

もうひとつ、話題になった言葉。

まったり

余り日常で使う言葉ではないだろう。
いや、なかった、というべきだろうか。

私はこれを味覚のひとつの形容詞だと思っていた。

「このお吸い物、なかなか
まったりした味だわー」
ちょっと濃い目の、深いあじわいというに近い。

この展開として、半ば冗談で、上方のお笑い芸人などの
ちょっとしつこい芸風を喩えることもあるかと思っていた。
鶴瓶の、あのまったりした話し芸」など。

しかし、最近の若者は、もっと自由にこの癖のある言葉を使っているらしい。

「暖かいお風呂でまったりしたーい」 「このアイスクリームまった
りしておいしーい
」 などなど−−。

なにか、子供むけのアニメの主人公がTVでこれを連発しているらしい。
例によって品詞の垣根など無視して、動詞に、形容詞に、副詞にと
こだわりなく新しい言葉の創出を楽しんでいるふうである。

ま、これもいいのかもしれない。


34.晩春愚白


をこいた所為か、腹のたつことが多い。

田辺聖子
が分からない。

4/22朝日夕刊。以下朝日
聖子氏の97になる老母堂が今年の花見で俳句をひねり出した。

ぱぱさんは いなくて桜 咲きにけり」
聖子氏の良き伴侶氏は最近なくなられた、と仄聞している。
お母さんの言われる「ぱぱさん」も、当然氏のことをさしているのだろう。
小文はそのあと、こう続く。

 −−−  
夫のことであろうけれど、老母の発音では、
  どうしても
ぱぱ>という感じであった。
  私はその句のことを言った。
  <そんなことをいうたかしらん。忘れたわねえ>
  と、老母は無心に箸を動かしている。
  <この間のことやないの>
  <この間だって、忘れる時は忘れますよ 
 −−−
聖子氏の夫君のことを、ご母堂は、常々どう呼んでおられたのか、
それはわからないが、「
ぱぱさん」と呼んでおられたとして不自然ではない、
と思う。なぜ聖子氏がこれにこだわっているのか、
私たちには分からない。
ひょっとして、老母堂は彼女自身のつれあい様をそう呼んでいたのかもかもしれない。
どちらでもいいのである。
然し、どちらかにして欲しい。
まさしくそのことを聖子氏は母堂に要求しているのかもしれない。
しかし文面からはそこまでは決定できないのである。
あいまいなまま、小文は終わってしまう。

何百万もの人が読むのである。
どんな小文にせよ、大新聞に書く以上、
誰もが分かる、すっきりした文にして欲しい。
しょーむないことかもしれないが、
芥川賞作家の文としては、説明不足で、
私には欲求不満が残る。

もうひとつ、

林真理子が分からない。
4/27夕刊。

やはり氏の夫君のことを言ったものである。
昔、理系の男というのは頭のいいひとの代名詞であった。
という書き出しで、彼女が当時のエリートであった理系の男に憧れ、
その一人を夫として得たところまではよかったが、
多少期待はずれであったという文章の流れで、

−−−−
メーカーの技術者というのは給料が安い上に融通が利かない。
見ていて、理系のひとは損だなーと思うことがしばしばだ。


給料が安いのは、時代の流れでニ次産業の収益が悪くなり、
銀行などより賃上げに遅れを取ったのが理由だろう。

しかし、融通が利かないというのはどういうことか、
見ていて理系のひとは損だなーと思うのはどう言う理由からか。

融通が利かない人間たちの間に居る個人が損をしているのか、
給料が安いから損だというのか(これは分かるが)。
融通が利かないのは理系の人間だからというのは、
余りあたっていないだろう。
営業マンにも商売を離れたら融通が利かなくなる人間はごまんといるはずだ。

大体、頭の良い人間は融通無碍のはずなのだ。

仕事上で融通が利かないというのなら、分かる。

他人との妥協が(信念のゆえに)出来ない技術者は多い。
一流の技術者は、仕事上そうあるべきなのだ。
これは常識だと思うが、そうでない世界もあるかもしれない。
私事だが、私はこの件で(世間で)苦労したし、している。
これは、この一文とは関係ない。

