(171)勝手にしやがれ へ進む


(170)リ・ホーム

 

ぼろ家でなくっても、日本の木造家屋は20年もすればあちこち悪くなってくる。我が家においてはなおさらのこと、24年目に入って気になるところが多々発生している。
風呂場の戸はアルミサッシでまだ使えるけれど、その敷居の土台に水が浸透して腐り、サッシのレールを支えている直下の材木がなくなってしまった。それに続く脱衣場の床がぶかぶかし始めて、ようやく修繕する気になった。

温水ボイラーなどを世話してもらっている近所の住設会社に相談したら、修繕自体不可能ではないが、結構掛かります(500K¥超)よ。それより風呂場を完全にやりかえて、はやりのユニットバスに置き換えては?という。

こっちの希望としては、20数年使ってきたステンレスの浴槽はまだ何の瑕疵も見えないし、そのままで、悪いところだけを修繕して欲しいのだけれど、その提案はそっちのけで、手前の大商いの計画だけしか眼中にないらしい。
もっとも、彼の言い分もあって、とかくこの種の不調は表面(風呂場の床のタイルなど)を壊し、患部がすっかり見えた時点で予想も出来なかった状況が現れてくることが多い。
その時点であれこれ取り繕って金も時間もかかり、見栄えも良くないことになるよりも、いっそ最初から全部更新新設(ユニットバスに)するほうが満足度も高いのでは?と。

その満足度はむしろ施工者側に高いのでは、という気がしたし、2000K¥という粗見積もりも手前の腹積りを越えている。
ちょっと腹が立ったので隣町の同じTOTOの特約店で、良く似た住宅建設店に話を持ちかけた。こっちは面倒がらずにともかく現場を見てくれ、縁の下へも潜ってきちんとした見積書を作ってくれた。

ともかく対応が適切で痒いところに手が届くような痛快な気分だったので、こちらに決めた。基本的に200K¥でやれるというし、それならばと開闢以来使ってきたシャワー水洗器具を混合栓に交換してもらい、冬はまことに寒いわが風呂場のために暖房乾燥機もつけてもらうことにした。風呂の暖房はまだ普及していないらしく、結構割高だったけれど、それでも〆て350K¥に収まった。欲しかったミラーもサーヴィスさせた。

工期一週間は風呂が使えなかったので風呂好きの家族は近所の公営スパへ連日通った。私は面倒だったので台所から湯水をホースで引いて縁側で頭を洗い、身体を拭いた。一週間の苦節が実って我が家の風呂場(と脱衣場)のささやかなリ・ホームが完了した。職人諸氏も水準を越える腕前で、仕上がりは満足できるものだった。

 

今回見送ったユニット・バスは、最近の新築家屋ではスタンダードになっているらしい。これを意識してから聞こえてきたのだけれど、リ・ホームでこれに転換したという知人は実に多かった。風呂場は木造家屋では真っ先に悪くなる場所らしいし、ホテルで味わったユニット・バスの魅力も、正直言ってなかなかのものではあったし、家族もその気になっていた時期があって、私が初志貫徹しなかったら、いまごろはわが愛着の箱形ステン・バスも、ステル・バスとなって野に放置されるか、どこかの電気炉で溶かされていただろう。

リ・サイクル社会が叫ばれる時世に、また、リ・ホームのブームだともいう。定年後潤沢な資金をつぎ込んでこれに邁進するご仁も居られる事と思う。家の立替えに比べればこれらリ・ホームはまだ経済性があるのかもしれないが、ゴミの出ることおびただしいし、これらとリ・サイクル社会とはなかなか両立しないようにも思う。リ・サイクルの要諦は、やはり、使えるものはとことん使いきるということだ。「もったいない」がキーワードになるのはいうまでもない。





169)国盗り物語

「新潮文庫 国盗り物語 全4巻の1」

何年ぶりかで司馬小説を読んだ。夢中になって読んだから、この大長編もあしかけ3日で読み終えてしまった。もうすこしゆっくり、味わいながら読んでもよかったのだ。勿体無いことをした。作者が何年も掛けて調べ刻苦精励して刻んだものを、私たちはこのように短時間で愉しみ尽くすということができる。ま、速読が出来るというのは本、(または小説)という芸術メディアの利点(音楽などはこういうわけにはゆかない)のひとつで、いわば読書の醍醐味のひとつではあるが。
それにしても面白い小説だった。傑作の多い司馬文学の中でもこれは抜きん出た作品だと思う。

日本の歴史のなかでもことに英雄が沢山輩出し、社会が激しく変転した時期。群雄割拠ともいうのだろう。小説以上にドラマチックな時代だったのだろうけれど、司馬文学は語り口の巧みさは言うに及ばず、ともかく調査が徹底されているということもあるのだろう、圧倒的なソース量でわたしたちはいやおうなく物語がその時代に実際に起こったことなのだと納得させられてしまう。
あまたの英雄の中でもことに不思議な、奇跡ともいうべき存在がある。これは戦国時代の後半、大きな野望を抱き、それを計画的にまた容赦なく実行し尽くすことで、一介のこじき坊主から一国の領主にまで成り上がった奇人斉藤道三と、その志を2分して継承した正室の係累明智光秀と、その娘濃姫を嫁がせた(娘婿になる、これは史実らしい)織田信長の生涯の物語である。もっとも、道三死後の物語では光秀が主人公になり、信長はその背景として描かれているに過ぎない(新潮文庫では、3,4の後編は「織田信長 前、後編」となっている。「明智光秀編」では売りにくいということだろうか)が。
悪党(目的を達成するためには手段を選ばない、下克上を地でいった人物、そういった性格と行動が今もなお道三を歴史の隅に押し込めている)としての性格を引き継いだ信長は、その性格を臆せず前面に出すことで自身の野望を大車輪で押し進め、戦国武将として抜きん出た存在になるが、しかし、正反対の実直な性格を受け継いだ部下光秀に暗殺されるという、時代を震撼させる大事件、歴史転換をともなう異様な結末をうまくひとつの小説のくくりとして取り込み、成功している。司馬小説としては珍しく何人もの女性を登場させて華やかなエンタティンメントとしても読めるけれど、これはやはり英雄群像で語られる骨太の人間悲劇として読むべきだろう。

道三は社会を革新することにも積極的で、才気あふれ、人気にあふれ、和漢の書に明るく、趣味もよいという超人だったが、彼を継いだ二人の縁つながりの男は、ひとりでそれらのすべての才能、良い性格を受け継ぐことは出来なかった。それはお互いに欠けるところがあったということであり、性格的には正反対ともいうべき人間だった。つまり道三の一面だった冷血無残な戦国の悪党信長、義理と信義に篤く、連歌も詠む学究肌の光秀。
戦さ上手という戦国武将の要件、長所、それにひとに倍する名誉欲とプライドは信長光秀ともにそれぞれがほぼ等量受け継いだけれど、このお互いが独占した性格(あるいは欠落した長所)をそれぞれが嫌い、反発することでこの後半のドラマが様々あやなされ、結局2人の潰しあい、光秀の謀反と自滅いう悲劇として終わってしまうというところが、この長編の構成の巧妙なところだろう。そして、それこそが日本史のひとつの謎とされている光秀謀反の理由なのだという、作者がとった説はまことに説得力がある、この長編小説の結末としても見事なものだといえる。


