激白  (101)考えるということ飛ぶ

 

(100)「深夜特急」

メイルの友人から勧められた本を読んだ。あとから聞けば近年の名作だそうである。青年旅行者たちのバイブルとも。沢木耕太郎著「深夜特急」。しかし図書館にはなかったし(古くなって書架からはずされたのかもしれない)、最初はわからないまま本屋の若い女性店員に尋ねたら、なに、これを知らないのか、といった顔をされた。文庫本であるとは知らなかった。最初の単行本(一便、二便も同時らしいが)が世に出てから、すでに18年経っている。結構昔の作品だったのだ。文庫本新潮社全6巻。私事だけれど最近仕事が忙しくなったこともあるが、1ヶ月近くかかって読み上げた。

もっとも、読みにくかったわけではない。それどころか久しぶりに読書の醍醐味を味わった。楽しかった。著者26歳の痛快な海外放浪記、香港を振り出しに、1年をかけてユーラシア大陸を主にバスなどでほっつきあるいた貧乏冒険旅行の記である。
旅行そのものもスケールがでかいけれど、作品が書かれたのもそれから12年後、しかも全巻を完成させるまであしかけ6年以上かけている。それだけ、自分の行動を客観視し、醸成したあと書かれたわけで、読者だってじっくり時間をかけて読まなければ、著者には悪いではないか。

と啖呵を切ったけれど、実際歳を食って若いころのように徹夜することも出来なくなった。執着心が薄れたというより体力の問題だろう。もっとも、読書はまずやる気の問題だ。よし、読もうという気で読めば、今でも「資本論」だって「岩波講座哲学18巻全巻」だって読めないものではないだろうが。もちろんひきつけられて夢中で読むのが最高なのだ。そういう本はあとあと心に残る。

旅行記は好きで、よく読むほうだ。海外旅行記は何をおいても自分が出来なかった経験を代行してくれる意味で有難いものだ。しかし「深夜特急」は単なる海外旅行記ではなかった。26歳の血気あふれる若者がその全身を見知らぬ世界にぶっつけてその生々しい反応を確かめたという冒険活劇のような記録になっている。単なる旅行記ではない。氏が好んで訪れた一般観光地ではない多くのローカルな土地土地での、何をおいてもそこに生きるひとびととの直かな交流、生活の場である繁華な町、市場に溶け込んでその地のひとと語り合い、世界とはなにか、旅行とは、人間とは、といったことを問わず語りに語っている、それなりの人生の書になっているのがこの大作の魅力のひとつなのだろう。
印象に残る多くの場面があったけれど、全体の中ではやはり前半1便、2便にあたる香港からトルコへ至る、いわゆるアジアの各国での困難に満ちた旅のあたりが圧巻である。氏自身にも深い感銘を与えたのだろうインド、ネパールの旅。またそこで出会うやはり氏と同様に貧乏旅行を試みる多くの先進各国の若者たちの群像。それらに覚めた目であたる氏の態度がすばらしい。
もちろんそれだけではない。先進国へ入ってからも氏の研ぎ澄まされた精神は人間だけではない、その異文化への鋭い批評にも現れる。たとえばあこがれていたというギリシャ古代遺跡群の美しい記述や、ローマでのミケランジェロ「ピエタ」体験、更には後日フィレンツェで出会ったその天才の未完成彫像へのすさまじい描写など、胸を打つ場面は多かった。

それにしても、英語もさほどうまくない著者が、これほど自在に多くの異国のひとびとと楽しい交流を重ね、あるいはハードな交渉を勝ち抜いて多くの危険な場面をくぐりぬけてきたのはどうだろうか。それはもちろん氏の熱くも暖かい魅力的な全人間性が彼らによく受け入れられたということだろうけれど、一面それは183センチの長身、ちょっと日本人離れした感がなくもない氏の風貌、スポーツアスリートとして鍛えた心身などが異国のシビアな空気に十分対抗できたということでもあったのだろう。沢木氏の個性躍如たるところだ。

いわずもがなではあるけれど、最終巻末で対談した陽水(井上)氏が言っていた、沢木氏にはエロチックなものがない、という批判はまったくあたらないだろう。つまり金持ち喧嘩せず。沢木氏は自身エロチックであるがゆえに、自分からエロチシズムを持ち出す必要がないのだ。全6巻中で氏が魅力的な娼婦たちから、多くの貴婦人たちからいかにもてていたか!それらをおさらいするまでもないだろう。
口惜しいことではあるけれど、私事ながら、この結論は私自身がいかに女性に無縁であるか(このエロチックな
HPを見よ)が問わず語りになるのである(苦笑)。

(99)リカバリ再び

 

