(221)神は妄想である へ飛ぶ


220)しまなみ海道

 

H20)5月の連休を利用してかねてより狙っていた「しまなみ海道ドライブ」を敢行した。

ただ通り抜けるだけでは島じまのひとたちに失礼なので、できるだけ各島へも降りて見るべきところをみたい。それでいつものようなつむじかぜ的強行スケジュールを組まず、余裕を持たせ、3泊4日という贅沢旅行(時間的に)になった。1泊目は尾道あたり、2日目で海道を渡り、今治で2泊目、3日目に松山へ入って観光し3泊目をそこで取る。4日目はカーフェリーを利用して帰行専念、ただ無事に帰着するのみ。

ドライブであるからしてもちろん車はわが緑(ダーク・グリーン・マイカ)のコペン。実はコペンを使う以上、しまなみ通過の際には絶対オープンで爽やかに海風を受けて走りたいという願望があった。しかしこの計画は妻の反対であえなく中止。折角このために自作したバック・キャリヤーは取り外されて留守をかこつことになった。もっとも、オープンにしないと割り切ったら、この軽スポーツ車のトランクは3日や4日の旅には耐えられる容積が期待できる。当然だろう。この後部トランクは自身の屋根(ハードトップ)とリヤウインドウを現形のまま呑み込むわけだから。

 

/29日 快晴。午前9時を少々越えてゆったりと出発。すぐ九州自動車道へETCで乗り、コペンでは初めての関門橋を快適に通過。軽自動車での遠乗り、特に高速道での長時間ドライブは初めての経験であり、ちょっと不安だったのだけれど、問題なく連続走行一時間を越えて、余裕で美東SAへピットイン。今回の旅行には直近に装備したETCとともに例のエクリプス・カーナビも大いに利用し、最先端の機能を堪能させてもらうことにした。最初の目的地、尾道市立美術館、美女(?)の音声指示は「5Km以上ずっとみちなり」。何にしても高速に乗って現在次のSAがどれほどの距離にあるのかというのは最大の関心事であり、これまでは地図と首っ引きで煩わしい計算におおわらわだったのが、もう何も考える必要はない。ただディスプレー上に現れる様々な表示と指示を眺めていればよい。ともかく時々刻々車の進行につれてそれらが変化し、アジャストされていく。なんという便利な時代になったことだろう。

途中で高速性能試験を行った。うわさに拠れば140Km/近辺でエンジンブレーキがかかってそれ以上に加速できないようにプログラムされているらしい。それを確かめて見たかった。なるほど確かにそれらしき反応はあった。ただちょっと低すぎる136Km/hあたりで減速しはじめる。2度試みて2度とも同じ反応が感じられた。ナンにしてもわがコペンのスピードメーターのレンジは140Km/hでエンドになっているので、それを超えても確かめようがないということではある。

 

小谷SA尾道ラーメンを食して、PM2時過ぎに尾道市街へ。カーナビの示すとおり狭い山道へ入り、千光寺公園着。

尾道最大の観光スポットへ裏山から入ったということだ。

尾道市立美術館は「版画による印象派」展

 

印象派の画家たちは日本で最も人気のある芸術家たちだろう。しかしその素顔に近い版画作品は余り見る機会がない。ロートレックのポスター作品(もともと版画だろう)は中では例外的に有名だけれど、ミレーマネ、ドガなどの版画は初めて知った。中でも力を入れていたというゴーギャンの木版は興味を引いた。日本人はなかなか油絵を描く機会はないと思うし、準備が大変だ。木版なら比較的身近な感じであり、体質にもあっているように思う。エッチングという技法も面白い。簡単に実作することはできないのだろうか。

尾道は立地に恵まれず、さほど大きな都市ではない割には著名な文学者が何人も輩出しているし、足跡を残している。千光寺公園から急な坂を下っていくあたりにはそれら林芙美子高垣眸などの資料がある文学の館、そして個人では山本憲吉志賀直哉などの記念舘があって楽しめた。

