激白(111)海のサブー へ進む


(110)何でも見てやろう

小田実は顔からやってきた。「べ平連」(“ベトナムに平和を”市民連合 アメリカのベトナム戦争に反対する団体 ‘74年解散)代表だったか、ともかく反戦の論客、草の根民主活動家として私にはおなじみの顔だった。しばらく朝日系だったかの討論番組「朝まで生テレビ」を毎月見た時期があり(今でも続いているらしいが、私自身はまったく見なくなった。)、西尾幹二氏などと一緒に(思想はだいぶ離れていたようだが)常連の顔だったと思う。
あれは阪神淡路大震災のあとだったか、うろ覚えで書いては申し訳ないのだが、誰か、右派の個人を完膚なきまでに叩きのめしている(もちろん言葉と勢いで)光景を見、その主張する趣旨を別にしてずいぶん横柄な、傲慢な人物のようだといった印象があった。やりきれない、という印象をもった。彼が文芸の人だとは到底思えなかった。作家だとは知っていたが、その書き物には興味はなかった。ますます興味を失った。
最近彼の公式サイトを初めて覗いて驚いた。古希だという。風格の出た近影も見た。もちろん誰だって歳をとる。かの歴戦の闘士もやはり例外ではなく、老兵になったのだ。もっとも、まだまだ消え去りなどしない現役の兵士なのだ。イラクへの自衛隊派遣に反対するという声明文があった。それはなんとなく懐かしい小田節ではあった。

以上はまくらとして無視していただく。「何でも見てやろう」は私が意識した最初の大ベストセラーで、しかし、その時期が早かったせいもあり(私が中学生の時に初出)それゆえに(小田実氏の品性とは関係なく)読む機会は訪れなかったということだろうか。それに、そのころから私には変な習癖があったらしい(多勢が読むものはむしろ遠ざける)。「何でもみてやろう」は、余りに有名になりすぎた国民的ベストセラーだった。

それでも、北杜夫の「ドクトルマンボウ航海記」は読んでいる。高校の時、学校の図書館から借りて読んだ。これだって立派なベストセラーだった。北杜夫はそのころ立て続けに読んだ。「楡家の人々」から、「昆虫記」「青春記」など、マンボウシリーズの多くを楽しく読んだ。わが高校の図書館は蔵書数も多く(多分、市内で最大だった)立派なもので、その気になれば「何でも見てやろう」も当然あったはずだけれど、目に入った記憶がない。多分、人気が高く、目につくまでに誰かれなく借り出していたのだろう。見つけていれば、ひょっとして読んでいたのだろうか?そんな偶然の出会いといったものも読書、本にはあることが多い。もちろん、機会を多くすればするほど“いい出会い”が増えるだろうことは道理だ。そして、出会いというものは、ずいぶん回りまわって実現する場合もある。
今度小田実の代表作「何でも見てやろう」を読むことになったのは、例の「深夜特急」、沢木耕太郎氏がそのヒッピー的世界旅行の(たぶん)動機となったこの著作に改めて興味を持ったからだ。もっとも、氏がその旅行記について触れたその段(小田がギリシャの田舎で歓待されたエピソードについて書いている「新潮文庫版5 客人志願」には小田実の名前など出ていないし、「何でも--」の著作そのものについてもさらりと、なんとなくにおわせるように書かれているだけである。

もちろん、読んだひとにはわかるのだ。でもそれを読まなかった私もそれとわかったのはどんな仕掛けだったのか?氏の別の著作から引いてきたのかもしれないが、しかし、沢木氏がそこに具体的な名前を書かなかったのは、やはりそれが日本人なら誰でも読んだに違いない作品で、誰でも知っているはずだ、という気分があったのだろう。それはあるいは読みすぎかもしれないけれど、今度読んで、沢木氏が感動したのは、そして多くをそこから得、大いなる影響を蒙ったのは、なるほど、それだけの名作だったのだ、と私も納得したことだった。いや、面白かった。

いや、面白かったというだけではない。その日本人離れのした著者のずうずうしさ(これを著者の世界無銭飲食乞食旅行というひともいるらしい)、奔放なまでの行動力(これらはまことに私の小田実の第一印象に一致した)、それらが引き起こす物語めく意外性(やはり氏は作家なのだ。著者の白人女性からのあまりのもてようなど、フィクションも少なからずあると見た。)、痛快さもさりながら、40数年を経てなお新鮮な感のあるアメリカ、ヨーロッパ文化論、それらの多くは、おそらくこの人口に膾炙した著書の40年によって、小田実によって日本人全体に敷衍し、常識となってわれわれの中にしみこんでしまっているのだろう。それほどにこのベストセラーが当時の日本を驚かせ、意識を変えたろうことは想像できる。沢木氏もそれらの人々の一人だった。
どこかのサイトに書かれてあった。三大青春旅行記としてあげれば「ドクトルマンボウ航海記」、「深夜特急」、そして「何でも見てやろう」だと。いや、それぞれ私には面白かった。確かに、それぞれ名著だと思う。しかし、私は北、沢木、と来て、小田実を最後に読んだことを幸運だったと思っている。そのスケールと強烈な個性、そして世界に対する突っ込みの強さ、深さにおいて、「何でも見てやろう」を読んだあとで他の2作品を振り返ると、(沢木作品すら)甘い文芸作物として印象が薄くなってしまうのをいかんともし難いのである。
この作品が戦後の旅行文学を代表する名作になったのは、やはり著者の若さ、なにものにもこだわらない透明な知性といったものが、しかもまったく庶民の視点から、ひとりの若者の旺盛な好奇心が庶民の気分をそっくり代表して当時のホットな世界と対等にわたりあい、眺めてまわり、委細報告してくれたということだったろう。もちろんその著書としての成功如何にかかわらず、そこに小田実という戦後世代を代表するオピニョンリーダーの優れた資質を見ることが出来る。