この作品は、作家によれば、最初は道三のものがたりとしてのみ計画されたという。人気が高かったために更に続編の形で書き継がれ、道三が自身の見果てなかった天下取りの夢を託した弟子筋の物語があとにくっついたということらしい。なるほど、前半の道三のドラマは、本当にこんなことがあったのだろうかと思えるほどに奇想天外なフィクションとして読めるし、多分、この小説が現れるまでは道三そのものが余り世には知られてなかっただろうから、珍しさもあって非常な人気を得たのも良く分かる。
そういった前半に比べ、後半のドラマは一面既によく知られた歴史のなぞりであり、冗長とも思えるのは、明智光秀といういわばマイナーな人物の鬱屈し屈折した心の内に終始立ち入って書かれたもので、もちろん彼自身道三にも劣らない人生の転変を繰り返すのだけれど、そんな心理ドラマとして、そして光秀の地味でまっとうな人間性に魅力を覚えない面もあるだろうとは思う。しかし、私は、それはそれで退屈しなかったし、面白かった。作者からすれば、信長という心の奇形児を嫌悪しつつ描くよりも、まだ彼自身になりきることも出来る光秀の心理に食い入ってその景色の変遷を描くほうがよほど楽しかったのに違いない。信長は現象として研究する分には面白みはあるけれど、人間として描かねば鳴らない小説家には向かない種類の英雄なのだ。

当然のことではあるけれど、光秀と信長をこうして比較してみれば、追い詰められた前者が冷酷無残な上司に叛旗を翻すに至った動機はかなり明確になっており、これを読めば誰だって光秀に同情するだろうと思う。光秀が強度のノイローゼになっていたらしいことも彼が誤った決断に至った一因に数えられるかもしれないけれど、それも信長のような怪物じみた上司にこき使われれば、けだし必然だったということだろう。

戦国武士の文武にわたる優等生光秀は主人殺しの汚名を着て道三同様歴史に抹殺され、逆に信長は志半ばで倒れたことで悲劇の人物になり、後世大層な人気を得てしまったというのも歴史の皮肉というものだろうか。

先日のTV特番で日本人の好きな歴史上の人物100人がアンケートされていたが、そこでトップにランクされたのが他ならぬ織田信長だった。彼の陰の面である多くの悪業を知る私自身は意外に思ったのだけれど、彼のなしえた正の業績もさりながら、非業の死というポイントが一般の人気を高めていることは疑えないだろう。J・ディーン赤木圭一郎が今なお人気を保っているように。




(168)ナイロビの蜂

間が空いた。
書けなかった。

これほど書けなかったのは初めてかもしれない。

いろいろテーマは持っていたのだけれど、気分が乗らなかった。

それで気分転換に映画へ行ってきた。

今年度のアカデミー賞でも話題になった「ナイロビの蜂」。あんまり良い題名ではないが。
ともかく、見る前日までまったく関心はなかった。
朝日夕刊(5/18)の「芸能」映画批評欄にたまたま出た紹介(品田雄吉)の内容に惹かれたということ。
ま、動機はどうでもよろしい。映画は見たいものしか見ないという態度でずっと来たけれど、あまりはずれがない。今度の映画もよかった。いろいろ考えさせられる、内容の濃い映画だった。
ロンドンから任地ケニアのナイロビへ赴任した外交官ジャスティン(レイフ・ファインズ)の活動的な妻テッサ(レイチェル・ワイズ この役でアカデミー助演女優賞)は初出産に現地人のための病院で出産するというラジカルなまでの先進的な女性だったが、その病院で目撃した医療と製薬会社(スリービーという、邦題のヒントになっている スリー・ボンドには迷惑か?)の活動に疑問を抱く。その世界的な製薬会社が、開発した新薬で現地人を人体実験している疑いを持ち、現地の医師とともに調査を始めていた矢先、「事故」死する。
余暇は植木に水遣りをするのが日課になっていた穏やかな夫は、妻の「事故死」後に起こった現地警察の家宅捜索や職場の同僚、上司のぎくしゃくした態度から妻の死因にも疑問を抱くようになり、真相を探るべく彼なりの調査を始める。ロンドンへ呼び返されたり、無期限の休職、それにパスポートを取り上げられたりの妨害にもめげず、妻の従兄弟で同じような進歩思想を持つ弁護士の協力もあって、ドイツの製薬会社の町の活動家に会いに行って暴行を受けたりしつつ困難な旅を続け、結局元の任地アフリカへ戻ったジャスティンは、彼女の死が、自分を妨害しているなにものかと同じ、自国イギリスの高官を含み、アフリカの国家上級公務員を牛耳る、世界的な大手製薬会社を源とする、利益集団の陰謀によるものであることを突き止める。

彼女が死ぬ直前に会って決定的な製薬会社の悪を証拠づけるに至った現地医師に、ジャスティンも会い、思いをすべて遂げたと感じた彼は、暗殺者が身辺へ忍び寄る気配を感じつつ、妻の終焉の地へたどりついてようやく彼女と一体となる気分に浸る。舞台も筋立てもあまりに殺伐とした、現実的な悲劇的なものではあるけれど、当初の唐突なラブ・シーン、それに中ほどに起こる様々な恋の気配、スキャンダルの筋をあわせ、こうしてみれば、これは一面優れた複雑な現代における愛の物語なのだろう。

もちろん、ポイントは沢山ある。舞台になった悲劇の大陸アフリカの民衆の惨状、そして利益のあるところどこへでも行き、可能な限りに貪ることをやめない世界的超大企業の怪物的な現実、それらの取り合わせによって更に力のない、おろかな多数の民衆は搾取し尽くされ、悲惨へとなだれ落ちていく。「男は武器と暴力にしか関心がない。民衆を支えているのは女たちだ」という現地医師ビートの言葉が、救いのないアフリカの現状を端的に表現している。その「良心の象徴」のような医師にして、妻テッサを死へ追いやる決定的な情報を当局へ発信したのだ。随所に現れる現代の驚異、超情報機構インターネットとその威力は正義の武器にもなり、またその逆もありうるということだろう。すべては複雑に交錯しているのだ。

救いのない、憂鬱な映画だった。しかし、現実を認識することは無駄ではないだろう。解決への道は問題を正確に把握することからはじまるのだから。










(167)自由ということ

いまさらという感がなきにしもあらずだけれど、松岡正剛氏のサイト千夜千冊 立紙篇」にはたびたび脱帽させられる。その精力的な活動もさりながら、内容的にも、ろはで拝見できるのが申し訳ないような気分になることも多い。4/24アップの1136夜「マルキ・ド・サドの 悪徳の栄え」の内容にはことに、あっと思わせられることだった。
これだってなにをいまさら、と軽蔑されることを覚悟の上で書くのだけれど、これまでサドの文学を私はさほど的確に理解していなかったのだ、という惨めな思いにしばらく落ち込んだことだった。