志賀直哉は大学を卒業してすぐ尾道に来て、無名時代の半年を「暗夜航路」制作に過ごしたらしい。3軒棟割り長屋の東側が彼の棲んだ6畳DK付きで、そこだけ当時のまま保存されてあった。舘の志賀おたくらしい主人と志賀の小説の楽しさを歓談する。そのうち陳列ケースに並べてあるなんということもない磁器の茶碗や急須など十点あまりについて、志賀が好意を持った近所の古道具屋の娘とのかかわりで立ち寄るごとに買い揃えたものだと説明してくれた。淡白な志賀の小説中にそんなロマンスがあっただろうか。

尾道は聞きしに勝る坂道の町で、公園から順次見るうちに国道2号線とJR山陽本線が近接して平行している場所まで降りてしまい、また同じ坂道を戻る体力はなかったので、幸い百メートルほど東にあったロープウエーで公園まで戻った。

その日は隣の福山に近い海岸沿いにあるホテル“べラビスタ境が浜”に泊まった。主に大浴場があるか、温泉といえるものかどうかが我々の宿の選択条件なのだけれど、尾道近辺にはあまりその種の宿がなく、ちょっと高級すぎた観はあったけれど、他の選択肢がなかった。ま、ロケーションもよく、風呂もよく、料金だけのものはあった(尾道市街からホテルまでの道は離合もかつかつの非常に危険な狭い道が続いたが、なぜ辺鄙な地であれだけ交通量が多いのだろう?)。

 

/30は朝から快晴。8:30にホテルを出て一路しまなみ海道へ。カーナビで向島洋ランセンターを指示していたからだろうか。あとから思うにいわゆる高速道へは入らず、一般道の尾道大橋旧橋を渡ったらしい。自慢のETCは使えず、おっさんに「150¥現金!」と、カードも拒否された。むっ。おまけに無味乾燥に広い向島のあちこちを走らされたあげくにたどりついた「洋ランセンター」は本日休業。むっ、向島はもういい、次。,

(向島の住民にはさほど責任はないと思う。筆者注)しまなみ海道沿いの島では因島は一番名が知られていると思う。私自身は歴史的に有名な水軍の故地などを訪ねてみたかったのだけれど、同伴者が興味を示さずこれもパス。次の生口島は有名な平山郁夫美術館に寄る。日本画画壇の最高権力者にとどまらず、シルクロードを基点とした平和活動家としてもつとに高名である。作品は平明で装飾性が高く、価格も飛びぬけて高いらしい。次々に団体のバスなどが訪れてその人気の高さを物語っていた。

次の大三島に「しまなみの駅(道の駅)」があるようなのでそこで昼食を摂ることにした。小さな大衆食堂でラーメンを食した。しょうゆ系のラーメンで、結構美味だった。ついでといっては失礼なのだけれど、そばにあった大三島美術館を覗いてみる。加山又造の真っ赤なアブストラクト的な大作がひとつ、目玉になっていたが、ここのメインは田淵俊夫のコレクションだろう。繊細でありながら大胆な濃淡が見られる印象の深い作品があり、日本画というよりも、優しくも繊細な具象絵画と呼ばれるにふさわしい画業が見られた。同じ瀬戸内の島出身の平山とは随分密接な人間関係があり、同じ東京芸術大学では学長と副学長の間柄だ。もっとも、お互いの絵柄は全く違う。

日本画といっても実に多様なものがあることが分かる。舘を出てそばの大山祇神社を訪れた。樹齢三千年という大楠の木が見られた。既にここは今治市の管轄だったけれど、残りの伯方大島を素通りして四国今治の天地へ入る。今治城へ行く前に市立の河野美術館へ寄る。