昭和33年、小田実は米国フルブライト財団の留学生に選ばれ(というより、彼の方でこの旅費、滞在費まで向こう持ちのアメリカ留学を選んだということだろう。動機としては、世界的に大きな人工物や自然があるアメリカをピンからきりまで見てやろうということだった)、ボストンのハーバード大学に入り、1年を過ごした(これも一般にいう留学生とは名ばかりの、ずいぶん自由奔放な日々を過ごしたようだが)あと、そこを起点にして追われるように(不良学生としての素行が災いして)米国を出、1日1ドルの貧乏旅行へ、世界放浪へと旅立つ。「何でも--」はその彼が米国をはじめ極端な貧乏の中でほっつき歩いた欧州、アジアで見聞したこと、考えたことを880枚(私が古書店で見つけた角川文庫版は、7年後のべ平連としての世界再訪など付録が多くあったから、もっと多いだろう)につづった旅行記、あるいは氏独自の饒舌文化論、文明随想(前半の、アメリカ見聞記としては当然ながら過去の歴史に入っているものの、大きなアメリカ文化論は、今読んでも古びては居ない)とでもいえるものである。
アメリカ文明論もさりながら、私がことに気になった部分は、彼がもっとも興味をもちなお学ぶべきことが多いという欧州文化(小田実の大学での専攻は古代ギリシャ語だった)、文明、それが他の古い文明国アジア、イスラム、アフリカをさしおいて、まがりなりにも日本に根づき、それらの欧化にさきがけることになった不思議を問うた部分である(まだ日本の高度成長がはじまるのは先の話だったけれど、それでも世界各地で日本商社、産業の尖兵が見られ、後のブレークの萌芽であるソニィのトランジスタラジオは既に欧州でも有名になっていた)。それは、当時第3世界を標榜して国際政治で活躍していたネール首相のおひざもとインドの大都市で彼が見た、いや、見ただけでなく、実際にも旅費の不如意から否応なく街頭での寝泊りまで経験することになった、下層の民衆が味わっているけたはずれな悲惨からの想起だった。つまりこんな、素朴ともいえる感想、「日本人の考え方と西洋のそれは、ほぼヒューマニズムというようなものでくくられるかもしれない。そしてアラブ、インドのそれは人間のものではない--」。それは、彼が(そしてわれわれが)否応なしにアジアの一員である日本、および日本人として今後も生きねばならないという現実を思うとき、更に悩ましい気分にさせることになる。

彼らと日本との乖離は、多分宗教の問題なのだろう。そしてそれは今なお、というより、現代においてますます深刻な問題になりつつあることも確かだろう。




(109)心の病気

自分の心がアブノーマル(正常ではない)な状態だと認識している人間は、その実数に比べ、ずっと少ないだろう。心の病気は外からは見えないし、何よりも自分自身が世界標準だと思い込んでしまうのは人間の常であり、少々おかしくても自分で認めなければ、一応は社会的に生活ができる。
それがあるとき外に顕れ、たまたま何か不都合をきたしたとき、否応なしに自分で認めねばならないわけだ。それが犯罪や事故につながったとか、結構破局的な場合、何か前兆がなかったか、予防ができなかったのか議論になるけれど、当然ながらたいていの場合はあとのまつり、ということになる。もちろん、一般論として社会的になされる原因究明や、予防策が講じられるなどを無意味だというわけではない。


私のアブノーマルなサイトを棚に上げて他人をあげつらうのはどうかと思うけれど、平常から暴力に憧れ、血を流すフィクションに情熱を傾ける一群の創作家の心の動きが(ともかくスペクタクルを造ろうということなのだろうか?)私には理解できない。もちろん、多数決でいけば(エロか暴力かの選択では)われわれエロ派は少数派らしいことも認めた上で言うのだけれど、こと世の平和という観点からいけばこちらに分があると思うのだが、どうだろうか。
何にしろ理解できないということはそれ自体劣等であり、辛いことだけれど、「バトル・ロワイヤル」を理解できないというのみならず、それを不都合とも辛いとも思わないし、開き直って何の価値も認められないぞとほざく私の心の動きを嗤う人間は多数派だろうか。

私も、他人に激しい怒り(たぶん、殺意に近いもの)を抱くことはままあるけれど、それはほとんどの場合、自分の(正当だと思う量の)プライドが不当に無視され、著しく傷つけられた時に限るし、それはノーマルな心の動きだろうと思っている。もっとも、これまで実際に暴力に及んだことは(当然ながら)まったくなかったし、これからもないだろうと断言できる。
なぜか、と訊かれるかもしれない。私の場合、怒りの高まりは恐ろしく遅い(多くは数日以上あとになってから)リアクションとして顕れるからだ。私の反射神経を鈍く作った先祖に対し感謝したい。


しかし、そんな感情の激発“以外”の力で他人を傷つけたり、殺したりできる人間が(ドフトエフスキーの小説の中だけでなく)実在する、ということが私には理解できないし、気味が悪いのである(予期できないアタックをどうやって防ぐ?)。もちろん、残念ながらそれは世に存在するのだし、いやでも認めねばならないのだろう。しかし、私はそんな人間を(小説に)描くことはできないし、描こうとも思わない。私の独断と偏見から言えば、それは病気の一種であって、他方、美しい女性を見て、犯したいと思う(健康な、いや、ノーマルな?)気分などとは(同じく犯罪に該当することに変わりないとはいえ)次元が違うと思うのである。

暴力とまではいかなくも、一見普通の人間が理解し難い言動をする、そんな情景を見るのは辛い。気味が悪い、あるいは不愉快になる。これは「理解の外にあるものを見る」という気分がなす感情の動きなのだろう。私自身、以前も書いたけれど、心の病気を患ったことがなかったから、そんな人間に同情心が沸かなかったということなのだろう。
と思っていたが、私もここ数年、ある種の「心の病気」に罹っているらしい。自覚症状としてはこうだ。

ハイウエイを飛ばす。私は(知人に寄れば)意外と飛ばし屋で、結構法定速度をかなりオーバーして走る。それが、最近は以前のように飛ばせなくなった。特に、長いトンネル内ではそれが顕著で、法定速度内に落としても次第に怖くなってくるのだ。異常に緊張してハンドルを握ってしまう。もちろん車自体はハンドルから手を離しても問題ないほどの優れた直進性があることは理解しているつもりなのだが、どうしても緊張してしまうのである。運転する自分が信頼出来なくなってくるのだ。まるで綱渡りをしている気分がこうもあろうという。
毎日通勤に車を使うが、上記の症状は目下長いトンネルに限られているので、日常には支障がない。しかし、先日の長距離ドライブ(鹿児島-宮崎旅行、2日で800Km以上走った)のハイウエイでは対面通行の長いトンネルが何本もあって往生した。

これは立派な神経症だろうが、完治するのだろうか(どのような治療法があるのか)。それとも亢進するものなのだろうか。

目を瞑って片足立ちする老化度のテスト(長く保っていられるほど“若い”らしい)があるが、これと関連するのなら、老化現象のひとつなのだろうか?ではノーマルなものかもしれないが。

斎藤モタ氏が「精神公害 21世紀ブックス 主婦と生活社S47年刊」を書いてからも30年が経過した。心の病気はわれわれが想像する以上に世に満ちている。そして、病気に悩む人間は多い、といわれる。現代社会が、人間の繊細な神経を容易に傷つける危険な状況と“凶器”で満ちていることに疑う余地はない。しかし、外から確認できる病気と異なり、心の病気は同情を惹きにくい。苦しみを分け合うことが難しいし、治療もまた難しいのが通例だ。

世界=人間社会はこれら精神の病いが蔓延することで秩序を維持出来ず、結局破滅に向かうだろうと予言するひともいるのである(立花隆 「子殺しの未来学」 :「文明の逆説 講談社文庫所収」。少年重篤犯罪の多発、テロルの勃興はその前兆なのだろうか。