サドの小説が高級な文学なのだという認識はなかった。それはいまでもそう思っているけれど、ただ、若いころから非常に興味があったし、中にはよく読み込んだ作品もある。それは、その刺激的な内容に惹かれてということがほとんどだったことは確かだ。

もっとも、サドの文学は、いわゆる「実用性のある」一般的な好色文学とは少なからず異なっている。何も弁解するわけではないけれど、それだけは確かだ。もっとも、そういえるのは、日本人として、澁澤龍彦氏(とその洗練された訳業)を得たという幸運によることが多いのだろうけれど。

これに関係することでは小説「悪徳の栄え」をめぐるサド裁判という社会事件があって、「猥褻」という概念を様々な切り口から理解するうえで、それはそれなりに面白いものだった。戦後起こされたこの種のいくつもの裁判のひとつとして文学的、社会的な問題を提起した事件だった。しかし、それらの事象に興味を持ちつつも、その話題になった時期に限って、単なる好奇心をかきたてただけで、さほど深く入り込んでいかなかったつけが今ふりかかってきたのだろう。サドとは何だったのかということに今までさほど深刻な思いを振り向けなかったくせに、いっぱしの性文化探求家を気取っていた私のなんというあさはかさ、能天気というものだろうか。

松岡氏はこの文でもとりたてて目新しいことを書いているわけではないのだろう。これまで内外で現れた主要な関連書にあらかた目を通し、まとめて、彼なりの目で再編集しているだけなのだろうけれど、そしてそれは労を惜しまなければ、私などにも出せる結論だったのかもしれない。だったら、少なくもサドだけは、私なりに自分の仕事としてやるべきことだったのだ、というような気分がしている。サド文学から貰った多くのことを私なりに整理してみることは意味のないことではないと思うのだけれど、それは図らずも松岡正剛氏の仕事を拝見したことでほぼ達成されたと思う。氏には感謝せねばならない。

さて、サドとは何者だったのか。

彼は「リベルタン」だったと氏は書いている。旧体制下のフランス貴族の末裔として自由な教育を受けた青年サドは、年齢が来ればまっとうに兵役について、士官として戦争にも出た(軍服が似合っていたようだと氏は言う)。恵まれた容貌を持って青春を謳歌し、更に彼自身の性欲のおもむくままにそのやりたいことをやり、周囲の顰蹙を買う。

士官として現役のころを含む20歳頃から32歳までの間(23で結婚した)に引きこした幾つもの性的なスキャンダルで彼は当局の最も注目される貴族になった。その乱行は女性への虐待(鞭打ち のちにサディズムと呼ばれる)、鶏姦、自身への鞭打ち(いわゆるマゾヒズム)、糞便嗜好などに及んだ。
サドのなにものにも囚われない自由な心と独創性には驚かざるを得ない。


更に彼には極度の視姦主義があった。これを後世の哲学者は様々加工して思考を深めているけれど、サド自身は前記の様々の性快楽の工夫を含み、自身で独創し愉しんでいただけであって、何も世間一般への悪意などなかったに違いない。
しかし、世はフランス革命前夜であり、貴族一般への風当たりはまことに強かった。彼はそんな逆風の中で貴族仲間からもうとまれてしまった。
侯爵の称号を持った貴族としての、彼の「破廉恥な」行動を周囲は許すことが出来なかったのだ。投獄、脱走を繰り返し、貴族の称号を剥奪された末に、半生を囚人として過ごし、最後は狂って74歳の生を閉じた。


その悲惨のなかで書き綴られたのが「悪徳の栄え」を含む膨大な著作群である。

サドは拘禁されるほどの罪は犯していないように思える。彼の「自由な」行動は当時の貴族社会では日常だった欲情にまかせた淫蕩な快楽行動の、ちょっとした逸脱だったけれど、その閉鎖的な社会、当時の貴族社会は彼の存在を、自分たちのために許さなかったのだ。もちろん、その著作群の内容が示すぞっとしない性欲の暴走は、彼の想像のなかでのみ発揮されたものだったし、下男や娼婦を巻き込んで行われた記録に残る実際の逸脱は、さほどの異常性はなく、むしろ慎ましやかなものだった。それでも当時の社会は彼の行動に驚き、肝を冷やし、嫌悪して非難し、仲間内で隠匿しようとした。彼の逮捕と長期の拘禁はその結果だった。つまり、サドの罪状は「思想犯」だったのだ。

サドはこう書いて抵抗した。「私は、こうした種類のことで考えられることはすべて考えた。しかし、私は考えたことのすべてを実行にうつしたわけではなかったし、これからももちろん実行などしないだろう。要するに、私は犯罪者でもなければ人殺しでもなく、一個のリベルタンに過ぎない。」

サドの夢想も哲学思想も、当時の人間の常識からははずれたもので、それゆえに非難され、隔離拘禁されたのだろうけれど、それを不当としてゆり戻しをかける社会思想は長くあらわれることがなかった。彼の精神の自由さ、独創性の過激なことがこれで分かる。

彼の独創が世間からなみ外れたことだったから、世間はそれについていけなかったのだ。彼の自由な精神が生み出した夢想と哲学が一般人を驚かせ、不愉快にもさせたのだろう。言ってみれば、それは性愛の世界のコペルニクス的発見に常識人の心と知性がついてゆけなかったのだ。自由人たる精神をとがめられ、牢獄に肉体を閉じ込められたサドは、そこでなお自由な精神を存分にはためかせて大小50巻に及ぶ独創的な著作をものした。牢獄で刑死した彼は性愛の世界の殉教者だったとも言える




166)闇の奥

 

私の読書体験は貧しい部類に入るのだろう。

基本的なものの多くを読んでいない。

機会あって立花隆氏の「僕はこんな本を読んできた 文芸春秋社」を繰ったときに、そんな感を痛切にした。もっとも、氏自身現代のトップ100人に入る読書家だと自称するくらいだから、私など平凡人と比べる方が間違いなのだが。
前記の著書では、過去の「古典」と呼ばれるもの、たいていは近代の西欧の小説本や哲学書などだけれど、それらが、必ずしも現在では読む価値があるとはいえない、すでに遺物になっていることが多いということが書かれてある。
もちろん、これは立花思想なのだけれども、頷かれることも多かった。私はそんな氏の理論に慰めを見出しながら、やはり一方ではなお未練がましく、過去に読もうと思って読み損ねた膨大な「名著」の山をいつかは取りくずしたいと思いつつ、怠惰のなかで馬齢を重ねている。

世の偉大な読書人が、限られた人生の自由時間の中で効率的な読書をするために、彼の一生にわたる計画的な読書プログラムを作り、順々に読み進めているというスケールの大きい話を聞いて、ああ、そんなことは自分にはできない、と思ったことだった。なにしろあらゆることに無計画なのが私の身上(信条?)なのだ。読書だって無計画、ひとえに痙攣的、偶々目の前に転がってきた面白そうなものを読む、ただそれだけなのだから。