河野信一
という篤志家が収集した日本の中世から明治初期にかけての古美術、古文書のコレクションが母体となっている。絵巻物やら屏風などなかなかみごたえのあるものが多かった。そのあと藤堂高虎が築いた今治城を見たけれど、そこの山里櫓の古美術展示場にあった武具や細工もの(自称10M¥のお宝もあって保管には気を遣って欲しいと思った)は、やはり河野氏の寄付によるものであった。どちらか一方で管理すればいいようにも思うのだが、お互いに言い出しにくいのか、それとも政策的にその方が広く多くの人に見せることが出来るということなのか。

天守閣から眼下に広がる良く整備された公園を見ていると、藤堂高虎の銅像の前でクラスメートのような女生徒の一群が集合して記念写真を撮っていた。今治市の象徴のようなこの城は観光の目玉として、また市民の憩いの場としてこよない機能を果たしているのだ。税金を使った過去の建造物の建築が歴史的(幻に近いものもあるようだ)にどんな意味があるのか、単なる無駄使いではないのかという議論もあるけれど、維持費も含めてまだ日本に財力があるうちに造れるだけ造っておくのもひとつの手ではないだろうか。財政再建団体手前の地方町村が城のような立派な役場を作るのに比べれば、まだ許せると思う。

 

その日は今治から山間へ入った鈍川温泉ホテルに一泊した。二階が玄関になっていて、階下に岩風呂や大浴場がある。食事も美味しく、リーズナブルな宿であった。

 

                                     5/1も天気は上々。行く手の山道国道317号がちょっと気がかりだったけれど、案外早く一時間ほどで松山着。前回は道後温泉街へ行くだけのことで市中道に迷ったけれど、今回はナビの威力でスムーズに最近出来た施設“伊丹十三記念館

 

 

に到着。早く着き過ぎてまだ開館前だった。既にNHKの美術番組などでも取り上げられてあるように著名な施設になっているけれど、意外にシンプルな外観だ。アプローチに車庫があって、彼が生前愛用したマイカー、ベントレーが置いてあった。ロールスロイスにも通じる頑丈な英国車といったイメージだ。私の彼と出遭った(処女エッセイ本の「ヨーロッパ退屈日記」)印象では、同じ英国車ではあっても“ジャギュア”なのだけれど、これもそういえばスポーツカーではなかったな。もっとも、彼が次に買った英国車はれっきとしたスポーツカー“ロータス・エラン”だった。いろいろ思い出にふけっている間に開館時間になって、既に数人のおっさんがもどかしげにドアをこじあけて入っていった。

館内は伊丹の多様な活躍分野を反映して13に小分けされ、1・子供時代 から2・音楽愛好家、3・商業デザイナー、4・エッセイスト(だったか?)と続き、最後の13番目にようやく映画監督となる。かなり無理をして広くないスペースに豊富な資料が押し込まれている。見ごたえがあった。展示室を出てシンプルな中庭の芝をみるのもよし、付属のカフェーでやや固めのチーズタルトをかじるのもよし。

若い頃英語圏の良質の文化に徹底的に鍛えられた伊丹十三はその知性とスマートな天性の感覚を隠さず様々な分野に大胆に応用して成功していった。彼の映画の特徴は(キャスティングなど含めて総合的に)その見事な整合性、理詰めの構成力にあるのだろう。もちろん横溢する英国風のユーモアも大きな魅力のひとつだけれど、彼の生真面目さが悪く出てその芸術性を生硬なものにしているのは否めない。そんな意味で私が取らないのは“お葬式”、好きなのは“スーパーの女”だ。

 

ちょっと長居をしすぎて松山市の中心へ戻り、県立美術館    へ入る。カラー影絵の藤城清治の「光と影の世界」展を見た。初期の油彩、それに雑誌の表紙になった美女画を例外として、出しも出したり140点を越える、多くは巨大な切り絵壁画群が並んでまことに壮観だった。氏は84歳だというが、その集大成ともいうべき展覧会なのだった。その世界に込められた高い精神性と観念は理解できるけれど、作品そのものは初期のものも最近のものも殆ど変わっていない。