(108)「銃・病原菌・鉄」


歴史が人間を惹きつけるのはなぜだろうか。もちろん、そうでもない人間もいるだろう。歴史が、単なる過去の事跡の羅列に過ぎない、と言い切るひとはそんな部類の人間だろう。
もっとも、「単なる事跡の羅列」であっても、歴史好きの私なんかにはそれなりに面白いものだ。学校(高3)で学んだ世界史は教師がペース配分を間違ったのか(それとも進学コースではない気楽な授業だという気分があったのか)、1次大戦の前夜、ビスマルク登場のあたりで時間がなくなり、随分教科書の未読部分を残したまま終わってしまったけれど、あるいはその時の経験(生徒ひとりひとりに歴史上の著名人を割り振り、人物についてのレポートをかかせ、授業中に発表させたと記憶している)が私の歴史好きの背景になっているのかもしれない。歴史人物の紹介は、些細な知識の集積に過ぎないにせよ、その集積から浮かび上がってくる一人の人物の、人間くさい様々なイメージが私達に更なる想像をかきたたせる素材になったし、それは楽しい作業だったと記憶している。ちなみに私の担当は、短足で女好きだったというナポレオン3世だった。

教師は歴史を学ぶ意味について、こんなたとえ話をした。

ひとが砂漠の真ん中でひとり立ち往生したとき、生き延びるにはどうするか。まずどちらへ行くか決定せねばならない。そのとき、何をするか。これまで歩いてきた足跡と、その方向を最初に振り返るだろう。歴史とはその足跡だ。

歴史がその足跡に過ぎないのか、それ以上のものなのか、私にはわからないけれど、足跡ひとつとっても、それらの詳細を更に調べ、データを豊かにすることのほかにも、それら素材をさまざまに比較吟味し、科学するという楽しみもある。それは歴史科学とでもいうのだろうか。やはり歴史には違いないだろう。その目的ひとつとっても、「われわれはどこにいるのか、これからどこへいこうとしているのか、それは正しい方向なのか?」という至って正統的な歴史意識のほかにも、環境を切り口にしたもの(「環境文明」)、文明の黎明期の一般論への疑問(「神々の世界」)などさまざまなテーマが考えられるし、追求がなされてきた。それなりに楽しいものだった。

そんな歴史の新しい切り口を開いて評判のいい「銃・病原菌・鉄 上下」ジャレ・ド・ダイアモンド著 倉骨彰訳 草思社刊 のテーマは、「なぜ文明は限られた地域(あるいは人種間)において興り、発展を見たのか?」という、あっけないほど正攻法的なものである。この非常に興味のある疑問がどうしてこれまでしっかり問われなかったのか、書かれなかったのか、不思議にも思う。これまでも様々な話題の著(「セックスはなぜ楽しいか?」など)をものしてきた才人のピュリッツアー賞受賞(‘98)作

歴史に“なぜ?”は禁句だ、ともいう。もちろん、偶発的な事跡が多くの歴史の転換点になったことはあるだろう。例えば、クレオパトラが不美人であったと仮定したところで、それは単なる歴史ゲーム、観念の遊びに過ぎないだろう。しかし、上記の“なぜ?”は極めて重要な、そして興味深いテーマであると思う。そして、どんな通俗的な(正統的なものには単なる事実しか記載されないはずだ)歴史書にも、その深い考察はなされていなかったのではないか。

たとえば、S42に刊行された文芸春秋社の「大世界史全26巻の 1」(三笠宮崇仁著)には、文明のはじまった地域が北緯30度あたりに(日本を含めて)並んでいるという指摘がまずなされているが、それがどんな意味を持つのかという考察はない。ただ1万年ほど前、大河のほとりに農業がはじまり、ほぼ同じころ牧畜が始まった(そして5千年前に都市がそこに誕生した)という淡々とした著述しかない。それは「銃・病原菌-」の著者によれば、文明誕生のひとつの大きなポイントなのだが。
たとえば、このテーマを、あからさまには言えなくも現代の世界を事実上(経済的に、文化的に、軍事的に、)席捲しているヨーロッパ起源の文明の主人である白人の人種的優位性に結び付ける傾向があることも事実だろう。その危険性のために、これまで何となく遠ざけられてきたテーマだったと言えないこともないのだろうけれど、事実としてそれは正しいのか(様々の偏見、逆偏見ともいえる気分を乗り越えて)どうかという、厳密な学問的追求はいずれなされねばならないすじあいのものだった。

たとえば、アメリカ大陸が白人大陸になった端緒である、スペイン人によるインカ帝国征服の事実はあるが、なぜインカ帝国によるヨーロッパ征服がなかったのか。それは単なる歴史の偶然だったのか。それとも、アメリカ起源の文明が、たとえばインカ帝国が逆にヨーロッパを征服出来なかった、はっきりした原因―結果の連鎖はあるのだろうか。

文明の始原はシュメール、西南アジアのメソポタミア近辺、いわゆる肥沃三日月地帯と呼ばれるあたりからはじまったとされているが、それはなぜなのか。どうしてユーラシアではじまり、アメリカではじまらなかったのか。そして、なぜ現代にいたるまでパプア・ニューギニアオーストラリアには、ごく最近まで原始的な石器時代生活から脱し得ない民族が残っていたのか。彼らはそうなるのが当然の劣等民族なのか。
いや、違う。彼らは、個人的には文明最先端の恩恵を楽しむ白人達と能力では差がないし、むしろ原始的な生活をかつかつ生きてきたために多くの面で優れた能力すら発揮する、少なくもなべて同じ人間なのだ、というのが本書のひとつの結論であり、更なる重要な結論へ至る推論のための大きな情報のひとつでなのある。

つまり、彼らの置かれた環境が、文明を発展させる状況ではなかったからだという。

文明を生み出した環境とはなにだろうか。

4百万年前に誕生し、長い時間をかけてアメリカ、オーストラリア、パプア・ニューギニアをも含む全世界に散らばった人類は、約1万3千年前には同じレベル、採集狩猟をこととし、村落に住み小、中規模の集団をなす初期石器人にまで進化していたと考えられる。いわばその同じスタートラインに立った各地の人類の祖先の、メソポタミアの住民が優位に立てた理由はなにか。

著者は自身の幅広い専攻(医学で博士号取得、生理学、進化生物学、生物地理学からフィールド研究の経験も豊富である)に加えて最新の遺伝学、分子生物学、言語学等の成果をフルに活用し、この大部の労作を完成させた。確かに、それほどの最新科学の成果がバックにあってこそ、この「人類史最大の謎」が解き明かせたのだといえるのかもしれない。