ずっとなじんでいたダイアルアップインターネットに限界を感じてADSLフレッツ DION)を導入したのは昨年7月だったが、このADSLは速くて電話が同時に使えるという利点だけではない、ルーターという機器を買うと複数のPCがつなげて、それぞれでネットが楽しめるという、想像もつかなかった凄いメリットがあることを知り、これぞわが意!と小躍りしたものだ。これには、書斎の十年選手サンヨーデスクトップワープロに不安を感じ、比較的廉価の2台目パソコンを買ったまま1年余、さほど活用していなかったという事情があった。つまり、ADSLは、従来よりネットにつないでいた居間のPCを息子、娘用にして、場所ふさぎだった書斎の廉価PCにもネットを無線LANで引き、私の専用として利用することを可能にしたわけだ。
無線LANNTTのサービスにもある(レンタル)けれど、私は専門店からメルコという会社のエアーステーション(WBRG54)を1万円ほどで購入してとりつけた。ADSLの設定やモデム取り付けも自分でやったし、できないことはないだろうという気分だった。取り扱い説明書を丹念に読んで、あとは付属CDのガイドに従えば、さほど難しいものではなかった。もちろん、まったくスムーズにいったわけではない。設定のミスをおかして、後日メルコに有料(¥4000だったか)で教えてもらったりした。
それで、しばらくの間なかなか快適なネットライフを楽しんできたのだけれど、最近とみにこのPCの調子がおかしい。スパイウエアというのだろうか、ベストというのだろうか、エクスプローラを呼び出さなくても、しょっちゅうジャヴァがぴかぴか働いて変なサイトが呼びかけてくるようになった。どうやらアダルトサイトの見過ぎ不純交友のあやまちから、変なウイルス(でもないだろうが)に感染したということなのだろう。
ベクターというソフトメーカーのペストパトロールというソフトを買って追い出しを図ったけれど、効果はなかった。そのうちに病はどんどんひどくなっていき、頻繁にダウンをする。エラーでネットがすぐ落ちるようになって、とうとう小手先の対策をあきらめた。
つまりOSWindows Millennium edition-Windows Me)の再インストール、つまりリカバリしかないだろうという段階に追い込まれたわけだ。不調になったPCの最後の、最強の手段、買った当時の状態に戻すということ。3ヶ月前にもうひとつのPCIBM)でやっているから、ま、できるだろう、やってみようかい、という気軽な気分もあった。
私のくだんのPCは、専門店の自主製作品で、勝手なレーベル(APOLLO jet)をつけて廉価(本体6万円だったか)で出していたもので、MeOSとしてついていたけれど、I.Eやアウトルックなんかを除き、他のソフトはまったくついていなかったので、悪いとは知りつつ最初のPCについていたソフトを選んでいくつか利用させていただいた(ワード、エクセル、FFFTP、フロントページエクスプレスなど)。当然ながらリカバリーデスクなどのような便利なものはついていない。マニュアルのたぐいも、簡単な小冊子があるあけで、何の参考にもならない。MeCDだけはついていたので、以前から参考にしてきたTJムックの「98&Meカリカリチューンアップ」の説明を見て、まず「アプリケーションの追加と削除」を開いて「起動ディスク」を作り、このフロッピーに前記のCDを加えて再起動させ、Cのハードディスクをフォーマットしよう(format c:/)としたが、PCが受けつけてくれない。弱った。

次の日、本屋で「技術評論社」の「Wp/Me再インストール&バックアップ」¥1580.を買って、「ウィンドウズMeのクリーンインストール」の章を見ると「e:setup

とあるではないか。これこれ、と合点し、そのとおりキィインすると、見事にインストールが始まった。小一時間後、再立ち上げして見ると、まったく以前と変わらない壁紙が現れた。ショートカットの並びも、すぐエラーがはじまるのも以前とおり。これは、多分単純な上書きがなされただけなのだろう。PCの状態は更に悪くなった。どうしたものか。

次の日、もう一度上記参考書を丁寧に読み直し、セットアップの前にしなくてはならないことがいくつかあるのを知った。つまりFDISK とFORMAT である。起動フロッピーではじめるのは一緒だが、まずハードディスクの領域を小分けにして「基本MS DOS 領域」と「拡張領域」に分け、それぞれ具体的な数値(9500 <Mバイト>)とか書き込む(参考書では15000 とか書かれていて残りも4000以上ある。それにひきかえ、わが廉価PCのかよわさにがっくりした。最近のPC20ギガのCディスクが普通なのだろう。わがPCCディスクはトータルで972M(泣;;)だった。拡張領域はわずかCディスク全体の2%強に過ぎない。これで小分けにする意味はあるのだろうか?)。このあと、基本領域をアクチブに設定して、電源をいったん落とし、再起動すると、ようやくフォーマットの出番である。Format:Cと書き込む。これを終えてから、ようやくE:setupになる。30分を超えて、みごとにクリーンインストールが出来た!。なにはさておき、インターネットをつなぐためにフレッツADSLCDをインストールし、ついでエアーステーション(LAN)、一発でネットがつながった。メイルの設定は、ご多分に漏れずもたもたしたが、3日分のメイル百数十通がどっとなだれ込んできたときはちょっと感激した。

気になったこと。前回のリカバリでもそうだったけれど、メイルとアドレス帳のバックアップは、どうも扱いにくい。インポートしようとすると、どういうわけか、アプリケーションがないぞ、と再挿入を拒否されるのである。結局、前回同様バックアップデータはつかいものにならず、新たに入ってきたメールの中から友人のアドレスをひとつひとつ採録することになったのである。

 