もちろん私の読書にもおおざっぱな傾向はある。立花氏は、若いころは文学書ばかりを読んでいたけれど、(その想像力の貧困さに気がついて)今は余り読まない、と仰っているが、私はそんなことはない。確かに私自身も氏のような傾向はあり、自室の書架には昔に比べてノンフィクションの割合が格段に多くなったけれど、文学書はまだ私の読書の少なくない部分を占めている。これは作り物だと思いつつ引き込まれていく、酔わされることがある。さすがに映画では最近はもう涙することは皆無になったけれど、それでもまだ本を読んでいい気持ちになれるのは幸せなことだと思う。
そこで「闇の奥」だけれど、コンラッドを読むのは初めてだった。文学、特に小説というものは西洋では日本に漱石が出る頃よりもずっと以前から盛んに書かれ、発展してきたものであるし、それこそ、想像力でいえばこの60年前の戦禍をのぞき、さほど波瀾の歴史をもたず、微温な風土である小国に偏って住む日本人がかなうはずもない、という一般的な見方は確かにある。翻訳でしか読めないという辛さ悲しさはあるにせよ、日本に居ればたいていの優れた西洋の文学が味わえるというのはまったく本当だし、幸せなことだと思う。私自身、ごく少数の日本の作家(の、殆どの作品を集中的に読んだ)をのぞけば、むしろ西欧の作家のものを読むことが多かった。広く深くとは言い難いながら、トルストイ、ドフトエフスキー、ロマン・ロランやトマス・マン、ヘッセなど、大家文豪とされたものをおおまかにではあるけれどせっせと読んでいた気がする。そして、学校の図書館にもこれらのいわゆる古典文学は大きなスペースを占め、しっかり備えられていたような気がする。
しかし、それは浅薄な認識だったのだろうか。この3、40年のあいだにそれらの図書館での蔵書の傾向が変わったのだろうか。そんなこともあるかもしれないが、今通っている公立の図書館の書架も、いわゆる西欧の古典文学はほとんど目立たないほどに後退し、しぼんでしまっている様な気がするのだが、実際、人気のあるコーナーとはいえないし、目立たないので読まれる機会は更に少ないのだろう。もちろん西欧の作家そのものは、ベストセラーになるような現代の人気作家を中心に別の活気あるゾーンで、少なくない書架を占めていることではある。

闇の奥」は先年も復活再映されたF・コッポラ監督の作品「地獄の黙示録」の原作とされた小説だ。この映画を私はつい最近、必要があって自分のビデオコレクションの中から探し出し、通して見た。凄く金をかけて丹念に作られた、面白く楽しい、良くできた娯楽映画だと思った。たまたま時おなじくして松岡正剛氏の「千夜千冊」で原作の評論を見つけて、はじめてこの小説が多くの著名な映画作家によって何度も映画化が企てられたものだったことを知った。

地獄の黙示録」が多くの映画愛好家を捉え、様々に分析解釈されており、ネットにもそんなサイトが見受けられるのは知っていた。前記の立花氏もこの映画に魅了された一人だったようで、原作の批評も含めて一冊の「--黙示録賛」とでもいえるような著書をだしていることも知った。一度は読みたいと思いつつ、まだ未見である。
一流文化人たちが繰り返し熱く語り、再び表現したいと考える、こんな映画は他に例を見ないと思う。これはただごとではない、のだろうか。


「地獄の黙示録」は、良くできた娯楽映画にとどまらない特別な傑作なのだろうか。私の見方は浅はかだったのだろうか。多分そうだろう。その鍵は、やはりまず原作を読むことから解かれるのではないか、と思ったわけだった。
それでこの「闇の奥」を市の図書館で借りようとしたら、なかった。それで他の公立図書館を探してもらって、ようやく入手することができた。岩波文庫版 中野好夫訳。「福岡県立図書館」の蔵書となっている。こういう便利なシステムができていて、多少時間はかかっても、希望する書籍が読めるということは、やはりコンピュータの普及とインターネットの進歩があってこそなのだろう。しかし、私の実感としては、こんな高名な作家の、有名な小説が市立の図書館にないということが意外だったし、不満だった。それとも、コンラッドがメジャーな小説家であることは明白であっても、その「闇の奥」という中編小説は余り知られていない、マイナーな作品なのか?

「闇の奥」はテムズ河の港の描写からはじまる。一人の壮年の海の男で経験深い船長、航路水先案内人として他の水夫たちから尊敬される話好きの男マーロウの若いころの回想、船の上で後輩の若者たちに問わず語りに話される昔話、彼自身の冒険談として展開される物語である。これは自身若いころ船乗りとして様々な経験を積んだ作者の実体験にもとづいているらしい。

もっとも、この小説の内容は海洋の冒険航海そのものではない。当時なお闇黒大陸のイメージから出なかったアフリカ、そこに存在するひとつの大河、アフリカ大陸の象徴ともいえるコンゴー河における彼の河船乗り体験なのだ。つまり、これはコンゴー河を舞台にした当時の西欧人による現地人搾取と象牙貿易(収奪?)の凄惨、醜悪な実態を暴露したドキュメントといっていいものである。

もちろん、それだけではない。最初にまくらとして語られる不思議な幻想のような大昔の歴史絵巻。それを語る彼の言葉がこの本編の筋に深いひとつの思想をまつわりつかせる。本編の伏線といえばそうなのかもしれない。

「ここもねえ、」と、突然マーロウが言い出した。彼らが今船でたゆたう、夕闇が落ちた水路には多くの船の灯が輝き、また遥か上流には世界最大の都会の灯火が明るみはじめている、このテームズ河のことだ。「かっては地上の闇黒地帯のひとつだったんだ---。」

この経験深く、しかも歴史の造詣もある、一風変わった海の男が話し出したのは、今をさる一千九百年前のローマ時代、古代の戦士たちが勇躍ガリー船団を組織してこの原始密林が迫るテームズ河へ入り、遡上し、その現地民もろとも征服する、そんな歴史事実を簡潔に語ったあと、自身の哲学的な感傷へとのめりこんでいく。

いいかね、われわれにはもう(古代の征服者たちのような)そうした気持ちはない。われわれを救ってくれるものは、あの能率主義だ。われわれは皆能率ということにすべてを忘れる。ところが、今言った連中は、いわゆる殖民者ではなかった。彼らは征服者だったのだ---。中略----よく考えれば、汚いことには決まっている。だが、それを償って余りあるものは、ただ観念だけだ---おのれを滅して、観念を信じ込むことなんだ、---われわれがそれを仰ぎ、その前にひれ伏し、進んでいけにえを奉げる、そうしたある観念なんだ。」

これは伏線というよりもこの人間の歴史が繰り返す業とでもいうべきものの暗示なのだろうか。それとも、現代では絶えてそんな事象はないのだという宣言なのだろうか。そこまで言い進んだ一編の語り手は、唐突に話題を自身の体験談へ移す。彼自身、能率主義に堕することを嫌い、世界になお残る空白の地、アフリカの奥地を征服することを夢見て、フランスの奥地開発会社の捨石に進んで応募する。そして、その、彼が実際に行き、想像以上に荒廃の進んだアフリカの地で、彼は殆ど伝説と化したような「偉大な征服者」密林の王とでもいうべきクルツと言う男の存在を知る。もっとも、彼は現実として、その開発会社の奥地の出張所長という身分に過ぎないし、しかも、彼自身すでに現地で重い病気に罹り、救出を要する状況だった。
自身で2ヶ月かけて修理したぼろ蒸気船の船長として原始林の間をのたうつ大河を遡上し、クルツの救出に向けて困難で危険な船旅を続けたマーロウは、一応その目的を達成するが、その好奇心と憧れの的でもあった男は、船に収容し、下流へ向かった数日後の夜、死ぬ。
「地獄だ、地獄だ!」という最後の言葉を残して。