私はそのパターン化されたような小人やら木々、葉の装飾性の高い切り絵は何度も使いまわすのかと思っていたけれど、良く見るとそれぞれが違ったもので、失礼なことを考えていたわけだ。ロダンだって自身の作品には頻出する手腕や脚などをブロック化して組み合わせ、納期を短縮していたのだし、必ずしもとっぴな考えではないとは思う。その代わりにもっと別の観点から新しいパターンを創出するなどに精力を費やせばよかったのではないか。

車を違う無料の駐車場に回し、松山城に登った。ケーブルカーは使わなかったけれど、静かな森の中を歩く楽しみを味わった。松山城は確か3回目だが、今回は途中に領主の二の丸庭園が再現されてあった。行政がいろいろ金をかけて観光に資するように努力するのはいいが、破産した夕張市のような結果を生まないようにしてもらいたいものだ。この城そのものはオリジナルだそうだけれど、規模の関係から国宝に指定されかかって駄目になった経緯がある。

城跡が石垣のまま、遺跡としてかすかに残っているというのも風情があっていいのではないか。いかにそれ以上に壊れていかないようにするか、昔の記憶を最小限のコストで留めるという工夫が忘れられがちのような気がする。

今回の旅の最後の宿は道後温泉屈指のホテル古湧園。大浴場、岩湯、露天風呂などなかなかの豪華ホテルであった。マンゾク満足。






(219)うた魂(たま)

歌は下手糞だったけれど、どういうわけか合唱は嫌いではなかった。高校生の時早稲田大学のグリークラブとか慶応のワグネルソサエティ(確かダークダックスの母体だったはずだ)をナマで聴いたことが原因だったのだろうか。それ以前にも学校で混声合唱をうっとり聴いた記憶がある。“流浪の民”とか“美しく青きドナウ”とかいうのが定番だったと思う。スクールブラスバンドで“美中の美”とか“ペルシャの市場にて”とかいう定番があるのと良く似ている。このごろは余り演奏されないようで、懐メロになってしまい、もうポピュラーとはいえないのだろう。だからCDを探しても見当たらないようだ。ブラスバンドの方はもう遠ざかって長いので今どんな曲がポピュラーなのか知らないが、合唱曲では私が社会に出てからも多くの新作、名曲が世に出て定番にもなっているようだ。十年ほど前(もっと以前かもしれない)たまたまラジオで聴いて圧倒された“大地賛頌”、これは凄い名曲だと思った。あとでこれは佐藤眞というひとの“土の歌”という7曲からなるカンタータの終曲だということを知った。早速CDを探して毎日聴いた。

そんなことで、高校生の合唱部の物語だという青春映画「うた魂」に惹かれて観にいった。

監督田中誠

昔のポピュラーな合唱曲が聴けるかもしれないと思ったのだけれど、それはちょっと期待はずれだった。北海道の高校で名門の合唱部に所属するかすみ(夏帆)は自分の歌唱力とルックスに自己陶酔する高三生、後輩の面倒見も良くない。もっとも美少女なのは間違いないので男子生徒にもてる。生徒会長・牧村(石黒英雄)から写真のモデルにと言われて嬉々として受ける。しかし、唄っているところを撮られ、その顔が「サケの産卵」だと笑われて激しく落ち込む(これも笑いを取るギャグのひとつなのか?)。合唱部をやめようかというところまでくるのだけれど、コンクールのライバル、尾崎豊に感動して仲間を集め、合唱団を組織している番長リーダー権藤(ゴリ 年齢を感じさせなかったし映画中では唯一の儲け役、あたり役だった)たちに出会い、「うたは心だ、見かけを気にするな!」と諭されて目覚める。かつて権藤を立ち直らせるきっかけを作った臨時顧問の瀬沼(薬師丸ひろ子)が多くの場合まるで無能なのも不思議な設定だ。ドラマだといえばそれまでだけれど、生徒ばかりの自主的なクラブが全国大会なんぞへ出られるはずもないのだよ。