(98)ひとは石垣

プロジェクト
XNHK)は、TV番組のなかではよく観る方だ。最近描かれるテーマは戦後の経済発展の一翼を担った民間企業(人)の成功例だろう。なにしろ日本は敗戦の瓦礫の中から出発して、世界第二の経済大国になったのだから、そしてその原動力はたいていが民間の企業人の努力と知恵だったのだから、テーマはそれこそ無数にあるのにちがいない。多くのヒーローが現れ、多くの優れた仕事をやり遂げてこの大躍進に貢献したわけだから。それらはわれわれ日本人の優秀さを証明して間然ない。
多くのヒーローが輩出した、この、日本における戦後50年は、将来、明治維新とともに怒涛の半世紀として世界史にも特筆されるに違いない。私自身、もちろん大成功というわけではなかったけれど、やはり戦後の拡大経済のひとつの小さな歯車として、ささやかではあっても、それなりの役割を担ってきたという自負心があるし、それに、私の身近かにもプロジェクト
Xに取り上げられてもよい成功例はある。私自身では、もちろんないけれど。
だから、
TVに描かれる、そんな成功者にわが身を重ね合わせていい気分になっている面はある。多くの戦後世代、この波乱の50年を生き抜いてきたひとたちが、同じ思いでこの番組を楽しんでいるのだろう。もちろん、TVに描かれる例はそれらの代表例、われらがチャンピオンだ。
2/17に放映された「国産乗用車開発−われら茨の道をゆく」はそれらの更に大代表例とでもいうべき、長くアメリカ1極集中だった乗用自動車生産のおかぶを奪い、台数で追い越すまでに至った日本の、その尖兵となった大エポックだった。これは従来よりさまざまな切り口から取り上げられることの多かったテーマだけれど、今回はその原点のような「トヨタ・初代クラウン開発秘史」だ。今回のヒーローは中村健也氏豊田章一郎社長の乗用車生産の夢に共鳴してトヨタに入り、トラックしか造らせてくれないのに業を煮やして「建議書」を役員会に持ち込む。それが認められ、「主査」の肩書きをもらってプロジェクトを立ち上げるべく、自分自身で設計した最初の乗用車の開発にかかる。
中村氏のけたはずれな情熱と勇気もさりながら、一介の自社工員のたわごととはねつけることなく、その会社の存亡にかかわる大転換、大事業を認知し決断し、若者の卓抜した資質を見抜き、その若者に全権を任せるというトップの勇気、英断、これはわが国の風土としては実に稀な現象であり、見事な仕事であったといえる。そんな会社であり、トップであったからこそ今の大トヨタもあるのだろう。

トヨタは私も「トヨタ方式」ではずいぶんお世話になった。見学にも行った。エンジンブロックのラインが、設備自体はさほど金をかけた形跡もなかったが、まさに絵に描いた「トヨタ方式」そのままに、愚直なほどにに1個流しを守って「水のように」ひたひたと流し続けている光景を目のあたりにして感激したものだ。これもひとりの優れた知性、発想を会社が全身で支え、ひたすら信念を貫いて推し進めているという、息を呑むような見事な姿だった。そんな筋の通った実直な会社であるからこそ今のトヨタがあるのだろう。

時あたかも戦後復興期。外国の技術を導入して乗用車生産をはじめる会社が続出し、また、トヨタ自身へもフォードから提携の話が舞い込む。大きな岐路にたった会社は、結局初心を貫くべくそれを蹴り、背水の陣を敷いて取り掛かった自前の技術による乗用車開発は、何度も頓挫の憂き目に直面する。労働争議、開発資金の枯渇、会社倒産の危機もあわせ、プロジェクトは困難と試練の連続だった。
部品2万点に及ぶ乗用自動車は、素材工業、工作技術、生産技術等現代産業の総合的産物というべき製品であり、当然ながら彼らが直面した問題は、番組で描かれた困難、ばねの折損、溶接の外れ、ボデイのプレス絞りの不調の3点だけだったはずはない。それらの数十倍、数百倍の困難、隘路、トラブルがあったはずだし、それらを乗り越えるために、中村氏(蔵書1万冊といわれた勉強家だった)の不屈の精神と知性はフル回転したに違いない。
結局、それらの問題点を見事に克服し、完成した国産車クラウンは、ロンドン−東京間5万キロを完走してその優秀さを証明するに至る。その完走祝賀パーティを早々と抜け出して、自宅へ帰った山本氏が愛した時間は、ごろねの読書だった。

役員への要請を固辞した氏は、その後、自社のメーンフレームコンピュータなどを駆使し、再び、あるひとつの斬新な構想による自動車の研究に没頭しはじめる。以来37年間続いた研究(平成7年死去、合掌)は、今年モデルチェンジを果たし、米国現地生産も計画されている世界最初の一般市販ハイブリッドカー、トヨタ・プリウスとして結実したのだった。




(97)まともなひと

養老孟司氏の本が売れているという。そういえばたてつづけに新刊が出て、本屋の目立つ場所に並んでいる。こういったムードには乗らない私も、ついつい買ってしまうのはどういうわけか。今度買ったのは「まともなひと」中公新書‘03/10初版、’04/1 9版!。ごく最近、シリーズで雑誌に書かれた、教育問題や虫のことなど氏の専門のこともあるが、小泉首相ブームとか経済問題、環境問題とか「9/11」以来のテロリズムとか、いわゆる時事評論的なものを相当部分含むエッセイが30篇。「バカの壁」よりも氏のひととなりが直接わかるのは、それら皆がひとしく出会い、よく知っている近年のトっプニュース、世相を俎上にあげて直截に、存分に語っておられるからだ。それぞれ実にもっともでわかりやすい。もちろん毒にも薬にもならない専門ばかが書いているのでなく、その道には素人であられる氏が、あくまで素人の目で見、感じたことを率直に書いているのが新鮮で、また痛快といえる(そういえば「毒にも薬にもなる話」という氏の同傾向の著書があった)。
もちろん素人とはいっても、日本の最高学府の中枢で40年間ずっと考える仕事をされていたわけだから、どんな問題でもその構造を的確に把握して解剖してしまう。つまり問題の解決の糸口をつかんでしまうのだ。それで、われわれは難問の中身を知り、あっと驚くほど理解が簡単になり、わかったような気になってしまう。この快感はまことに健康にいい。氏の持論である共通した心の持ち主なら、即座に理解できるはずの内容ばかりである。
確かにそうなのだ。個性万能の世間だけれど、教育の基本はまずひととひとが十全に分かり合う、理解しあうということなのだ。まず心を共通にしなければ、議論の端緒もつかめないではないか。心を共通の場にするために言葉を学ぶのではないのか。外国語を学ぶのも、もちろんそのためなのだ。心は多分、言葉で成り立っているのだから。