この著書のキャッチフレーズが「人類史の壮大なミステリーに挑む」とあるとおり、私も上下2巻の大作を興味のおもむくままに2日2晩で一気に読んでしまった。だから、これから読まれる読者諸氏のために、このミステリーの種あかしはせず、内容詳細は書かずに置こうと思う。
奇妙な表題「銃・病原菌・鉄」は、ヨーロッパ人が新世界アメリカの当時の文明をいとも簡単に滅亡させた理由を端的に述べたものだ。



(107)コンサート

柄にもなく聴きに行くのはクラシックが多い。先日のユメニティのおがたTVQマイタウンコンサートとしてのチェコ・フィルハーモニー6重奏団コンサート。手ごろなチケットの値段はいいとして、地味な内容(室内楽曲にはポピュラーな名曲はあまりないが、最初の「G線上のアリア」第2曲「白鳥」、スラブ舞曲(ドヴォルザーク)など弦楽の名曲も配慮された内容ではあった)で、客が集まるだろうかと他人事ながら気になっていた。室内楽は、熱心な聴衆もいるけれど、フルオーケストラに比べれば一般の人気はいまひとつなのだ。

十年前に解散した「福岡モーツアルトアンサンブル(カルテット)」の、年4回の定期演奏が直方市でも持たれた時期があった(私もボランテアで運営にちょっとお手伝いした)けれど、客はいつも50人に満たなかった。もっとも、今回の演奏会の目玉であるドヴォルザーク:ピアノ5重奏曲には地元出身の新進女流ピアニスト占部由美子さんが出演されるし、そんなことも集客に一役買ったのだろう。まあまあの客数、1200人収容の大ホールは7分以上の入りと見た。
こんなコンサートではいつも顔が会うセミプロのチェリストS氏も仰っていたが、このごろ聞く機会の多い旧共産圏の演奏者は、どういうわけか共通して地味な演奏カラーだ、との見方には私も頷かれる。この団体の第一ヴァイオリンの、うまいことは認めるとしてもこぢんまりとした花のない響き、演奏スタイルは、やはり名の通ったスター演奏家たち(日本人にも少なくない)の魅力的な音色には及ばないと思った。むしろ、白鳥を弾いたチェリストの方が、華やかな音を奏でていた。

その話に悪乗りするわけではないけれど、昨年の10月にやはりこのホールで聴いた「チェコ・ナショナル交響楽団」の、ドヴォルザークの新世界、終曲の冒頭、金管群のユニッゾンで奏でられる有名なファンファーレめく派手な繰り返し部分、トランペッターがこれ見よがしとばかりキンキンにオクターヴあげて重なってくる迫力たっぷりの一節があるのだけれど、彼らはその“聴かせ場”を放棄して、同じ繰り返しを(オクターヴ上げずに)奏したのだった。拍子抜けしたものだ。
まさか、プロの演奏家に、あの音域が「出せない」わけでもなかろうに、と奇異に感じたものだけれど、あれはやはり“派手な演奏”を避けがちな彼らの国柄なのだろうか。

いつも思うのだけれど、ライブの良さでもある、演奏家と聴衆との共同作業としての、演奏開始直前での静寂の提供、終了(曲ごとの)後の惜しみない拍手、それらのタイミングがぴったり合ったときが互いに幸せだといえるのだろう。東京なんかと違ってあまりコンサート慣れしないこんな地方での聴衆の態度が、彼ら全世界を演奏して回る1流のプレィヤーの目にはどう映っているのだろうか、気になるところだ。たとえば今度のコンサートではなじみのない曲も少なくなく、どこで拍手を送ればいいのか、間違って曲の途中で拍手したりということも1再ならずあったようだ。ジョブリンという作曲家の「2つのラグタイム」。確かに“2つの”とあって、2つの楽章に分かれているのかも?という推測はできたかもしれない。しかし、やはりそこ(1楽章と2楽章の間、曲が途切れた時)でかなりの聴衆が拍手をして、演奏家はその“雑音”がやむまでじっと客席を眺めていた。彼らには緊張が途切れて辛いものなのかもしれない。

当然ながらこのコンサート、私にも初聴きの曲はいくつもあった。前に書いたドヴォルザークのピアノクインテットイ長調OP81、この第一楽章は実に雄大で見事であり、この楽章ひとつを聴くだけでもCDを探してみようという気になった。今夜の収穫だった。

最後の曲が終わると聴衆の拍手は長く続き、彼らもそれにこたえて何曲もアンコールをサーヴィスしてくれた。さすがにドヴォルザークのユーモレスクは手馴れて洒落た見事なものだった。そのあとの「アニメ・鉄腕アトムのテーマ」では、会場は乗って手拍子も出た。旧共産圏演奏家とは思えない、なかなかのエンターテーナーぶりだっ


(106)日本が危ない(国を守る2)

子供のころの刷り込みが実に強烈なものだということは、先日の野生のむささびが老人になついてしまった(親と勘違いしている)というTVドキュメントからも実感した。人間でも、大きな既成概念を叩き込まれると、どうしようもなくこれに拘泥して、抜け出せないということがあるようだ。これを免れるために柔軟な考え方、想像力といった種類の知性があるのだろうけれど、これらはある種類の人間にはなかなか難しい能力なのだろう。

いくつかの専門家が書いた9条改正論、再軍備の必要論を読んでそんなことを思った。
憲法改正賛成派が半数を超えたというニュースに危機感を感じ、どろなわのように国防、あるいは平和ということにつぃて考えている。戦争は人間の歴史に連綿と続いてきた現実であって、軍備をもたない国は(1,2の弱小国を除いて)皆無である。それは認めるとして、どうしてそれが日本の再軍備の必要に結びつくのか?
うすっぺらい「国際協調」のために、どうして貴重な自国の憲法を改悪までして思想の遅れた他国に追従べんちゃらする必要があるのか。
米国のイラク侵攻がどんなことになっているのか。第二のベトナムにならないことを祈るばかりだが、たとえば不戦の選択があれほどの破壊、双方の犠牲者を出さずに問題を解決しただろうことは誰しも常識で考えることだ。イラク人の拷問の事実があらわになっているけれど、戦争とは元来人間性の抹殺が前提となっているのであり、当然の帰結だろうと思う。
もちろんそれらを肯定しているのではない。戦争、軍隊、それらがすでに時代遅れの概念になっていることを知らねばならないのだ。

さほど古い著作ではない「戦争は日本を放棄してはいない 奥宮正武PHP文庫」 不思議な表題だが、思うに日本はまだまだ戦争と無縁ではありませんよ、という悪魔のささやきのような気分で書かれたのだろう。高坂正尭氏のあとがきがあり、一応まともな本である。このZ章、多分中立的な観念から書かれた、軍隊についての常識として「対敵行動に従事中の軍人には、道徳律と正反対のものが適用されるという国際的な不文律がある」と記されている。軍人は「人間」を放棄せねばならないということだろう。人殺しが賞揚される、こんな職業を志す人間は、いても、まったく小数派だろうことは疑う余地はない。