しかし、仕事を離れても融通が利かない人間は、やはり馬鹿だろう。
一流の人間とは思えない。

ともかく、頭の痛い文章が多い。

大岡信氏が「折々のうた」再開に際してコメントしている。4/25


  −−−嘘をつくことが常習化しているような人々が(日本の)社会の上層部に
  集中しており、それを市民の多くがうすうす感じているような社会は、
  一言で言って意気上がらない、情けない社会である。
  人がお互いに信頼しあって暮らすところでしか社会の土台は固まらない。
  その基本は、相手の言葉が信用できるものであることを、他者がちゃんと
  認識出来ていることである。

  気力とか、士気とか意気とかいう言葉は、モラルと言い表わされる。その
  モラルは、また倫理、道徳を言う言葉とも同根である。日本社会が
  気力をなくしている現状は、もう一方で市民の自覚の中に背筋の通った倫理姿勢が
  あまり見られないことに通じ合っている現象であろう。
  嘘と誤魔化しが社会のいろんな場所で、さして痛みもなしに通用してしまっている、
  それは人体で言えば全身不健康な体ということだろう−−−−。

氏は、そんな日本の現状改善に、人間と人間との信頼をつなぐ(唯一の)道具と
なりうる日本語の力を信じ、その「敏感ないきもの」である日本語の
多様な力が発揮されている姿を確かめる為に「折々のうた」を運用して
いくのだと言っている。

これはなんとなく分かる。

よく似たことを、十年前に誰かが言っていた
(鮎川信夫 所収)。


林真理子氏の文章の後半は、いまどき理数系がなぜはやらないかという分析である。

分解出来ないから」だそうである。

今どき、どんな電気器具、どんな玩具にもコンピュウタのひとつふたつは入っている。
大変なテクノ時代、複雑化の時代なのだ。
そしてそれは玩具のキーパーツであり、
それをなくして玩具の理解は不可能である。にもかかわらず、
どこまで分解しても(分解は可能だが)それを理解するのは子供には不可能なのだ。
大人でも不可能だろう。いや、メーカーの技術者でも
その全部を理解してはいないに違いない。
ソフトとハード、電気と機械、マシンデザインなどそれぞれ途方もなく高度化し、
専門化していったことが原因なのだ。

理解できないものは詰まらないのである(大抵の子供には)。
やわな想像力では歯が立たないということだろう。

でも子供の「理科離れ」はそれが原因なのだろうか。
ゲーム機などが原因なのはわかる気もするが、
これはもっと根が深いような気もするのだ。

林真理子氏には(悪いけれど)無理だろう。


33.絶対音感

  「絶対音感」というものがあるらしい。音楽家、特に指揮者には
その能力を持ったひとが多いとも聞いていた。

「絶対音感」。ちょっとたじろぐような言葉である。さぞかし凄い音楽エリートの
天才的な、神秘的ですらある能力の一部であろう、と思っていた。

  「絶対音感最相葉月  小学館。一読、
私の認識が少し間違っていたようだ。これは天才的な能力でも神秘的な力でもなく、
幼児からの特殊な訓練で(も)得られる音の高さ(ヘルツ=周波数)の
記憶能力であるらしい。西欧では稀な才能と見られていて、
有名な古典の音楽家(モーツァルトメンデルスゾーンなどが持っていたとされる)
の天才性は多くこれに負っているといわれる。実際、この能力が遺伝などによる
先天的なものか、それとも後天的に誰でも得られるものかどうかは
まだ議論されているところだとも。
しかし、現実として、日本はその能力者の大量生産(ヤマハ音楽教室などでの
幼児教育:日本特有の現象)でつとに有名なのだ!。この才能はまた、
音楽家という職業には便利な能力であるが、これを持たなくても
(それを補完する訓練、例えば音大での主要な科目である
ソルフェージュ=固定ド唱法などを身につければ)いっこう構わないし、
持っていることで、逆にそれが別の不自由さを招来することもあるのだと。