たとえば氏は「ああすれば、こうなる」的思考、ならびに行動を批判する。目先の利益だけに汲々した考え、利益誘導的行動を嫌う。いや、戦後ずっと日本全体がそんな方向ですすんでおり、利己主義金権主義が当然という風潮だから、氏の長かった官位奉職時、そんなあたりまえの言動はとかく浮き上がったものになってしまったのだろう。想像はつくけれど、そんな愚痴がいまだに出るところはよほどみやづかえが辛かったのだろう。

たとえば日本医師会が診療報酬の問題ばかりを議論して、医療制度の改革に積極的でないという事実の批判があるけれど、氏の立場としては勇気のいる発言ではなかったろうか。医が算術になり仕舞ったというのは巷間にひろく行き渡った常識であるが、氏のいわれる、医師会にはもっと自分の専門に関すること、例えば脳死について、あるいはらい予防法に関する、HIVの問題など、そんなことを議論してほしい、とは正論だろう。
「まともなひと」という本書の表題にもなった一文がある。氏によれば「まともなひと」とはどんなひとか。かなりそらせているからわかりにくいが、学者では河合隼雄氏、団塊の世代では橋本治氏、氏の時事評論のまともさをわが身に引き比べて書いているらしいところが面白かった。他にも名前が出ていたが、この辺でおく。むしろこの文は後半に重点が置かれている。養老氏の専門である脳の働きについて。

われわれは人生の1/3を眠って過ごす。寝ている間、意識はない。その意識がすべてになるのが近代社会、都市社会、われわれの社会である。意識は意味を追求するが、追求している意識のほうは限界を心得ない。夜になればあっという間になくなってしまう。(眠りの意味は不明である。意識はそれに対して無力である)。

----中高年男子とは、そうした意味をいわば無理にでも自分の仕事に与えながら我慢して仕事をしてきたひとたちであろう。---それなら、その仕事の意味とは何だったのか、それに素直に答えられるだろうか。---人生の意味を問うというのは、若者たちの特権というわけではない。---それは高齢になってもひたすら問わねばならない、大切な問題であろう。それでなければ、何十年も辛抱して生きてきた甲斐がない。それに正解があるなどと、私は思っていない。しかし、年寄りが若者に答えるとしたら、そういうことしかないのではないか。----
私が氏に惹かれるのはこんなところである。歳がいってから「人生の意味は?」なんて考え込む人間は、大体よほどの哲学好きか、生きるのが辛いほど悲惨な目にあったひとくらいのものだろう。大抵が「もう手遅れだよ」とTVのまえでうたたねを決め込むか、えろ週間雑誌に沈潜するだろう。考えることはそれほどエネルギーを要するし、面倒なだけで「ああしても、どうもならない」ものなのだけれど、やはり、まじめな人間にとって、それはやらねばならないことなのだ。そのこころがけが肝心なのだ。

私が勤務している会社では「喫煙ブース」設置ブームである。われわれ非喫煙者連が一生懸命仕事をしているのを尻目に、ひまをつくってはその「低気圧電話ボックス」にこもって喫煙を楽しむ何割かの幸福な人間たち。これが不条理でなければ何なんだろうか。私が冗談に、ブース設置の諸経費を少しは彼らで負担すればいいのに、と「非喫煙者(もと喫煙者)」の親しい同僚にぼやいたら、個人の趣味に属することへの、そんな誰も言わない(先鋭的な)こと(嫌味)は言わぬほうがいいのでは、と彼からたしなめられた。
あるがままの社会の姿に順応し、不平も噛み潰して言わないまま、黙って消え去っていく、そんな我慢強い平均的日本人が「美徳の権化」であり、望ましい人間だというべきなのだろうか。もちろん私だってそれを当事者に面と向かっては言わないだけの慎ましさは備えているのだけれど。



(96)H・ニュートン



どんな文脈でいわれたのか、今となっては記憶にないけれど、
「ヌードを撮るといったって、なかなか難しいものなんだ。まず、適当なモデルを見つけることからが、なかなか至難なことだし。」
と愚痴のようなことを呟いておられたのは、「エーゲ海に捧ぐ」で芥川賞を得た国際的な版画家の池田満寿夫氏だったと思う。もちろん功成ったあとの発言だったし、私はこんな有名人でもそうなんだなー、と意外な気がしたものだ。