マーロウが現実としての暴君であるクルツを見、更に死期の迫った彼に失望を感じたのは確かだ。その密林に覇をとなえた名残をとどめる朗々たる声も失われ、自身の死を予感して怯えてすらいる男にかっての英雄的な姿はなかった。それにもかかわらず、彼がこの非凡な人間の思い出をずっと大切にしているのは、結局、誰にもなしえない困難なことをやりとげた人間に対する畏敬とでもいったものだろうか。善悪を超えた不可知なばかりの人間存在といったものへの驚きなのだろうか。

密林に君臨したクルツをめぐる二人の女の存在が憎いばかりに見事に描きわけられている。現地民の間に際立つ女王的な女、そしてパリに残されて彼の思い出に生きる女、マーロウが伝達した偽りの言葉に悦ぶこの女の哀れさとの対比は実に皮肉に感じられた。

コンラッドはひとことでいえば「海洋冒険小説作家」と位置づけられているらしい。「旺文社」の世界人名辞典(S36年初版)にもそんな著述があった。そして代表作(特に優れている)としてあげられた3つの作品の中に「闇の奥」はなかった(映画にもなった「ロード・ジム」が含まれていた)。多分、そうなのだろう。コンラッドが生きた時代で、この「闇の奥」は彼の作品の中でも異様な、マイナーなものとしてさほど評価はされなかったのだろう。後年、この異様さが他の芸術家の関心を呼び、映画化したいという欲求を生んだのだろうと思う。

とかく、映画と原作は別物であることが多い。この場合も、私にはまったく異なったもののように思える。どちらが本物なのかを問うのは無意味だろうけれど。



(165)ホンダ

ホンダのロングセラー「スーパー・カブ」が累計生産台数5千万台を超えたという(2/7 yahoo news)。いわずと知れた50CCの超小型汎用バイク、浜松の群小バイクメーカーのひとつに過ぎなかった本田技研(株)を世界のホンダに飛躍させる起爆剤となった大ヒット商品だ。ネットの記事には、世界最初の量産自動車「T型フォード」、それにV・Wの「ビートル」にも比肩しうる快挙とあった。これらは四輪自動車であり、2つの偉大な先輩は、奇しくもこの半分弱、それぞれ二千数百万台の生産記録を達成して、もちろん双方とも生産は終了しているけれど、スーパー・カブは今なお世界中で量産中であり、まだまだ記録が伸びるのは確実である。

「スーパー・カブ」が出るまでは、バイクはやたら自転車のように、更には大衆四輪自動車のように沢山売れる商品ではなかった。むしろ趣味的な遊び道具だったし、それはハーレーのような大型バイクとして今でも続いているけれど、そういったバイクメーカーは規模も小さく、四輪自動車に本格参入することはホンダを例外としてまずなかったことだ(BMWなどの例はあるけれど、時代が違う。彼がバイク生産を始めたのは20世紀もはじめの1919年、自動車を商業生産しはじめたのは198年だ)。


ホンダが出した数多くの商品の中でも「スーパー・カブ」は初期のものだけれど、その画期的な商品性能から爆発的な売れ行きを見せ、その後の大発展の基礎になった。その成果で得た豊富な資金力でヨーロッパのバイクレースにうって出、大成功を収めて世界のホンダになり、後発のメーカーにもかかわらずその結実としての圧倒的な技術力と商品力で他の世界中のバイクメーカーを駆逐し、世界制覇をなしとげた。
結局「スーパー・カブ」に対抗するようなメーカーも、車種もいなくなり、今度の記録になったということだろう。わずかに同じ日本メーカーのヤマハスズキがあるけれど、追尾するというにはなお差がありすぎる。
バイクの成功の勢いで、ホンダは四輪車に挑戦する。平行してF1にも参戦する。もちろん四輪車の世界は二輪車とはまた異なったより高度で複雑な世界であり、更に困難があったけれど、ホンダチームはそれらを克服して連戦連勝、四輪車の世界でもトップに立つことになる。
ホンダの成功譚、そして創業者である宗一郎の伝記はまったく面白く痛快だ。様々な書籍がでているけれど、私は城山三郎の「本田宗一郎との100時間 講談社文庫」を推薦したい。この魅力的でユニークな英雄に作者自身が肉薄して生々しい人物像を総合的に活写している。それと平行してホンダの創業から世界のホンダへ発展するまでの歴史も、サマリーにではあるが重点はもらさずしっかりと描かれている。

スーパーカブの登場部分ではこうなっている。

スーパー・カブは、余り乗り気でなかった本田(宗一郎)に、藤沢(武夫 創業以来の常務、副社長)が「つくってみろ、売ってやる」式で仕掛けた商品である。

合成樹脂をふんだんに使って軽量化、低廉化をはかり、ノークラッチ、セルモーターつき、更に座席下のパイプフレームがなくスカートでも乗れるという、独創的なデザインで、藤沢はそのできばえに驚いたが、「月に3万台売ってやる」といって今度は本田を驚かせた。

そのころオートバイはホンダが月産7000台、各社合わせても全国で2万台/月しか売れなかった時代である。だが、新しい商品に見合った新しい需要層を開拓できるというのが藤沢の考えで、結果は藤沢の見通しどおりとなった

 

乗り気でなかったという宗一郎の本音は、技術者としてもっと派手な、スピードの出る大きなオートバイを作って売りたいという気分があったからだけれど、もちろん、だからといってスーパー・カブが技術的に安易なものだということではない。この成功の陰には、その直前に苦労を重ねて商品化したが売れなかったジュノー号というオートバイの技術が生かされていた。ここに描かれている商品の仕様を見れば、現在のものとまったく変わらないことに改めて驚かされる。
製品の優秀さだけではない、藤沢が売ってやるといえば、時日をおかず工場の量産体制をそれにあわせて1万台/月を達成する生産技術力も併せ持っていた。これらは宗一郎の卓越した創造力と実行力があって実現できたことだと思うけれど、彼にとっては、もちろん同時期になされたバイクの世界レースへの参入という途方もないことからすれば、たいしたことではなかったのだろう。

私とホンダとの個人的な付き合いを言うと、24ではじめて必要に迫られて原付免許を取り、CD50を買って通勤に使った。基本的にはカブと同じ4サイクル50CCエンジンだ。キック式で故障は皆無だったけれど、8000キロ乗ったところで盗難に遭った。ひと月もせずに戻ってきたが、ぼろぼろで乗る気はしなかった。最高時速で90キロは出たと記憶している。もちろん30キロが上限だからスピード違反だ。
それから25年たって、また再びホンダに戻った。今度は四輪車で「オデッセイ」である。もう10年以上乗っているけれど、やっぱり故障はない。
この正月、この車で湯布院へ湯に漬かりに行った。温泉町の郊外にある私立の博物館「イワシタコレクション」に寄った。300台を越えるヴィンテージオートバイのコレクションが圧巻だった。ホンダ車は特設スペースで多数別格展示されていた。まったく楽しいひと時だった。