 

  音叉というものがある。たまたま私も持っているのだが、
これはUの字の下から短い玉付きの柄が出た金属の器具(単音楽器?)で、
これを人指し指の第三関節に一撃してから耳に差し込む。
私の音叉はA−440と刻印されてあり、正確な440ヘルツの音が鳴る
(市販されている大抵の音叉はこれである)。
これは楽譜の音名でいうとA(アー)という音で、オーケストラが
音合わせをする時に最初にオーボエが鳴らす音である。
絶対音感を持つ人は、この音を正確(2〜1.5ヘルツ位の差まで判別できるらしい)
に記憶していて、いつでもこれを声に出すことができるし、音合わせという行為は
不要なのだ。彼等にかかれば無伴奏の合唱曲で、呼び出し音もなく、
突然歌い出すことも可能だ。日本のアマチュア合唱団がベルリンでの
コンサートでこれをやり、聴衆を驚かせたという。A音440ヘルツというのは
固定的なものではなく、最近の世界のオーケストラは更に高めのAを採用する
傾向があり(ベルリン・フィルウイーン・フィルは445〜446Hz、
NHKフィルは442Hzなど)、そんな現場でA=440と覚え込まされた
「絶対音感」能力者は、演奏時、その齟齬感でひどい混乱と不快感を経験するらしい。

 

  しかし、改めてこの「絶対音感」の問題を楽曲、
ことにいわゆる調性ということに関して考えた場合、私など絶対音感欠落者には、
果たして音楽を十全に理解されているのだろうか、という素朴な、
しかし深刻な問題が浮き上がってくる。

  人間は、同じ曲(旋律)であれば、ハ長調で聞いても、
ト長調で聞いても同じ曲として認識できる。そのために、私はさほど困難なしに
一度聞いた曲の旋律を(多くはハ調で)楽譜に留めて、あとで楽しむことをよくする。
メール仲間で話題になった三十数年前のヒット曲「わすれな草」
旋律のスケッチが残されてあったことから、MIDIで曲ににして、
配信して喜ばれたこともあった。しかし、である。これでは私の認識は、
どんな曲も皆大ざっぱにいってハ長調(あるいはイ単調)でしか
聞いていないというわけだろう。

 

  絶対音感の保持者は単に単音の高さを記憶しているだけではない。
同時に鳴らされる複数の音つまり和音の判定に優れており、和音の構成音を
はっきりと指摘出来る能力も併せ持つので、私など旋律だけを採譜できるのとは
異なり、レコードを聞いて正確なオリジナルの総譜を作り上げることも
出来るのである。そして、例えばベートーベン第五シンフォニーをハ短調で聴き、
第六交響曲をヘ長調で正確に認識して聴いているわけだ。

  第五シンフォニーがハ短調で書かれたのは全くの必然性があり、
例えばイ短調でこれを演奏すれば、全く異なった曲になってしまう、
と言われるのは常識である。当然、「田園」はヘ長調でなければならず、
ト長調などで書かれることはなかった。これを観賞者側に立って考えれば、
やはりこの認識は絶対音感保持者でなくては理解出来ないことではないのか。

  枝葉末節の問題に過ぎないとたかをくくることも可能である。
ピアノの中央ハ音(白鍵)をニュートラルの白色として、それぞれの音に
固有の色彩がついている、と「絶対音感」の保持者の多くは言う。
また主音の異なる和音にもはっきりした色彩感、例えばト長調は青、
イ長調は赤などとイメージする人も多いらしい。
ベートーベンが第五シンフォニーをハ短調としたことと、これらの事実と
密接な関係があることは確かである。それに対して
私たち絶対音感の欠落者がコメントすることは出来ない。

 

  本書では、様々な音楽家が「絶対音感」をキーワードにして喋り、
興味深いエピソードが語られ、また悩み、喜びを語る。質量共に、実に豊富な
それらの事例をよくもこれだけ集めたものだと感心してしまう。
最初の事例、ロシアのノーベル賞作家B・パステルナークと作曲家スクリャーピンとの
出会いの中で語られる「絶対音感」の挿話は、ミステリーというより謎めいて
(その謎はどこまで読んでもなかなか解けない。まるでこの本自体が
ミステリーなのかと思わせるように)私たちを本へ引き込んでいく。