前半のコメディタッチは乗りも悪くいただけないし、それに現今の青春ものとしては行儀よくまともにまとまりすぎて、物語としても、映画作品としてもさほど“面白い”ものではなかった。

でもこの“まとも過ぎ”というのが、とかく奇をてらうことの多い今の映画では貴重なのかもしれない。尾崎豊の音楽、初めてじっくり聴いたけれど案外良かったし、主題歌の「青い鳥」もいい曲だった。ともかく音楽の力にも助けられた素直なエンディングは平凡ながら感動ものだった。

自己陶酔と自己嫌悪、これらは青春にはつきものだ。落差の大小はあるけれど誰もがそういったシーソーゲームを繰り返して次第にこぢんまりした大人になっていくのだろう。そんな中でリスクを恐れず突き抜ける少数者のみがスタンディングオべーションと栄光を獲得する権利を得るのだ。





(218)はだかの起原

 

ダーウィンの評判が芳しくない。アメリカの保守的な宗教団体からは反発され(これは愛嬌だが)、今また日本の科学者からは否定される。

もっとも、彼(大ダーウィン)はさほど間違ってはいなかった、と思う。ひとつは「進化」という考え方が「改善」という方向性にこだわりすぎているということ。単に「変化=分化=多様化」ということでいいのではないか。彼が思っていたほど自然は、人間は単純ではなかったということだろう。自然淘汰しかり、神と宗教しかり。

実際に我々は進化という自然現象をこの眼で見たことはない。今後も見ることは出来ないだろう。進化という現象が我々人間の間尺とは余りにかけ離れた長大な時間軸のなかで起こっていることだからだ。だから彼の理論を実験したりして証明することは出来ない。

もちろん科学者たる彼はそんなことは承知の上で彼の進化論を書いたのだ。何事であれ物事には例外がつきものだ。彼が組み立てた、理路整然たる(ま、比較的単純な)進化論のすじみちにうまく乗っかるものもあれば、そうでないものもある。これは常識だろう。ただ、ダーウィンはそこで調子に乗りすぎて間違いも冒したらしい、現代のアメリカの保守的な宗教家たちがまだ人間は神が創ったと信じているように。

著者島泰三氏はダーウィンが冒した間違いが、フィールドワークの不足によるものだということをしっかり認識していた。ニホンザルの集団が激しい台風の雨風の中でどんな振る舞いをするかということをずぶぬれになりながらも自身で迫り一日中観察し、そこから得た知見(毛皮とは彼らにとって快適な住み家そのものだということ)がこの見事な著書の成立に寄与した。

こういうことだ。進化論の中核をなす適者生存、自然淘汰の考え方で人間が獣としての常識である毛皮を捨て裸のサルになったことを解釈することは出来ないということ。もっとも、この考えは既にダーウィンと同じ時代に彼と覇を争ったウォーレスが言っている。島氏自身そこを読んで衝撃を受けたという。
ダーウィン自身を含めて、ダーウィニズムを捨てきれない多くの学者たちがこの謎に挑んで玉砕している。

私もD・モリスの「裸のサル裸になることでセックスアッピールが増して生存に有利になるとかいう説だったと記憶している。特に女性に)」、E・モーガンの「女の由来(こちらは女とは関係なく、人間が飢えて海で生活する一時期があり、そのときに毛をなくしたという説)」は発刊当時たのしく読んだ。別に批判的に読むだけの学識は私にはなかったけれど、釈然としなかったような印象は覚えている。両方ともダーウィンの説を敷衍しただけだったらしい。これも今度初めて知った。これらの説(他にもあるが)を島氏は理路整然と退けた。

では、どうして人間は裸になったのか?