戦後の日本にホンダとソニーが存在しなかったら、日本の世界での立場は今とは随分異なった、肩身の狭いものとなっていただろう。いや、世界の文化と文明は随分貧しい、寂しいものになっていただろうと思う。これは大げさだろうか。


余り話を広げる積りはないけれど、ホンダやらソニィが日本という土壌から現れたのが私には不思議にも思えるのである。松下やらトヨタはもちろんすぐれたメーカーだけれど、優れた管理方法が成功したという意味で、日本のメーカーだと納得できる。これらに対して、ホンダやソニィはまったく日本的ではない、ラテン的な色合いすら感じる。こんなメーカーが日本で生まれたことは奇跡のように思えるけれど、事実なのだ。ま、こんな印象論は余り意味がないけれど。



164)ドライビング ミス ディジー


職場の同僚に「昨日(きのう)、芝居見た。」と言ったら、「嘉穂劇場?」という反応があった。一瞬ひるんだけれど、彼の気分は私には良く分かった。隣り町飯塚市にある嘉穂劇場というのは、戦前に建てられたいわゆる演劇専門の「芝居小屋」で、全国的に有名な、県の文化財にもなっている立派な大建築物だから、小屋というには躊躇があるのだけれど、この劇場施設にはやはり「全国座長公演」とか、「歌と芝居の五木ひろしショー」とかいうのが似合いなのだ。

要は、芝居という言葉が、大衆演劇をとっさに連想し、「劇団民芸+(プラス)無名塾公演」とかいう、いわゆる芸術演劇(こんな言葉はなかったかもしれない。むしろ「新劇」というべきだろうか。しかしこれではずっと狭い範囲に絞られる)の舞台公演を連想することが少ないということだろう。では、彼らの芸術を、どういえばいいのだ?

音楽ではクラシックにあたるのだろうか?いや、演劇におけるクラシック(古典)というのはむしろ歌舞伎やら文楽、それに能楽などがそれに該当するだろう。といって現代音楽との類似はまったくない。もちろんライトミュージックとは違うし、ポピュラー音楽とも違う。歌謡曲が大衆演劇とすれば、オペラが彼らに近いのだろうけれど。いや、オペレッタやミュージカルに極めて近似した井上ひさしなどのものもある。いや、話が更にややこしくなってきた。もうやめる。

芝居というのはくだけた言いかただろう。むしろ演劇全般に対する賎称の気味もあり、商業演劇には出ないというポリシーを貫いているという仲代達矢氏(無名塾主宰)などには失礼な言いかたかもしれない。素直に「演劇」といえばまだましだったのかもしれないけれど、ちょっと気取った感じがあって、日常会話には似つかわしくない言葉だと勝手に思って使わなかったのだ。
それにしても、「商業演劇」とは何だろう。いわゆる芸術至上主義を標榜する「新劇活動」というものとの反語として使われる言葉なのだろうか。しかし、金権主義のまかりとおる現在、そんな言葉はまだ生きているのだろうか。もちろんこんなことを、日本最高レベルの芸術劇公演をたかだか平均4千円くらいの超お得な入場料で観劇しているわれわれは言える立場ではないけれど。
この一流の舞台が見られる「市民劇場」に入会して観劇を習慣づけた‘05年からちょうど一年がたった。そのかわり音楽会にいく機会が減った(小遣いの都合で勝手にへずった)けれど、これは入ってよかったと今にして思っている。

表題の作品は昨年度の芸術祭大賞受賞作(仲代、奈良岡朋子<劇団民芸> 同時受賞)であり、他にもいくつもの賞をとっている、いわば昨年の話題作であり、期待して観に行った 訳・演出丹野郁弓  直方ユメニティ 1/24。
舞台は
1948年から73年にかけてのアメリカ南部、奈良岡扮するユダヤ人の老婦人ディジー(舞台当初ですでに72歳になっている)、教師の経験もあり独立精神旺盛であるが、事業家として成功を収めた夫に先立たれ、夫の会社を継いだ息子プーリー(長森雅人 無名塾)も更に大きく社会的な重要人物に成長していく途上にあり、彼女は息子の庇護と遺産で不自由なく暮らす身分。
自分で運転していた自動車をミスって自損させ、保険会社から見離されたらもう車を手放すか、運転手を雇うしかない。自分のことは自分でという元来の主張に自縛され、意地を張って不自由を我慢する老母を見かねて、息子は強引に黒人の運転手ホーク(仲代)を雇用し、嫌がる母の家へ送り込む。

舞台は終始この三人だけで進行する。
当初は家に異分子をうろつかせることに嫌悪し、無視し、用いることがなかったディジーも、ホークの誠実な人柄を知るにつれて次第に気を許すようになり、運転手として重用するようになる。様々なエピソード、曲折を経、20年を越える使用者と雇用者の長い関係が続く。お互い老いを重ねて人生のたそがれが訪れるころ、二人の間には唯一無二ともいえる親密な友愛関係が出来ていく。

これは翻訳劇(作 アルフレッド・ウーリー)で、戦後のアメリカ史を背景とした南部の土地事情なども知らなければ、よく理解したとはいえないのだろう。キング牧師の南部講演にまつわる挿話は興味深い。黒人差別と、南部で生きるユダヤの家族社会の地位など、黒人が彼らをどんな目で見ていたのかということなど、私にははじめての世界でもあったけれど、おおむね劇が主張したいことは分かったつもりだ(本当かな?)。

これは老いと人間関係(親子、姑、男女、友人)についての物語であり、人間の尊厳、ホークの使用者に対する自己主張はまことに新しい米国の理想に沿っているといえる。また老いた人間の頑なさにまつわる尊厳と、人間同士の結びつきとをどう調和させるかということ、それらの理想を追求したものなのだろう。
老いというもののマイナス面を強調する役割りを担った奈良岡ディジーと、それにうまく適応し、受け流しながらも自分の尊厳をきっちり守っていく仲代ホークとの相克、それを乗り越えてやがては美しい調和へと至るエピソードの積み重ねが実に見ものだった。

歳を重ねるにつれて逆に美しくなっていくような奈良岡の演技、いつもながら豪放で柔軟無比な仲代のうまさ、そして典型的なヤンキー青年を表現した長森プーリーもよかった。皆それぞれに適役だった。年初から素晴らしい舞台演劇を見せてもらった。




163)博士の愛した数式

久しぶりの邦画。お勧めのメルマガを読んで、いつも、そのうちにと思っているうちに見逃してしまうので、今回は早めに出かけたら、なんと封切り初日だった。封切り日に観たのは初体験ではなかったか。そういえば、舞台挨拶などはなかったけれど、地味な映画のわりには客の入りが多かった。7分くらいだったか知らん。こんな客席を見るのも久しぶりだ。ずいぶん昔、ムツゴロー氏が製作した子猫主演の映画を家族で見て以来の経験だった。ま、こんなことはどうでもよろしい。