  ともかく、著者がその深みに引き込まれたように、
「絶対音感」の問題は非常に多様で、興味深い。
まだ科学的に分からないことも多いという。例えば、この能力は、
いわゆるカクテルパーティ効果といわれる沢山の異種の騒音(音楽)の中に
混じる、自分が関心を持つただひとつの音をよく聞き分ける力に
通じるのだという。
優れた指揮者は、百余りの楽団員が同時に鳴らす楽器群の中から
ただひとつの音情報に注目して、これを正すことも出来るのだ。
現在のコンピューターなどでなかなか実現できないこの種の人間の能力を
解析するための格好の研究課題なのであるらしい。

 

  私が驚かされたのは、「絶対音感」を西欧の音楽世界で
初めて知って、劣等感にうちひしがれた一人の男(園田清秀)が、
それを克服しようとした過程において一人の見事な(日本で最初の
国際的な音楽家と言われた)芸術家(園田高弘:ピアニスト
  芸術院会員

彼の長男)を作り上げたということ、更には後天的にその能力が
得られることを実証したことで日本の音楽界に多大な影響を与え、
戦後の多くの日本人の、一流クラシック芸術世界への参入のみならず、
更に一定の地位を占めるに至った要因にもなったということだ。
ここにも飽くなき不可能への挑戦を繰り返す粘液質の日本人の姿が
見られるように思う。

 

  日本での音楽教育のひとつの混乱(固定ド唱法と
移動ド唱法との混用によるエリートたちの困惑という問題)は初めて知った。
「絶対音感」のない私などは、便利な移動ド法によって音楽を楽しむことの
出来る人間のひとりであり、一概にどちらがいいとはとても言えないけれど、
まさにそれが日本の音楽界の悩みだったのだろう。

 

  もちろん著者が本書で語りたかったのは、結局、
「絶対音感」そのものでなく、音楽というものについてなのだ。
西欧文化のさいはて日本で花ひらいたクラシック音楽がどんな花だったのか、
それは良いことだったのか、西欧人たちは日本の特殊な状況(どんどん
絶対音感の優れた人間を人工的に作っていく:もちろん、決められた
カリキュラムをただ淡々とこなせば、すぐそんな人間が出来上がるという
わけではないが)をどんな目でみているのか。それは日本の音楽文化に
基礎的な面でどのような影響を与えたのか。

 

  様々な日本のトップで活躍する音楽家たちに肉迫し、
インタビューを重ねて書かれた本書は、それだけをとってみても
日本における、そして世界における先端の音楽事情
(クラシックは常に技術だけではない、心意気を含め、トータルして
音楽界全般を引っ張っているはずである。それがいかに音楽全体における
シェアを落としてはいても−アメリカにおけるクラシックの観客離れは激しく、
かなり深刻な状況でもあるらしいが)を如実に語り尽くして見事である。

  天才バイオリニストの名をほしいままにして世界の一流オーケストラと
共演を続けている五嶋みどりと、その名声も含めた産みの親でもある
一流の音楽指導者五嶋節、そして、その後添えの夫の金城摩承(彼もかつて
ジュリアード音楽院でバイオリンを指導した音楽家である)夫婦が再び
チャレンジしている実の息子のトレーニング(天才バイオリニストへの
道を目指して)の姿は、音楽とは?音楽家とは?という大きな問いへの
ひとつの解答を示唆している。そのうえで今日音楽家を造り、育てていくことが
いかに困難な事業なのであるかということをも如実に物語っている。

 


32.「神々の山嶺」

夢枕獏は、いうまでもなく「陰陽師」の作者、今をときめく人気作家である。
その作者による山岳小説
「神々の山嶺(いただき)」を読んだ。

山岳小説とは何か。

新田次郎が第一人者だったということは知っていた。
そのあとを継ぐ作家がいなかった。
特殊な世界の、特殊な状況を叙述する専門的な分野であり、
作者が少ないということはあるだろう。
読者、つまり需要が限定されるということもあるのだろうか。

専門的な分野、つまり登山の経験があり、
山が好きな作家でなくてはならないという条件が
山岳小説家の輩出を阻んでいるのだろう。
もちろん、
近年の登山愛好家の減少もその原因のひとつでないとはいえない、
と思う。

  何故人は山へ登るのか?