最近発見した「EssayWeb」というヤフー登録のエッセイサイトはなかなか面白い内容で、特に最初に(‘94頃?)書かれた数編は読ませる。ここでは「最良の防衛政策は自衛隊の解散」という1編を紹介したい。
氏は日本の平和憲法が「理想論」といわれながらも半世紀を永らえたことで、その実用性が証明できたのではないか、と書き出している。

軍隊はなぜ必要なのか。他国からの侵略に対する備えとして、その実用性が問われることになるだろう。しかし、果たして日本を侵略する邪悪な他国は存在するのか?確かに過去にはあった(フビライ=モンゴル帝国)が、近い未来にそれが再発する可能性はあるのだろうか。そしてその目的はなにか?資源もなく、狭い島国にあふれるように生きる唯一の資源である人間たちを捕らえて奴隷として使役したところで、コストばかりかかって割に合わないのは見やすいことだ。氏は続ける「日本を占領しても、せいぜいできることは軍事基地をおくとか、貿易摩擦に圧力をかけるとか、安全保障条約を結ばせて保護料(思いやり予算)をせしめるくらいのものではないか。それがもう経験済みのことなら、いまさら何を恐れることがある?」。
要は、ありもしない事故の保険金としてまかなうには、軍備の費用というものはまったく高価に過ぎる出費ではないか、というわけだ。
必要最小限の軍備を、といっても、上記のように日本に戦争を仕掛ける国はまず大国だろうし、そのための軍備などGNPの半分をつぎ込んでも足りないだろう。日本の国土を本格的な侵略から守ることは不可能なのだ。核ミサイルの防衛など、技術的にも不可能とされているし、まして全世界に及ぶ日本交易の生命線、海路交通の長い線を軍事力で確保するなど夢でしかない。
中途半端な軍備などあっても無駄、予算の浪費どころか害があるとさえいえる。もしユーゴに軍備がなかったら、ボスニアの悲劇は回避できたではないか。

軍隊は君主が自分の配下の暴力装置として作り出したものであり、国家権力の発動、指導者層の見栄(しばしば一部産業界との癒着)として今も存在するといえる。そんな軍隊が、軍隊自身の保身に動くことはあっても、国民の命を守るために動いたことは歴史的になかったし、これからも期待できないだろう。

氏の締めくくりは以下に続いていく
自ら軍備を放棄して臨む外交交渉には、迫力というものがあります。軍事費を使わないことが経済運営にすばらしい恩恵を与えることを併せ考えると、やはり憲法9条に基づく平和主義こそがもっとも現実的な防衛構想だといえましょう。」




(105)日本語があぶない

私の勤める職場でも海外出張者が増えてきた。ご他聞にもれず、空洞化の所産である(因果逆かも)外国の生産現場へ技術移転が進んでいる。そのために
異邦人とのさまざまなコンタクト、指導、意思の疎通が必要なのだ。
技術のトランスファーは図面さえあれば事足りるというものではないことはわかっている。
もちろん品質要綱やら作業指導書など沢山のドキュメントを網羅していても、である。
これらの各々の内容が完璧なものでなければならないけれど、不完全な人間が作るものだから抜けは必ずある。しかもこれらは多く日本語でかかれているし、一部が英語にはなっているにしても、当地のラインでの管理者、作業者が英語を解さないことがほとんどだ。
その地のローカルな外国語に堪能な人間は、わが社の技術者にはいない。
現地語の通訳がつくことになっているけれど、いつもではない。それで、たいていは現物や図面を中間に置いて、身振り手振り、スケッチなどで意思の疎通、情報伝達を図る。なかなか困難な作業らしい。百パーセント意思が伝わっているのかどうか、こころもとない。
伝わっていないらしいという証拠はいくつも存在する。海外生産で不良発生が圧倒的に多いというのもそのひとつである。
言葉が通じないということはこれほどに不便なことなのだ。

日本人同士ならどうだろう。これは日常の業務での仕事の一部として、ということだ。もちろん言葉が通じるから、上記の比でなく疎通はスムーズだろう。まず、以心伝心という、話し合わなくても通じ合うなにものかで連帯しているのが日本人なのだ。
いや、これは冗談だけれど、本当にスムーズなのだろうか。
いつも百パーセント意思が通じ合っているだろうか?
そうでもないだろうというのは私の実感だ。同じ意見を共有する同年輩の同僚を最高の理解者として(この場合は疎通の努力などまず不要だけれど)、意見が異なった場合(この時に意思の疎通の必要が生じる)、そして年齢や地位の隔たりの度合いに応じて理解度はぐんと低下する。それを埋めるのはお互い共通の場、状況、図面などの情報、そして言葉なのだけれど、この言葉が無力な場合が多い。私の経験では、意見を異にする者同士の対話という行為では、ほとんどの人間が、相手の意見をまず否定するところから始まるといっていい。これは、相手の言葉をしっかり聞いていない、あるいは聞き入れる意思をはじめから持っていないということの証拠だろう(「ばかの壁」を思い出す)。最初から最後までお互いに会話を成立させる意思がない場合は論外だけれど、ともかく建設的な会話を成立させ、意思の疎通を十全に成功させる必要を感じている者には、日本語をうまく使って相手を納得させることが必要になってくる。誠意とかいうものももちろん重要だろうけれど、少々こみいった意見を戦わせるときは、やはり言葉そのものの正確な、わかりやすい上手な使い方が必要なのだ。しかし、多くの一般人にそんな自覚があるだろうか。仮想敵としてはなはだてごわい、ただ腕力と地位の威力でひたすら自分が信じる意見を通したいと考えるエゴイスチックでプライド過多的人間がほとんどだろうことは想像をまたない。そんな上司をうまく説得するためにも、最低限の条件として、そして正統的な武器として日本語をうまく使う必要性が増してくるわけだけれど。もちろん、相手もその日本語が理解できるという前提であるが。

文芸春秋5月号丸谷才一氏が「日本語があぶない」という一文を寄稿している。一読、全面的に賛成だ。サマリー(概略)に紹介すれば以下になる。
現代日本語は本来のやまとことばに漢字と英語(戦後の現象として--単語に加えて構造自体の一部も)が無差別に大量に取り入れられた言語であり、それゆえに柔軟であり、なかなか良い特性を備えてはいるが、世界的にも類似の言語がないこともあり、習得が難しい、きわめて特異な言語になっている。
日本語の上記の特長に加えて、明治以後の速やかな活版印刷の普及が日本を近代化西欧化に成功させ、文化的国家として発展させる要因になった。しかし、またその特異さゆえに今なお日本語は揺れ動いて、変わり続けている。そんなやっかいな言語であるが、国民が日本語を使ってものを考え、ものを言い、コミュニケーションをはかり、ものを書く術を学ぶことは、国語教育だけでなく、あらゆる教育の基礎なのだ、ということを文部省も、日教組も自覚してこなかった。