「雨あがる」などの小泉尭史監督で、小川洋子原作の同名小説を映画化した。小説 は50万部を売るベストセラーになったらしい。あまり興味がなかったのだけれど、小説を読んでみようかという気にもなっている。もちろん映画とは別ものだろう。それぞれの作品における作家のせめぎあいを覗いてみたいという気分からだ。
   深津絵里の家政婦(杏子)が派遣された家は美貌の未亡人(浅丘ルリ子)が家主で、離れに棲む義理の弟とがお互いに没交渉で離れてひっそりと暮らす、いわくありげな家族だった。杏子が世話をする寺尾聡の弟は気鋭の数学者で博士だったけれど、事故のために記憶が不自由になっており、日常で社会能力が不全なために大学を辞め、隠棲している。大過去に属する、事故の前の記憶は鮮明であるが、事故後の、つまり現在の彼の記憶能力は80分しかもたない。そのために、彼にとって家政婦とは、常に毎朝出勤時が初対面ということになる。

こういったかなり無理な設定はどこかで破綻しがちなのだけれど、あまりこれを深く考えることもないのだろう。ともかく、未だに彼の学問的な能力は卓越していて、懸賞論文に応募して入賞したりしてしまう。こんな能力があるのなら、大学を辞めることもないのではないか、とも思うけれど、それは作者にとっては承知の上で、彼が隠棲した理由は他にもあるのかもしれない、と思わせる伏線になっている(のかもしれない)。
家政婦が長続きしない、といわれる理由は、学問至上主義で、気難しい博士の奇矯な、気ままなふるまいが家政婦たちに我慢できなかったということなのだろうけれど、杏子はそのもちまえの明るさとくったくのなさでその困難を乗りきり、むしろ博士の優しさ、暖かい人間性に惹かれてもいく。博士も杏子を気に入って、彼女に小さな息子がいることを聞いて、一緒に夕食をとるようにと提案したりする。

意外に子煩悩な博士に息子もなつき、学生時代は野球に親しんだという博士を担ぎ出してコーチを頼んだりすることになる。博士が熱を出して寝込んだ時に、泊り込みで世話をした杏子に嫉妬を燃やした未亡人(浅丘ルリ子)は契約条件違反を理由にして、杏子を解雇し別の家政婦を雇う。しかしその後も、息子が博士の家へ遊びに来ていることを咎め、怒りを爆発させた---「貴女には(博士を横取りしようとかいうような)作為があるのではないか!?」と杏子に迫る。
未亡人と博士の間には辛い関係だった時代の過去があって、二人ともそれで深く傷つき、長い間その暗い過去を引きずってきた。博士としても、そんな過去こそ記憶から消しさりたいに違いないのだが、人生とはうまくいかないものだ。もちろんそんな不具合が人間関係に、その個人の内面に解決困難な葛藤をもたらすことで小説、物語のはじまりになるのだけれど。そして、そんな不具合をうまく解決していくところに小説家、映画作家の作業の面白さがあり、そしてそれらの作品を味わうわれわれのの楽しさもあるのだろう。
もっとも、この映画の成功、魅力はそんなところばかりではない、数学という一見無味乾燥な世界のなかにあるいくつもの文学的なテーマに近似したアイテム(これらは多く、言葉のあそびには過ぎないのだけれど)をうまく取り上げて作品のなかへはめ込んでいったユニークさにもあるのだろう。


博士に愛された杏子の息子が、その影響もあって数学の教師(吉岡秀隆)になり、初対面の高校の生徒たちの前で、自己紹介を兼ねて博士との出会いのエピソードを語っていく、その回想として映画の筋が進められていくという構成も巧みで、物語のハッピーエンドが約束されたようで、安心して愉しんでゆける。完全数、孤高の素数群やら友愛数、I(虚数)やルート(博士がつけた息子のあだな、語り手である教師のあだ名でもある)オイラーの公式などテーマに添った数学の公式、知識などがそこで巧妙に織り込まれてわれわれに一種知的な興味を喚起する。

考えてみれば、このドラマは、底辺には結構どろどろした設定があり、もっと暗く描くことも可能なのだろうけれど、登場人物、深津絵里をはじめ、みな清潔で愛らしいキャラクター配置が、必然的にさらりとした後味の良さをかもし出した理由なのだろう。四季の自然、花々が背景にうまく取り込まれ、きれいな映画になった。自然も、人物も様々な人間関係も、子供たちもみな清潔で愛らしく美しかった。
 
それにしてもあの80分しか記憶能力がもたない博士は(その割には、進行するうちにもずいぶんスーパーマン的な人物像になっていくのだけれど)、何の象徴なのだろうか?
私なども毎日、毎日嫌な人間関係をリセットできれば、本当に気持ちよく人生が送れるような気もするのだけれど。こんな退嬰的な妄想は、やっぱり完全数とも、友愛数とも縁のない、人間失格のあかしなのだろうか。



(162)日本の失敗

松岡正剛氏の「立紙篇-千夜千冊」は実にユニークなサイトだ。ずいぶん様々な本をここで知ったし、インスパイアされたことは数知れない。氏のあくなき知と知識への挑戦は、また立花隆氏のそれとは違った意味で貴重なものだ。ごく最近の章で紹介されてあった「日本の失敗---第二の開国と大東亜戦争 松本健一著 東洋経済新報社刊」を読んだ。
これは司馬遼太郎氏が「このテーマは書けない」とさじを投げた、いわゆる「今次の無謀な戦争」 日本が最もひどい状況下にもがいて破滅した対米戦争についての詳細な分析である。日清、日露戦役を順調に成功させて帝国列強に伍して発展してきた日本国が、なぜ、どのようにしてあのような「愚かな戦争」へ入ってしまったかという近代史の謎解きである。松岡氏の「日本人はぜひ、一度は読んでもらいたい」の意を受けて早速取り寄せたのだけれど、手に取った瞬間からぐんぐん引き込まれて、PCの前で一気に読み終えてしまった。久しぶりの充実感があった。



松本氏の著作は多いそうだけれど、私は何も読んでは居なかった。それで、氏もやっぱり「国民の歴史」派なのか、と思っていたけれど、それは違っていた。それはこの本の表題の「日本の失敗」にも現れている。「国民の歴史」派がナショナリズムの見地から大東亜戦争を徹頭徹尾アメリカの謀略という面から捉え、どちらかといえば必然的な道だったと位置づけたのに対して、松本氏は様々なイデオロギーや色眼鏡を排除し、冷静に資料を分析した結果、これは明らかに日本の失敗だったと言っているのだ。もちろんアメリカの謀略という面も排除は出来ないけれど、彼ばかりに責任を押し付けるのはまた身勝手というものだ。歴史は変えられないけれど、日本の辿った道が失敗だったということは、失敗しない選択肢もあったということだろう。それは、本当にあったのか?