言い古された文句である。G・マロリーはその問いに対し、

有名な言葉を吐いた。

「それがそこにあるからさ」

粋で知られる英国紳士の、その機知の代表としてその言葉は記憶されている。

マロリーがエベレストの第一番目の征服者になりそこね、

そこで遭難した登山家であったということは、

「神々の山嶺」で初めて知った。

もっとも、なりそこねたのかどうかは、まだ不明のままらしい。

現在知られている様々な事物から、

彼は登頂に成功はしたが、帰途遭難した可能性が高いとされる。

これはミステリーであるとも。

 

全部「神々の山嶺」からの引き写しである。

著者は山に魅せられ、ヒマラヤに魅せられ、

実際、エベレスト登山隊に参加し、

高山病に悩まされながらもベースキャンプまで付いていった人間である。

そんなこともこの小説を読むまでは知らなかった。

うかつだった。

「神々の山嶺」は手際のいいエベレスト登攀史の面もある。

それ自体非常に興味深いドキュメントでもある。

しかしそれ以上に、これはロッククライミングの書である。

ロッククライミングのデテールについて、

その恐怖について、

これほど濃密に描かれた小説はなかったのではないか。

 

エベレスト南西壁冬季アタックに引き込まれ、死に直面した

主人公深町の延々と続くモノローグが圧巻である。

 

トップクライマーの登山は、ロッククライミングに尽きる。

ロッククライミングこそ登山の華なのだ。

中でもエベレスト登山は非常に苛酷な、

極限状況でのロッククライミングが必須である。

つまり、一流のクライマーにとっては、

登山は死と隣り合わせなのだ。

しかも死よりも辛い自分との戦いの場でもある。

そんな辛い目をしながら、

なぜ彼等はしょうこりもなく登るのか?

その解答の一部をここでみたように思った。

 

「神々の山嶺」は、

そんな極限状況に魅せられ、

死をいとわずに、登るしかない人間たちの群像である。

著者の分身であるカメラマン深町、天才クライマー

長谷(長谷川恒男がモデルらしい)

そして、その激しい性格、奇矯な言動から

山岳仲間に容れられないままエベレストで帰らぬひととなる

羽生丈二、

ことに羽生は実に魅力的な人間として濃厚にかきこまれている。

 

序章の、エベレスト第四キャンプ近くで、

海底の化石アンモナイトを発見する主人公、

この出だしは秀逸である。

SF、伝奇、怪奇小説と人工の限りを尽くして

書き続けてきた著者は様々なミステリー的手法、

様々な時制を駆使して自在に現在と過去を行き来し、

見事な千七百枚を書き上げ、全く長さを感じさせなかった。

 

これは著者の代表作になるだろう。

 蛇足である。
今日の
A紙にあった。エベレストへ、
登頂者が千人を超えたそうだが、今年も
また日本隊登山計画が目白押しという(今井通子さんら)。
トップクライマー達の間では、
むしろ盛んになっているのかもしれない。

ここにもプロとアマの乖離が進んでいるのだろうか。



31.春の調べ

  日本の春、桜の季節。今年はどういうわけか開花が大層早かった。
東京では3/17に満開宣言。平年より二週間以上早いという。
福岡でも3/24には満開になった。やはり温暖化の影響なのだろうか。
南極では、東京都の面積をしのぐ棚氷が崩壊して流れ出したと外電にあった。

不気味である。

しかし、例年のことだけれど各地の花便りは楽しいものだ。
知人のメイルに枝垂れ山桜の凄いような
映像に添えて、歌があった。

 