氏がここで紹介している事実のひとつに、ジャレ・ド・ダイアモンドという人の書いた本の一節がある。
「1947年にアメリカ東部のベル研究所で発明されたトランジスタ技術が8000マイル離れた日本で開花した。しかし、日本よりももっと近いザイールやパラグアイで開花することはなかった。日本でトランジスタ技術をすばやく利用することができたのは、それが文字を読み書きできる人々の国だったからである。」
この「文字を読み書きできる」という一節は、トランジスタ技術のような高度な技術を扱い、独自に応用できるほどの知的な文化が根付いた(国)ということの象徴として書かれているのだろうけれど、当然ながら、文化、技術に対する”言葉”というものの重要性を間然なく示した良い事例であることは間違いない。
一国の言葉は、その国のあらゆる教育の基礎であり、国民がしっかりした力を身に付けることが国力を伸ばす源になるのだ。しかし、戦後、上記の事情から日本語教育は重視されないままで、近年ゆとり教育の名のもとにますます時間も減らされている。
更に近年の国語力の低下要因としてテレビの普及があげられる、と丸谷氏が言うのは注目される。
「テレビ画面に登場する人物は、声のほかに表情を持ち、しぐさを見せる。声の出し方にもいろんなイントネーションがある。声の大小強弱がある。そのために、言葉それ自体が抽象的に表出されるのではなく、いわばコンテクスト(前後関係を説明する補助的な要素)を伴ってくる。(異邦人と言葉抜きで身振りてぶりで理解させることがある程度可能なことの裏返しが、そこで起こっているのだ。)一方、新聞、雑誌、本などは、版面に書かれてある字だけがテクストである。昔の子供達は字面だけのテクストと対面して読み取る能力を養ってきたのだが、今の子供は字を学ぶ以前からテレビを見ているために、テクストだけと付き合う能力が弱められてしまったのではないか。」
氏はまた、テレビ以上にコンテクストによりかかってコミュニケーションをとっている「携帯電話」の大流行にも触れている。彼らが携帯で話す相手は当然ながら日常顔をつき合わす友人縁者たちにほぼ限られているのであり、そこで交わされる言葉はほとんど固有名詞と記号的感嘆詞ばかりなのではないか。そんな彼、彼女たちが文章のみとの付き合いが苦手なのも当然かもしれない。つまり、こんなテレビ時代、携帯電話」時代になるほど、読書の訓練、作文の訓練はその重要度を増す。日本語教育の重要性は強調してしすぎることはないだろう。


104)棟方志功展

百万台割れが深刻な北九州市回生の救世主として登場したリバーウォーク1周年ということで、無視し続けるわけにもいかず覗いてみた。なんとなく福岡の「キャナルシティ」に似た雰囲気だと思ったら、同じデザイナー(非日本人)の作品らしい。なぜ日本人はこうも横並びが好きなのだろうか。何も奇をてらうことが良いといっているのではないが、日章旗問題非起立派は現在まったくの小数派になり果てて、ホームレスのようにいじめ処罰対象だ)、憲法9条変更もう賛成派が過半数だと!)、最近のイラク人質被害者への声を揃えた非難誹謗(なぜなんだー!!?英雄になってもおかしくないのに、いちゃもんつけるおまえらー、おなじことを体張ってできるか!)にしても、ともかくなだれを打って同じ方向へ向かうことについては共通したものがある。どうして各々ちょっと異なった考えができないのだろうか。リバーウォーク<>キャナルシティ、ネーミングもどこかしら似通っているし。




ま、それは良い。1周年ということもあったのかもしれない。若者を中心に思ったより人出が多く、にぎやかだった。これにはちょっと安心。実はこの4,5階をぶちぬいて北九州美術館分館が年初から開館していて(初回の特別展は「鉄腕アトム」だった。見そびれた。)、今「棟方志功生誕百年記念展」をやっている。それを観に来たのだった。4年前に青森の志功記念館を覗いたことがあり、倉敷の美術館でも見た記憶があるけれど、今度の展示はそれらの規模をはるかに凌いでいた。例の二菩薩釈迦十大弟子をはじめ、量的にも連作の多数まとまったものを含めて多くの点数を揃え、また、壁画めいた大作も多く、珍しい油絵もあり、まったく多彩な作品群が一堂に会したという感がした。ともかく圧倒され、全部見終わったらぐったり疲れてしまった。せっかくの生前のヴィデオも半ば(後半)だけで出てしまった。

それにしても、青森では感じなかったことだけれど、棟方志功はつくづく女体賛歌の作家なのだと実感したことだった。もちろん彼独自の形態の遊びであり、見事に洗練純化されたものではあるけれど、題名からしてすごい「湧然する女者達々」はじめ「群生の柵」、「歓喜頌=ベートーベンの第九シンフォニーから題を採った」これら巨大な作品のことごとが多数の女体乱舞なのだ。他にも谷崎潤一郎とのコラボ「鍵板画柵」など、男女交感図ふくめ(彩色のものはことに)なまなましい感じのものもあり、小中学生などもうろついていたし、これらの彩色版画を、彼らはどんな思いでみるのだろうと気になったことだった。
彼の作品ではもっとも有名で人気もあるのだろう、釈迦十大弟子ももちろんあったし、その版木(裏表に彫られてあった。売れないころで、貴重な材料だったのだろう)も展示されてあった。
 気になったことは、その版木に樹脂がべったりと塗られ、もう新たに刷ることが不可能になっていたことだ。もちろん意図してなされたことなので、彼の場合、自分の作品は全部自身で彫りこみから刷り上げまで一貫してされていたというし、オリジナル尊重の精神としてはまさにそのとおりなのだろうけれど、彼自身は、刷るのは上手ではないと言っていたようだし、何も残った版木を潰すことはないのではないか。もちろん最近のいわゆる「ポピュラー版画室伏哲郎云)」というか、ハイテクを使ったシルク印刷で、名画などを本物そっくりに限定数複製したあと、(版の寿命としてはもちろんその数百倍はあるのだろうけれど、値段を維持=不自然に高くするために)版を壊すという、この方は、商売としてやっているわけで、「純粋に作為的な」商行為であり、考えてみれば変なものではあるけれど、十大弟子のこれも、思えばそれとあまり変わらない、むしろ「文化財毀損的行為!」なのではないか。
湧然する女者達々」部分

103)朝礼について

朝礼は毎日、就業時間中に割り込んで、全員で同時にするものですから、ベクトルあわせ、つまり、何のためにしているのかということの合意、どんな形で運営するのがベストなのかを考え詰めて実行することが重要だと思います。それこそBRビジネス ルール 社内規定)があってもいいのではないかと思いますが、なんとなく習慣でしている面もあるのではないでしょうか。