確かに、今日、日本では異常なほどのヌード写真集ブーム(ひところほどではないけれど)だし、若い女性が簡単にヌードを披露するのも日本という国の特殊性だと思うけれど、池田満寿夫氏ほどの芸術家になると、どんな女でもいい、ヌードでさえあれば、という一般男性の鷹揚さとは異なった(厳しい)感性の持ち主であったろうとは容易に想像できる。「エーゲ海--」(の小説)を私は読んだかどうか心もとないのだけれど、あれはヌードを撮影しようとしている作者の日常描写から書き出されたと記憶している。氏のヌード作品(その小説でも)は記憶される限り白人の美女ばかりだったようだ。「山田五十鈴のヌードを撮りたい」というような奇怪な台詞をのたまったこともある氏だけれど、その審美眼は案外(というか、常識的に)通俗的だったように思う。
池田氏はヌードモデルとして白人の女性を選ぶことが多かったのだけれど、そして街にあふれているヌード写真集のモデルは当然ながら日本女性がほとんどなのだけれど、やはりプロフェッショナルが、ここ一番というモデルを選ぶなら、やはり白人女性になるのだろう。もちろん白人女性一般としてはさほどのことはないだろうけれど、写真モデルとしてのあちらのプロ女性は、日本女性(一般に写真誌に載るモデルであっても)などとは(まったく残念なことだけれど)格段に女性としての洗練度、特殊化が著しい。つまり背が高い、足が長い、腰周りのメリハリがすさまじい(ウェストが細く、尻が豊かで締っている)、乳房が巨大で形が見事だ、などなど、まったく人種が違う(本当は同じホモ・サピエンスなのだが)ということを実感するのである。この件に関してアメフトやラグビーで(日本代表が)大敗する以上の敗北感を抱くのは私だけだろうか。

欧米ヌード写真家の大御所ヘルムート・ニュートンが自動車事故でなくなったそうである(‘04.1/23)。享年83。合掌。
彼の最近の作品を沢山見たけれど、美的なものは感じられなかったし、あまり心に響くものはなかった。新進気鋭のころはそうでもなかったのだろうけれど、彼がどんどん偉くなって、何でもできるということになれば、素材としてのモデル女性にどんな要求でも出せるし、何でも好き勝手に撮れるのだ。そんな気ままさが、ああいった猥褻なだけの写真を沢山残すことになったのだろう。
多くの芸術家が老年性の退廃を示すものだけれど、彼もそんな一人だったのだろうか。
H・ニュートンが身辺で使役していた一級の欧米モデルたちは、その素材としての美しさ、女性らしさによって、どんな撮り方をしたって見事な女性としてのエロチシズムと猥褻感を失うことはないだろうし、池田満寿夫氏でなくとも、ああ、もったいない、とため息をつくだろう。
中では私が気に入った数少ない1枚を掲げて見た。多分、足を長く見せるようなトリックは使っていないのだろう。

(95)リカバリ


ずっとPCの調子が
おかしかった。‘00/11に買ったIBM製だけど、この半年、めっきり不安定になった。
フリーズをする。発色がおかしくなる。動きが遅い。エラーがしょっちゅうだ。
ことにHP編集用のFPEフロントページエクスプレス)のエラーがひどく、書き込みはいつもタグ画面でやっていた。
メモリーリソースはいつも30パーセントあたりをうろうろしていた。
Me
が動くもう一台のPCがあるので、これをサブと娘用にして、だましだまし使っていたのだが、とうとうXディが来た。
インターネットを見ようとするとかちかちかちかち画面が震えてつながりにくくなった。
Me
の方は異常なしだから、これはもう駄目だ。断末魔のあがきなのだ、と直感した。
でも、PCは高価なものだし、3年と数ヶ月で買い替えなんか出来ない。
もったいない。ではどうするか?
自分に(多分)出来ることはハードディスクの初期化、ソフトの入れなおししかない。
リカバリーだ。
一度はやらねばならないと思っていたけれど、それが現実になった。
それで直るかどうか自信はなかったけれど、ともかくものはためし。
大方のバックアップはとってあったので、娘のファイル数本を吸い上げたあと、
IBM
が用意してくれていたリカバリーCDを挿入してはじめた。
試合開始PM4:30
黒い画面に縦スクロールの文字が下から上へ、永久に続くかと思うほど流れ続ける。
ハードディスクのフォーマットと基本ソフトのインストールまで勝手にやってくれる。
何度も何度もシャットダウン、再立ち上げの繰り返し。30分強で終わった。
できた。
ま、ここまでは予定どおり。
あとの周辺ハード、ソフトのインストールが大変なのだ。
CDRW
、プリンター、スキャナーのほかは全部つないだままやってしまった。
何度も何度もシャットダウン、再立ち上げの繰り返し。
これは、みな最後に一緒にやればいいのだと後で気が付いた。
ワードやエクセルが入っていないようだったので、別途CDでオフィス2000をインストールした。
ワープロとワードの互換ソフト、デジカメの吸い込みソフト、そのあとでウイルスバスター。
ようやくバックアップしていたHPコンテンツなんかをロードした。
いよいよ難関のADSL、つまりインターネットをつなぐ仕事。
私のIBMは‘00製で、ADSLに対応するには、内臓するソフトのスイッチを切り替えてやる必要がある(74)ADSL始末記参照
これは立ち上げ時、セーフモードでやる。
そのあと、ADSLインストール用のCDを挿入して設定などを変えていく。
無線LANも入れる。
途中でおかしくなり、セーフモードでの文字化けが始まったときは、
世の中の終わりか、と思った。
何度か入れなおして、何とかネットがつながった。
これは半年まえに苦労したもので、身体が覚えていた。
ともかくネットが通じたことで、
MS
のサイトからエクスプローラ4.0を6バージョンにアップしなおした。
以前2,3時間かかった記憶がある。
さすがにADSLは早い。6,7分で完了。
FFFTP
HPへのアップロードソフト)の条件書き込みがわからず、
プロバイダ(DION)に電話で聞いた。
ともかく3年前の経験でもう忘れている。
メモしておいたはずだったが、紛失していた。
なんとかこれもクリヤー。
一番苦労したのはメールソフトの条件出しだった。
元来これは未経験だった。
基本的にデーラーでやってくれていたのだ。
これもあらかじめ数値などメモしておけば良かったのだが、
気が回らなかった。
準備不足を実感した。
これもプロバイダに電話して解決した。
DION
は親切だ。24Hいつでも対応してくれる。
食事やら、友人から長電話などがあって途中中断したけれど、
すべてが終わったらPM11時を過ぎていた。