 

別に理由はなかったのだ。突然変異。単に変わってしまった。それだけ。

 

裸化(正確には無毛化だが)は、それ自身元祖ヒトにとってまったく不本意な変化だった。母親は仰天し、毛を失ったサルの子は神を呪ったことだろう。寒いし日には焼けるし、蚊に刺され、怪我はする。恥ずかしくて情けない。

しかし裸のさるは逆境を撥ね返し、災いを福に転じた。どんなサルだったんだ!

偶然というか、毛をなくしたことと、前頭葉(考える脳部分)が大きくなるのとは連動したらしい。この幸運もあって、裸のサルは寒さを家を作ること、衣類を工夫すること、更に火を使うことでカヴァーすることにした。まさに必要は発明の母。彼らのライバルだったネアンデルタールたちは毛があったから家も火も衣類も必要としなかった。そのうち氷河期が来て、さしもの彼らも毛皮だけでは耐え切れず絶滅した。家と火を持っていた裸のサル(ホモ・サピエンス)は生き残ったというわけだ。

はだかの起原」副題 不適格者は生きのびる 木楽舎 ‘04,9月刊 上記のようなことが、著者と若い助手との対話、それ自身興味深い外地(マダガスカルや周口店)でのフィールドワークとエピソードを取り混ぜながら巧妙な語り口でぐんぐんと語り進められていく。専門的な内容は多かったけれど、私はそれこそ一気に読ませられてしまった。楽しく面白かった。

 

島氏の成功はおそらく世界的な事件ではないか。氏自身このあとがきに「この本を英語圏のひとが読んで批判を受けることができたらどんなに面白いだろうか。」と自信を覗かせて結んでいる。

 




217) 非戦

 

発刊当時は随分話題になったのだろうが、私は新聞にその広告が載ったことをかすかに記憶している程度で内容はよく知らなかった。新世紀初頭にアメリカを震撼させた9/11テロに対して取られたアフガニスタン(のタリバン政権)への報復戦争に対する反対意見(全部で60ほど。アフガンへの戦力投入を採決する米下院議会でひとり反対した女性議員バーバラ・リーの演説原稿から始まり、論文や随筆、ペシャワール会の中村哲氏の文もある。反戦詩もアフォリズムもあり、最後にガンジーの非暴力の声明「憎悪は愛によってのみ克服される」という一節の入った詩「核と非暴力」で締めくくられる。有名人が多いが無名の一般人のものも十以上ある。その多くはインターネットで発表された。インターヴューとかアンケートではなく、各人が自発的に発表したものであり、日本人以外が大部分で、様々な国、立場、宗教的な見方を反映しているが、一貫しているのは「非戦=戦争反対」ということだ)を一冊の本にまとめたものだ。発行は2002/0/10 幻冬舎刊。まとめ役は当のテロをニューヨークにいて目撃した坂本龍一

7年を経過してこの本を読むと、非戦派の洞察力、想像力の確かさがよく分かる。

これらの文章の中で私が最も惹かれたのは作家宮内勝典が寄せた一文「種・戦争・希望」だ。彼は言う

連続テロ事件がなぜ起こったのか、原因を知るにはやはりテロリスト側の声にも耳を傾ける必要がある。彼らはただ二つのことだけを要求している。

1.            イスラエル国家成立以前の、1947年の状態に戻すこと。

2.            サウジアラビアからアメリカは兵を引くこと。

この2つの要求には理があるように思われる---

勉強不足で、私はテロという卑劣な行動に出た彼らがこんなまともな要求を掲げていたということをこれまで知らなかった。問答無用とばかりに武力で応える大国のやりかたはテロ側と同等か、強者として大人気ない。むしろ逆上した人間同様まったく正気でないと思う。どうして真剣にこの要求の実現性を考えてはやらないのか。この文章が本当なら彼らは話の分かる相手なのだ。

 