これは、朝礼前にするラジオ体操も含めて、「仕事に入る前の体と心の準備」と考えるのが一番つじつまが合っていると思います。その目的を最大限に達成するためにはどうしたらいいのか、ということです。体操は体の準備、朝礼は気持ちと頭の準備です。体操をすることで眠りからまだ覚めきっていな体が運動によって温まり、平常に近づいて、仕事をするための反射神経や筋肉が目覚めて危険にとっさに対応できるようになり、普段の肉体労働に耐える状態に近くなる。これを、非拘束時間だからとかなんとかいって拒否する社員がいますが、間違いです。以前はこの体操の前に黙祷があって社是社訓が唱和されましたが、だんだん簡便に、おざなりになっていくようです。
次に朝礼ですが、これは全員の初顔合わせ、お互いの挨拶にはじまって、頭と心の準備ということで、朝礼で心に刺激を与えられ、ぼっとした頭と気分をはっきりさせ、やる気を与えられて仕事に入っていくという役割があると思います。あたりまえのことをいっているようですが、実際、朝礼の場でまったく挨拶をしない人間がいる。たぶん、部門長に挨拶するための朝礼であって、それは最前済ませたから、もう挨拶はしなくていいという気分があるのだろうと思います。これはまず、挨拶をした朝礼当番に対する無礼ですし、ここでは誰に対するというものではなくてお互い全員に対する効率のいい挨拶の機会だと思います。出社から朝礼までの時間で中に一人二人顔をあわせず、挨拶できていない人間が誰もあるはずだと思いますし、これは何度やってもいいのではないか。これはやはり全員で気持ちよく挨拶したい。

朝礼の内容としては、当番のスピーチと業務連絡、それに責任者の訓示があるかと思います。全員の当番スピーチは職場内訓練(多数の前で自分の意思をうまく表明する)の一環という面があります。私なんかはもう手遅れですが、この能力の訓練は、若い人間ほど必要があるわけで、これを意識してやる、事前にテーマを決め、文面を準備してやるくらいのことがあってもいいと思いますが、あまり理解されていない。毎回まったく同じ文句を年中繰り返す人間もいる。ま、これはおいて、先ほどもいいましたが、朝礼のメンタルな準備運動という面からは、最初に、特に仕事には関係のない軽いスピーチ、一般に興味のある話題などが提供されて、これを受け入れることで、頭が目覚めた時点で業務連絡が続き、すんなりと頭に入っていくと同時に仕事への気分を盛り上げて、その場の最高責任者がしめて終わる、ということになるのではないかと思います。業務連絡のあとに仕事と関係のないスピーチなどがだらだら出て、やる気の流れが途切れるのはどうかと思うのですが、どんなものでしょうか。




102)彼岸会

近所の寺から彼岸会法話の催しの知らせをはがきで戴いた。この寺は最寄りの真宗(うちの宗派だ)の寺であり、父の葬儀の時にたまたまお世話になったことから縁が出来、年に何回かある催しにはこのようなお誘いが来るのだけれど、滅多に寄せてもらうことはなかった。亡父の年会供養もずっととどこおっているし、たまには顔を出さねばなるまいと決意し、一日勤めを休み、良い天気でもあったので歩いて十分足らずのその“M―寺”へお邪魔した。
私の家の檀那寺はずっと遠隔地(関西)にあり、何年に一度か機会を見つけてその寺内にある墓に参るのだけれど、それ以上のお付き合いはなくなっている。いきおい年々の盆供養などは、こういったご近所のお寺にお願いすることになるのだけれど、それもこの2、3年は間遠になっている。そんなこともあって今度の顔出しになったのだけれど、寺は付属する幼稚園もあって結構大きく、ご近所の檀家のお年寄り(70歳平均?)を中心に二十人ほどが既におあつまりになっていたし、ご住職にはなんとなく個人的に挨拶する機会もなく、小額ではあったけれどお供養の布施を正面の供養台においておくだけになった。ま、名前を書いておいたから、気分は通じただろうと思うが。
こういった会の定例のご詠歌詠唱(私は本を持たないので聴くだけだった)を最初に住職氏の導師で詠じてから、前原市から招じられたやはり真宗のご住職(60前後か?)の法話を拝聴した。主題は「彼岸会」とは?というものだった。以下内容骨子である。

彼岸会は、本来、春分、秋分の日を中日(ちゅうにち)とした前後1週間で行われる仏教の集中修練の行事であり、前半三日をそれぞれ「布施」、「持戒」、「忍辱」、中日は休み、後半を「精進」、「禅定」、「智慧」の実践に励む。これは六度の行ともいい、菩薩行(悟りを開いて仏に近づく修業)の内容詳細とその段階をあらわしている。
 段階と書いたが、これはそれぞれのテーマの難易度で順序が定められているともいえるわけで、私たちはまず自分の持ち物への執着心を捨て、宗旨仲間への喜捨(「布施」)をしなければならないということだろう。これは仏教への入門的行為なのだ。
 他人が決めた決まりに従う(「持戒」)というのも入門者には辛いことには違いない。これは我(が)を捨てて宗旨に外面で従うということだ。
 他者から受けた暴力などの屈辱的な仕打ちに耐え、それを赦す(「忍辱」)ということは、並みの人間にとっては大変な(精神的)苦痛の克服であり難題である。大方は、一時的には我慢できても、それは記憶に残る限りずっとその人を苦しめ、なかなかそれから自由にはなれないのが人間なのだ。これも我を捨てるという仏教における大きなテーマの部分をなすものだけれど、また「寛容の精神」として、今日の世界にも意味をもつこの宗教(哲学)での大きな特色をなしている。この日の講話の後半でもこの「忍辱」という重いテーマについて丁寧に語られたことだった。

彼岸会は、仏教の日本での先駆者である聖徳太子が最初に開かれた四天王寺ではじめられた日本独自の宗教行事である。彼岸とは西方浄土のことであり、この日には真西へ日が沈むことからこの連想がなされたのだろう。四天王寺は開闢当時海岸べりにあり、西門からは海に夕日が沈むのが見られたはずだと。

四天王寺は4年前の関西勤務時に訪れたことがある。「ようおこしやす!」と受付のおっさんに気楽に声をかけられたのが記憶にある。(大阪の寺社はみなそうだけれど有名な割には余り規模や敷地が大きくなく、こぢんまりしていたような印象がある。それとも昔はもっと大きかったのだろうけれど、人口が増えるにしたがって切り取られていったのだろうか。)ともかく荘厳な感じはなかったけれど、庶民の町の雰囲気によく似合った雰囲気だった。