この対米戦争の原因を分析した著作では以前、猪瀬直樹氏の「日本人はなぜ戦争をしたか 昭和16年の敗戦 著作集8 と、黒船の世紀 ガイアツと日米戦記 著作集12 日本の近代 小学館」を読んだ。これはこれで随分ためになった。目を見開かされた思いだった。
同様に「国民の歴史」もいいけれど、やはりそれだけでは栄養が偏る。様々なひとの、様々な言い分を知らなければ駄目だと思う。これはきりのない作業であり、これで終わりというものではない。しかし、ひとつ読むたびに少しずつ思いが深く広くなっていくことは確かだ。

松本氏のこの著作はこれまでこのテーマを扱ったものの中では最も大部であり、量だけではない、短い期間ではあっても複雑なこの近代史のテーマを、様々な角度から掘り下げて率直に分析することでより史実に近く、真実に接近しているという感を深く持った。ここには余計なことは書かれていない。豊富な内容だけれど、一気に読めたのはそういう理由からだろう。

そのひとつが当時の日本の政治の詳述だ。国会で、最高府のなかでそのころ何が行われていたのか、どんな政治家が、どんな意見を戦わせていたのかということがよく活写されている。これは日本の針路を直接的に左右する力を持った人間たちのドラマの場であり、最も重要なことだろう。それも、戦争直前のものではなく、日露戦争終結以後から日支事変あたりまでの長いスバンで俯瞰している。そうなのだ。日米開戦の道はかくも長いスパンで見なければ真の原因は現れては来ない。多くの伏線があり、さまざまな岐路があったはずだ。最終の奈落へ落ち込まずに逃れられる道もあったはずだ。
ひとつのターニングポイントというべきものが、ドイツ領だった青島占領と、次の年の「対支21カ条の要求」だった。その後の満州事変、そして泥沼にいたる日支戦争から大東亜戦争開始まで、いくつかの回避が可能な時点はあったのだし、それに気づき、主張し、行動していた政治家、思想家は(少数だが)いた。しかし、そのつど大局を正確に見れなかった日本のトップは悪い選択ばかりをしてしまった。その結果が敗戦だった。
 
いわゆる「統帥権」というものが日本の針路を決定的に誤らせたという司馬遼太郎のぼやきを本書は実にわかりやすく、事例をあげて分析している。そうだったのだ。この軍部が独走する元凶だった、錦の御旗として使ったという武器を、戦後を代表する党人派政治家が若気の至りとはいえ恣意のままに、政争の具として使い、以後の軍部独走の道をつけててしまったという指摘は実に鋭い。もちろん言論界にも、そのぐちゃぐちゃになった政界にもなお具眼の士は存在したけれど、それも汚染された悪貨に駆逐されて力を発揮できなかった。時折り新聞のコラムなどに、こんな政治家もいた、というような、エピソードとして取り上げられる論客斉藤隆夫が国会でなした事跡も「粛軍の演説」を中心としてかかれてある。日本はこのような優れた政治家もいたし、そして国会においてもそれなりの支持を得ていたのだ。しかし、政党政治の未熟さがその正当性を大きなうねりになしえなかった。

氏が強く主張するポイントは、日本が日清、日露戦役での「開戦の詔勅」にもうたわれ、常に心がけていた「国際法の遵守」がこの戦争ではなされなかった(この詔勅の内容における無目的さ、具体的な理念の乏しさは、まさしく日本が一体となって鉄砲玉になってしまったことを証明してはいないだろうか。日本の軍人は、国際法の代わりに、東条英機陸軍大臣の上奏した「戦陣訓」を背負って戦うことになったのだから)、という点だ。満州事変以来、日本がいくつもの国際的な取り決めを破って孤立してきたこと(この点が著者をして大戦間の日本を第2の鎖国と定義づけた理由だろう)は明らかであり、この汚点が今次の戦争を始める時にも大義というものを掲げ切れなかった遠因になったし、戦後の国際裁判においてBC級の戦犯を生んだ理由だった(捕虜の虐待など、常識とされた教育が軍隊ではなされていなかった。南京虐殺も起こるべくして起こったことだった、と)。
それらの罪が問われた結果が、戦後の日本憲法において第9条(国家としての軍備の放棄)という厳しい十字架を背負わされた理由だったのだ、と氏は言うのである。

全体としてまことに厳しい、日本人として読みづらいところも多い、辛口の本である。「国民の歴史」とは随分違っている。だからこそ、辛い読み物だからこそ松岡氏は「日本人は読むべきだ」とのコメントを加えたのだろう。良薬は苦いものだ。





161)強度偽装

年末私たちの耳目を集めた大きな出来事として強度偽装、いわゆる姉歯事件があった。この全容はまだ揺れ動いているから、どこに根本的な原因があったのか、誰が一番のわるだったのかということはなお確定できないけれど、まったくこれまでの常識からは考えられない事件だったことは確かだ。これが犯罪という範疇に入るだろうことは間違いないけれど、それも現在の法律で裁けばたかだか50万円ほどの罰金しか科せられないというのだから、そもそもこんな事件が起こるということなど、司法界を含めて社会全体の想定外だったことがわかる。

人間は欲があるから汚いことにも手を染める。それはありうることだけれど、大体が普通の人間一人一人にチェック機能があって、それはたとえば常識とか、プライドとか、そんなものが法律や、社会的な秩序に従うようにしむけているのだろう。たとえば警察だって悪いことをすることはある。そのためにも警察の内部にチェック機能がなくてはならないけれど、警察という組織としても一人の人格としてみれば、悪いことをしようとしているメンバーに気がついたらそれを事前に抑えるという動きは必ずあるはずだし、これまでの多くの組織的な不祥事なんかも、そうやって大事に至るまでに正常に戻されてきたということだろう。

今度の不祥事にはそんな機能は働かなかった。同情的な目で見れば、皆こんなことは起こらないだろうと思っていたから、そういった既成概念から、チェックをないがしろにして見送っていたのだろう。もちろんごく少数の当事者は気がついて未然に防いだようだったけれど、これだってごく少数というお寒い状況だった。姉歯がなした悪事はもちろん悪いことだけれど、しかし、この悪事を素通りさせて、ともかく最後の巨大なビルを建ててしまうまでに立ち会った数々のプロフェッショナルは何を見ていたのか、何をしていたのかと不思議に思う。特に建物が実際に形になっていく過程、現場の建築屋諸氏は危険な脆弱極まりないビルが作られていくのをどんな気分で眺めていたのか。それは、本当にわからないものなのか。

私は多くがわかっていて、そのまま見過ごしたのだろうと思う。実際にそれと気がついて「鉄筋を”自前で”設計図以上に増やした」良心的な下請け業者もいたのだ(これは”美談”だよね、他の情けない、異常に気がつかなかった大多数のプロと対比すれば--)。長大なシステムの進行の中で、それら少なくない、潜在的良心を持っていた彼らは、恐怖と無力感にさいなまれながら鬱々した気分を送ったに違いない。何十という、そんな大惨事につながりかねないビルディングがそうして作られていったのだ。

もちろん、こんな想像は私の勝手なものだけれど、これらの寒々とした現象に、私はやはり日本人の流されやすさ、無責任体制の普遍性を思う。唐突な連想かも知らないが、かつての大東亜戦争の進行もこんなことだったのだろう。


 

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