結果、PCは再生した。
いろいろ失ったファイルも多いけれど、
ま、ないならないでやっていけるのだ。
すっきりした。
問題点はおおむねみな解決した。
動きも速くなった。
システムリソースは65%にまで回復した。
成功だった。
まだまだ使えるだろう。
TJ
ムックの「98MeカリカリTUNEUP」’03/10 によれば、
98
のサポート終了は‘05.1/16だという(Meは同年12/31)。
少なくもそれまでは十分使えるだろう。
うまく動けば、更に長く使ってもばちはあたらないだろう。


ひとつだけ気になったことがある。
F
PEが見当たらないことだ。
もっともMeの方にコピーしているのでとりあえずは問題はないが。
どこへ行ったのだろう。
それとも、もともとバンドルソフトの中にはなかったのか。
もう一度探してみよう。

ともあれ、結局、何事も経験だと実感した。
自信がついた。

今度はMePCをリカバリーしてみようか。
システムリソース15%なのだ。
なんとか動いているのが不思議なほどだ。
それとも、問題が深刻化してからにしようか。





(94)年賀状のこと



毎年の暮れは、年賀状では苦労する。今年もちょっと早めに準備したつもりだったけれど、やはり投函したのは早くもなく
12/27。今年(要するに‘04)はメイルの会のひとたちの間では(年賀メイルで代行する)協定が結ばれたので一安心というところ。でも、私自身が遅くまで宣言しなかったからか、何人かの方から思いがけず戴いて慌てた。申し訳なかった。
賀状が虚礼だという説に私も幾分与みしたい気分はあるけれど、やはり元旦に年来のご無沙汰をリセットできるこの風習は悪いものではない、とも思う。かなりの部分が縁戚関係であり、我が家の基礎的社会資本の維持管理コストとして、そんなお付き合いをする友人があってもいいではないか。それに、私のちんけな社会的な地位にふさわしく、妻と合わせても、さほどの枚数を出すわけでもないのだけれど、歳を食うごとに少しづつ増えていることは否めない。もっとも、日本人が年末に書く賀状の枚数は、ずいぶん多寡のばらつきがあるようで、ある同輩など、私の1割に満たない枚数でことたれりとしている。平均的にはどれほど出されているものだろうか。今年は国民一人当たり20通強で、毎年減ってきているというが、これでは個人の平均枚数はわからない。
去年も書いたけれど、私は毎年下手な木版で賀状を作っている。下手な上に、ぎりぎりの日程でやっつけ仕事をするので、毎年、出来たものを眺めて自己嫌悪に陥るのが常だ。今年も、新春からこんなグロテスクな絵柄を送りつけられては、さぞ気分が悪いだろう、と気が引けたけれど、そこは年の功の厚顔さで宛名を書いてしまった。
厚顔ついでに、今年のテーマを書いておくと、「見ざる、言わざる、聞かざる」をもじって、おおおいに観、叫び、よく聞こうじゃあないか!ということだ。
ネットでも大いに発言していこうとかいう意味である。

年末に昔の賀状などを整理していたら、過去に刷った賀状の反古が若干出てきた。迷ったけれど、愛嬌としてアップした。これをみれば、しみじみ私の技量も心意気も年を追って衰微しているんだな、と悲しくなった。
でも、あえて出すのは歳の功、厚顔のなすわざである。

93)元日登山

都会に住まわれる皆様には申し訳ないが、我が家は自然に近い地の利がある。
もともと我が家の土地台帳は(ひょっとして今も?)山林という地目登録がなされてあったと記憶する。かなりの傾斜地で、もちろん生活には不便だけれど、車社会がカバーしてくれる。
引っ越した当座は周りに森が多く、きつつきやらふくろうなどの鳴き声(?)がしきりだった。
その後、三方で大規模な宅地開発がなされ、森とともに彼らも姿を消した。
最近の工事では、一年足らずで近隣の山ひとつをブルとショベルで突き崩し、
五十区画ほどの宅地を作ってしまったのだ。
岩盤のない泥山だったけれど、人間の営みが半端でないことを思い知ったことでもあった。
そのディベロッパーもほどなく倒産した。

それにしても、まだ自然は残っている。

我が家から徒歩で三時間ほど頑張ると、
ひとつの山のピークに達する。
筑豊地域でのシンボルにもなっている「福智山(標高900.8m)」だ。
北九州方面の山へ縦走するルートも開けていて、
多くの楽しみかたができる。
一山だけならさほどの装備もいらず、日帰りで楽しめるので愛好者が多い。
週一回登るといわれるご近所の初老もおられる。
私もよく登る。