法話は、聖徳太子が仏教思想をベースにして作り上げた日本最初の憲法(国を治めるものの心構えのようなものであるが、日本国家存立の基本理念をも宣言したものであり、太子の卓越した創造性と精神の偉大さを物語る)の第一条にある「和を以て貴としとなす」から、仏教の持つ独特な寛容の精神に発した平和精神を説く。太子の平和を愛する気持ちと偉大さが存命中の平和を世界にもたらしたけれど、彼が亡くなるやいなやたちまちやまとの国は乱れはじめ、反対勢力(蘇我氏)による太子一族の迫害と滅亡に続くのだが、彼らの徹底した無抵抗(法隆寺内で全員自害)は、平和に徹した偉大な父祖太子の教えに殉じたものだった。

インドに発した仏教は13世紀のイスラムのインド侵攻に押され、滅んでしまうのだが、ここでも無抵抗な教徒がその滅亡を早めた。しかし、剣か、コーランか!というイスラム思想にまた、彼らも剣と暴力で対抗していたとしたら、たまたまインドの仏教は生き残ったかもしれなかったけれど、仏教の理念は今日のものとは異なってずいぶん荒々しいものに変化していただろうことは想像に難くない。
インド仏教は滅びたけれど、そんな精神はインド独立の父、無抵抗運動で知られ、ヒンズー過激派の兇刃に倒れた「ガンジー師」によって体現された。いまだにその徳は師の命日には酒を飲まない(「精進の行」である)というインドの国民の心に生きている。

戦後いちはやく理想主義無抵抗主義を具現した憲法第九条を制定した日本には、やはり聖徳太子以来のよき仏教精神がどこかに隠れていて、長い惰眠から目を覚ましたのではなかったろうか。理想主義というのはとかく大人ぶった現実主義者たちから馬鹿にされがちだけれど、まがりなりにも50年間墨守してきた金看板である。簡単におろすのは惜しい。これからも守り続けて、世界に賛同者を広げていく努力を続けることは不可能だろうか。



  (101)考えるということ

 

  毎日新聞に大江健三郎氏が外人記者クラブで講演したことが書かれてあった。わが意を得たりという気分になったのは、この「激白」でのテーマのひとつが論じられてあったからだ(3/10夕刊[文化  芸能欄])。既に大方の共通認識になっている事実。日本人の言語能力の貧しさ、それは近年とみにひどくなっている。日本の最高機関である国会に係わるメンバーの正式な場での対話の愚劣さ、無内容がそのひとつの顕著な現れだと。

 

  氏が危機感を募らせているのは、日本文化が会話体による表現に支配され、書き言葉の比重が質量ともに落ちているということである。この「激白」の最初のころ紹介した鮎川信夫氏のエッセイ(7.日本人は無口か  所載)  で提起された問題がそっくりここでも繰り返し指摘されているのだ。

  会話体は散漫でまとまりがなく、たとえその時合意できなくてもあとでいい直したり、引き下げたりできるなど、書き言葉の厳密さや論理性がないという。「つまるところお互いの原則合意が前提になった気分にもとづく文体であり、しっかりした証拠をもとにした反証を伴わない。」とも。「仲間うちの調和を保つことが目的であるような会話体主義のムードを崩し、理性的な議論を復活させることが重要だ。」と続く。小泉内閣の高い支持率が「中身のない構造改革という公約や発言が支え、いつわりの一体感が形成されている」という言葉もあった。

 

  国会やら政治の世界とは隔絶した下せわ話(?)だけれど、わが職場でも多く国際的な規格導入が(海外の関係、環境対策など)近年なかなか盛んだ。ただその中身はまことお寒い。企画担当者に文章作成力がないから、ただお手本の形だけをそっくり導入して意味もわからず自前のマニュアルにする。心が入っていないからコストばかりかかって実質の効果は期待できないし、(やらせる側もやる側も)期待もしていないようだ。こちらはその内容や文章自体をもとにして疑問点を質すとか議論ようとするのだけれど、決められたルールを実行せよというばかりで、はなから議論などしようという気はないようだ。

  文章というものが本来、数式のように何かを現し、何かを考え、導き出す手段でもあるのだと理解する人間がまことに少ないことに驚くのである。ただなにかの呪文、みことのりのように思っている人間がほとんどだ。だから上司の言葉はそっくり尊重して実行するのが本来だと思っているし、上司自身不遜にもそう思っているようだ。封建社会そのものなのである。

  ずっと(十年以上)やられなかった技術研究論文発表会がわが職場にもまた復活しそうだ。どんなきっかけでそうなったのかは知らないけれど、基本的に、論文作成能力は技術者にも必須だと私など思っているから、これは良い傾向だと思う。ただこれ(作文、論文作成)を悪魔のように嫌う課員(学歴にかかわらず)がまことに多い。言葉を扱うのに書き言葉から入るのは実に良い知能訓練だと思うのだけれど、これを習慣にする人間は実に少ないようだ。したたかな話術ばかり巧みな人間ばかりでは石垣はつくれないと思うのだけれど。

 

  日本文化が国際的影響力を失い、そして慢性的な衰退症状を呈しているという外国の思想家の指摘があるらしい(大江氏の同記事)が、その要因のひとつがやはり日本語の機能不全と(日本)人の言語能力の減退にあるという指摘もあった。それは当然だろう。文化と言語は密接に結び付いている。言語と直接かかわらない絵画やら音楽やらの芸術文化もあるけれど、言葉はそれらの芸術もふくめて文化全体に圧倒的な影響を及ぼすものなのだ。だいいち、日本人は日本語で考え、日本語で社会生活をいとなみ、経済活動を行い、社会人としてお互いにコミュニケーションをとる必要(必然)に迫られている。言葉がうまく扱えなくなった社会は円滑に機能しなくなり、混乱から衰退に向かうだろうことは目に見えている。そこへ行く(堕ちる)過程においても、言葉の機能低下に失望したひとびとが言語芸術を見放すのは当然として、言葉で評価するしかない非言語芸術もその評価があいまい(不可能)になることで方向性を見失い、衰退することは目に見えている。

 

  もちろん、文化とは政治経済を含めた大きな枠としての多様なかたちだろう。日本人がせっかくの不戦思想をあいまいなままおきざりにして小泉マジックのもとに海外派兵に走ったことにも、多く世界の有意の人間たちは日本文化の衰退を膚で感じているだろうことは容易に想像できる。大江氏が年初に言っていた。どうして海外へ日本人が重火器を持ち出すのか。それに納得のゆく言葉はあったのか。そこで戦争を行わざるを得ない事態になることをどうして想像できないのか。想像力を豊かにしてほしい。日本が海外派兵をせずとも十分世界貢献できるということはその想像力から生まれてくるはずだと。想像力は多く言葉の力から生まれてくることは周知の事実だろう。

 

  大江氏の記事は次の言葉で締めくくられている。「日本に言論の自由はあるが、その権利を使うことに誰も関心がない。若いひとには、正確に自分の意見を表明する習慣を作ってほしい。正確に表現していれば、正確に受け取ってくれる人はいるのだから。」

 

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