願わくば  花の下にて春死なむ  この如月の望月のころ

 

いうまでもなく西行法師の山家集にある名歌である。
この陰歴二月十五日は釈迦の入滅された日で、新暦では一カ月以上遅れて
三月なかば以後になることもあるから、桜が咲いていても不自然ではない。
法師はこの歌の通り七十三才でこの日に亡くなった。
この故事が歌を更に有名にしていることは疑いない。

  何にしても、西行法師は桜を愛し花の歌を多く詠んだ。

 

吉野山  こずえの花を見し日より  心は身にも添はずなりにき    山家集

 

余りに美しいものを見てしまったので、その日から魂が
体から分離したように(ぼおっと)なってしまった。誇張だろうけれど、
恐ろしいほど美に魅せられてしまったという極限の表現である。

  和歌は日本中世文学の代表的な形式で、
その主題のひとつ、桜とはいかにもよく合っている。和歌は桜とともに
あったというのは言い過ぎかもしれないけれど、花見の時にそれらの
代表的な和歌が自然に思い出されるというのは、日本人としての喜びではないか、
と思う。眩学趣味で言っているのではない。例えば

 

世の中に  絶えて桜のなかりせば  春の心はのどけからまし

 

古今集にある在原業平の歌だけれど、春になれば、桜(花見)のことばかり
気に掛かって落ち着かない。いっそ、桜など、無いほうがよい、などというちょっと
屈折した気分を詠んだ歌であるが、現代にも通じる、心理的にひねった面白い作品だとおもう。

 

  桜は、大木になり、その花時はまだ葉もない早春、
一斉に全ての木の枝がびっしり花をつけて開花、満開することでまことに
豪華な見ものになる。それは梅などの比ではないから、花といえば
桜となったのも当然だろう。

 

見渡せば  春日の野辺に霞立ち  咲きにほへるは  桜花かも    万葉集

 

春日とは奈良のことで、咲きにほへるというのも誇張に近い
(桜は余り匂いがない)けれど、この紅もほのかな豪華な花のあり様を
うまく形容したものと思う。

 

さざなみや  しがの都は荒れにしを  昔ながらの山桜かな    千載集

 

琵琶湖の水際に立って昔の大津の都の跡を眺めながら詠んだ歌だろう。
山桜の景観は大抵寂しい、取り残されて咲くようなイメージがあるけれど、
それでも野の花といった寂しさでない、華やかな印象を拭いきれないのである。
平忠度の作と分かっているのだけれど、当時の朝敵であったために、
「読み人知らず」とされた。もうひとつ山桜。

 

もろともに  あわれと思え山桜  花よりほかに知るひともなし  金葉集  百人一首

 

大峰山に修業に入った行尊が人知れず咲いている一もとの桜を見て、
それに自分(の孤独)を投影して詠んだ歌だろう。咲き誇る山桜は遠くからも
よく見ることができるのが普通だけれど、全く人跡まれな山間に咲く桜というのも
気味の悪いものだと思う。

 

百人一首には桜の歌が六句あるけれど、恋の歌や秋の歌などにくらべて
多いとは言えない。既に(選者と推定される)藤原定家などには、
桜は余り興味を引かない主題になっていたのだろうか。余り冴えた作品は
ないようだ。いや、定家の作にない、といったので、百人首にはある。
私が一番気にいってる歌、

 

ひさかたの  ひかりのどけき春の日に  しず心なく花の散るらむ 紀 友則  古今集

 

ひさかたの(久堅の)というのは、「ひかり」にかかる枕詞。
こんなにのどかな、日の光がゆったりと射している春の日中に、
どうして桜の花よ、おまえは落ち着かなくもはらはらと散っていくのかい?
それだけの意味だけれど、この歌の全体を流れる流麗なことばの調べ、
そしてそんな詞をひねり出し、編みつつ、ちょっといたづらっぽく花に
問いかけずにはおれない言葉の魔術師、作者の、余裕たっぷりの
感興を思い、それらを交互に味わう時、歌はえもいわれぬ音楽として
私たちの心を打つ。

 

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