この山頂で初日の出を見ようという気になったのは、
私も初老になってからだった。
毎年ではない。
雨が降ったりしてまったく絶望的なときはもちろんやめる。
そうでなくても気が向かないとき、深酒したりして体調が悪いときは止める。
そんな気ままな元日登山だから、
お日様の方でもそれにあわせて気ままなもので、
なかなかお出ましにならない。
これまで何回登ったか、その中でもお顔を拝めたのは1、2回だろうか。
雨に降られたこともあった。
今年はいいらしいと聞いて、期待して登った。
主なルートは2つある。
赤池町の上野(あがの)ルート
それに我が家ちかくの福智ダムを巻いて登る内ガ磯ルート
わが家からだと多分片道7,8キロの道のりだろうか。
以前はかなりの中腹まで車で登れる林道が開放されていた。
最近新しいダム(福智ダム)ができて、車が制限され、
ルートが長くなった。
上野ルートはその半分以下であり、人気がある。
もちろん私は家から徒歩の内ガ磯ルートを選んだ。
30年来のキャラバンシューズを履き、
午前3時15分スタート。ちらほらと同行者もみえるが、
山へ入るとまったく孤独になった。
懐中電灯の光だけが頼りである。
大塔の滝の休憩所4:30、十分休憩。
2組の先行グループに追いつき、また離される。
これから胸つき8丁、無人の森をさ迷う気分。
上野ルートと合流する上野越5:30。

賑やかな老若男女のグループと出会う。
上野ルートからは続々と登ってくる。
余り消耗していないのは、よほど距離が短いのだろう。
4,50分で来るらしい。
ちょっと不公平だという気分もある。
十分休み、子供たちの多いグループのあとにつける。
しかしそれからがきつかった。
年来の怠惰を少し反省。
少し登っては休むことの繰り返し。
もっとも、多くが同じような状況らしい(自己韜晦)。
頂上まではずっと切れ目なく登山者が続いている感じで、
抜かれたり、抜いたりを繰り返し、
ペースを強制されないのは楽だ。
グループ登山ではこうはいかないだろう。

山は一人が楽だ。

もっとも、数日を要する大きな山は一人では危険だろう。
若いころ登った白馬、唐松縦走、立山、黒部ルート、富士山
皆、友人の計画に乗っただけだったけれど、
あのころはまだひとなみに体力があったような気がする。
今はまったく自信喪失だ。
なんとか頂上にたどり着いたのが6:30。
ま、計画通りか、と自己満足で途中の辛さを忘れる瞬間だ。
スイートスポットは既に皆占領されており、
寒風が吹きすさぶ中で日の出を待つ。続々と後発組が登ってくる。
若者が多い。子供たちも、犬も2匹、走り回っている。

行橋、周防灘方面はガス深し。

7:20。予定時刻だけれど、まったく光の気配なし。
NHKTV
のカメラが来ていたけれど、さぞ口惜しいだろう。
若者たちのヴァーチャルチアーが始まって、
一時華やいだ。

これが本物の日の出だったら、私も万歳するだろう。
7:35。寒さもひとしおで、希望もないので、
下山の行列に加わった。
靴下が薄かったし、足先が疼いた。
豆ができたようだ。










(92)ROYOのことなど 



PCの調子がいまひとつなのだけれどまだ解決していない。
作品目録が大きくなり過ぎたのか、エラーが頻発する現象がある。

ページの更新に苦労することもあって、年末にインデックスページの改造をした。
それでインデックスを分割したのだけれど、やっぱりエラーはなくならない。

1度最初から作り直す必要がありそうだ。
それはともかく、年来の計画だった、ルイス・ローヨの挿絵を入れ、
地をアダルトサイト定番の黒にした。
結局、わがサイトもひとさまなみになったということか。

ローヨはすばらしい。女性のイメージは100%私の好みだし、SF的なものも、
中世的なものも、ファンタスチックなものも、すべてが現実にあるように、
細部にわたって生き生きと描かれる。その完璧なテクニックと
あいまいでないイマジネーションの豊かさは他の作家に見られないものだ。
警告ページのものは「MALEFIC」(災厄とかいう意味らしい)、
インデックスのものは「EVOLUTION」(革命?)から採った。
著作権に触れることは承知の上だけれど、
これだけ宣伝しているし、縮小している。
第一、いまどき彼のかなりの作品の大判がネットで見れるのだ。

私は彼の画集すべてを手に入れたいと思っているけれど、そして今8冊入手し、
最近また2冊予約しているけれど、まだまだ不完全らしい。
いずれ(来年中には)彼の評論を書こうと思っている。
もっとも、彼との出会いが今年だったということではない。
廉価のお絵かきソフトを買って絵の練習をしたけれど、
ものにはならなかった(泣;;)。

もっとも、ローヨと張り合おうということではない。
そんなことは最初からむりだろーよ。

アメコミで「CAVE WOMAN」(右図)を見つけたのは成果だった。
日本にはこの手のヌーディティ的コミックがない。
おちゃらけか、いっそポルノチックに堕したのがあるくらいだ。
もちろん「CAVE--」に満足しているわけではないけれど、
感覚としてはかなり近いようだと思う。

それにしても、なかなか趣味が一致しないのは覚悟の上だけど、
誰か、絵を描いてくれないかなー。














(91)この1年’03



去年も書いたと思う。同じパターンで書くのは気が引けるけれど、
やっぱり総括しておきたい気がしたのでここに書きとめておく。
去年は創立記念日あたりで書いた記憶がある(ネットの1周年)。
ここでは’03年(とわがHP、ネット生活)とかいう意味をこめて書こうと思う。

今年特筆すべきことは、「掲示板」の開設、そしてADSL
無線LANの採用はHPとしては特に関係ないけれど、
それぞれ成功といっていいだろう。
その都度コメントを出しているから、長くは触れない。
結局、わがサイトもひとさまなみになったということか。
今年のHP新作は長編「マヤ・パピヨン」(マヤ三部作-海、砂漠、密林-の最後作)、
これはちょっと引っ張りすぎた感があるけれど、あと1章で完結予定。

来年初頭になるかも。

他に20万ヒット記念の短編「ラリ、または海の贄」、
評論(というよりテーマ随筆)「美しき諍い女あれこれ」、
紀行文2編「臼杵」「山陰」は久し振りの鉄道ひとり旅3月、11月の成果。

今年もHPより他のサイトに書いた短編、中篇が多かった。
年初に「妄想劇場イネの十四郎様に勧められて書いた
地下水槽の人魚」は前回書いたが、
続いてそのコンテンツを引き取られた「宵闇桜」の彩音様にプレゼントした
短編「吊革の女」。これは後記「より子シリーズ」の一環である。

ぴぴ様の「投稿小説」からお誘いを受けて、かなり書いた。
レンタル」、「アリーナの妖精
これらはわがHPとは雰囲気が異なったもので、愉しく書けたけれど、
あとが続かない。
それでなんとなく出来た「まんだら」以降の連作「AV女優」と、
その後日談「ヌードモデルマヤ」を載せていただいた。
これはくどいけれど前記の「吊革−−」も含むシリーズである。
今後もこの連作は(たいしたものではないけれど)惰性のように
続けられるように思う。

インランサイト」真北様のサイトでリレー小説として即興に書きこんだ
女教師凌辱物語」は去年のことだったが、これを真北様引退後
ちょっともったいない気がしたので、少々手を加え、前記「投稿−−」に
載せてもらった(11/29)。
より子先生危機連発!」結果なかなか評判がいい。
12月はずっとランク2位をキープした(600ヒット/日)。
なにしろ毎日5,6千ヒットを誇る強力サイトである。ネットサーファーたちが
おおむねどんな嗜好なのかが分かるということでも、凄く面白い、
刺激になる経験だった。
今後もこちらにはお世話になるだろう。

アマゾン・プりズン」様のBBS「ダークな裏企画」にはまたお世話になった。
密林のマヤ・ゲリラの贄」(いわゆる3部作とは別)
もっとも、ここでの反応は余り芳しくないので、今後書く気はない。
最初の作品「戦士マヤの危機」はわがHPに手直しして載せた。
今後もぼちぼち引き揚げて転載していこうと思う。

R18」有料サイトにお世話になった。ここには計3編を出していただいた。
今年は1篇「秘宮の黄金」(「インドの豹」シリーズの1).。
前出2編ともにそれぞれわずかだけれど受け入れられたことは
成果といえるけれど、やはりサイト担当方としては、作者と作品の数を
揃えられなかったこともあり、思ったほどの成果はなかったということで
打ち切りになった(8月)。

残念なことだった。


今年はかように私にとって多産ともいえる年だったけれど、
質的には余り飛躍のなかった年でもあったと思う。
今やっていることの延長線上に何があるのか、
果たして何かがあるのか、
という迷いのようなものが払拭されない。

プロ作家「S.T」氏から教わったことは、
小説の「実用性」について。

「抜け」なければ、存在価値はない、といわれる。

いわゆるその方面の小説は濡れ場で埋まるということになる。
当然ながら、「抜ける」文章はそれなりの力が必要だ。
しかし、それだけでもつまらない、と私などは思う。
生意気なことを言えば、小説作品としてのまとまり、
大げさに言えば、芸術性がほしい、と思う。
そんなものを私は書きたい。
(一生書けないかもしれないが。)

でも、それで抜けたら、最高だ。

「抜ける」という文章の力と芸術性の両立は可能なのか。
私は可能だと思う。
いや、それは相互扶助の関係にあるはずだ。
単なる実務文章で「抜ける」はずはない、と思う。
もちろん、まず的確な実務文章力が要求されることは確かだが。
芸術性はその上にある。

芸術性とはなにか?

作品としての完成度、面白さ、などだろうか。

ひとつの方法は、ストーリーを面白くすることだ。
面白ければ、抜けなくなるかもしれない。
いや、そんなことはないだろう。
お互いに協力しあって「いい作品」ができるはずだ。
ベクトルは同じ方向を向いていると私は思う。
私は、抜けなくても、それ以上に面白ければいい、と思っている。
その方が難しいことは確かだ。

飯沢匡だったか、「より猥褻に書こうと思えば、いくらでも書ける」と言った。
結局、この方向だけでいい作品はできない、ということになる。
もっとも、客はこの方に多く着くと思う(悪貨は良貨を駆逐する)。
しかし、猥褻一辺倒ではいずれは飽きる。
だから、面白くなくてはならない。
ストーリーとしての面白さも当然のことだけれど、それ以上に
やはり小説としての面白さ、完成度が必要だろうと思う。
猥褻であって、筋も、小説自体も面白い。
そんなものがひとつの理想だろう。

しかし、「猥褻」自体がすごく広い、多様な世界なのだ。
あるシチュエーションで抜けるかどうかは、読者の好み次第だ。
だからこそ、より一般的な興味「小説としての面白さ」が必要とされる所以なのだ。

’04年もこの線でがんばろう。


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