この本の趣旨に反し、アフガン戦争を米国の国民はほぼ全面的にバックアップしたし、国連を含む他国もそれなりに協力した。アメリカではこの本は発刊出来なかったらしいが、その国を活動の舞台にしている坂本が、例え日本国内に限ったとしても、このような内容の告発書を企画提案したことには随分勇気が必要だったことだろう。彼らの努力も空しく、このあとアメリカは更にイラク戦を始めたのだけれど、今度は国論はともかく、国際的にはドイツフランスが反対するなど意見が割れた(もっとも小泉日本政府は両方とも全面的にバックアップした)ことは記憶に新しい。この本の影響もなくはなかったのではないか。

この9/11テロの問題を含む原理主義のテロは7年を経過した今もなお収まってはいないし、首謀者とされた犯人(オサマー・ビンラディン)も捉まっていない。アフガンにおいてもタリバンの回復が言われ、テロルが終息する気配はなく、全世界がこれに関連した悩みを引きずっているといっていいだろう。つまり、アメリカ指導部が手っ取り早い解決策と考えた戦争が、意に反して解決に結びつかなかったという明白な証明になったということではないか。この本で多くの論者が予測したとおり。

もちろん、戦争をせず、非戦を貫いた場合、問題がより早く解決していただろうという推論も証明は出来ないけれど、ただ、次のことはいえる。アメリカが戦争を遂行した結果失われた生命は、非戦だった場合に比べて確実に多かっただろうということ。例えアフガニスタン、イラク両国の戦闘員と民間人の死者(膨大な数だ)を含めなくても、アメリカ兵自身の犠牲者のみをとってもそのことは言えるのではないか。多分戦争主義者がこのあとに反論することは、アメリカ国内でこの7年間にテロによる犠牲者が出なかったのは、戦争を始めてアフガンのタリバーンに打撃を与えたからだということだろうが、それは間違っている。この間、イギリスやスペインなどでは9/11ほどではないにしても無差別テロは起こっているのだ。テロを自国で起こさせないという予防的措置を9/11以後のアメリカのように徹底すれば、相当な効果は期待できるのだ。

このようなことは誰にも明白なことのように思える。にもかかわらずアメリカはアフガニスタン、イラクと兵を派遣し、戦うことになった、人間の生命の損得勘定からいけば全く割りに合わないのに。

上記のことを理解しようとすれば、私は平和の希求以外の理由が戦争原因にあるのだろうと考えざるを得ない。指導部個人の(良く解釈すれば国家を背負っているという)メンツと軽薄な感情、それに国家的には経済的な損得勘定(の優先)だ。これは国家指導部に影響を与える産軍共同体(戦争で潤う側の代表だ)の算盤勘定が大きいのだろう。この点ではアメリカに多くを負う産業国家日本も、英国もその累に繋がるとはいえるけれど、もちろん経済的に最強のアメリカのミスリードというか強制があってのことだろう。

ブッシュのアメリカは軍事国家ではあっても、文明国家ではないとおもう。




(216)自動操舵

カーナビをつけた。というよりも、今度買い換えた中古車に前ユーザーのものだったカーナビがついていたということだけれど、もちろんその分いくらか(車価が)高価だったようだ。早速利用させてもらっているが実に便利なものだ。改めて現代の先端技術の凄さに脱帽。

もっとも、その存在と効用については十年以上前から何度も聞いてはいた。けれど、安いものではなく、さほど車であちこち旅行することもなかったので我慢していた。それで、たまたまゲットしたものを使ってみると、旅行だけではない、日常のさまざまな車を使った用足し、商用や冠婚葬祭、ちょっとした日帰りレジャーにもこれが使える。ともかく意外にマイナーな目標でも(電話番号を知らなくても)結構収録されている。思えば私は近くの市町村の土地勘も案外いいかげんであり、すぐこれを頼るようになったし、行き先で方角が分からなくなって、自宅へ戻る時にすら利用することになった。まてよ、こんなことをしていたら、ますます地図を見る習慣がなくなってしまう。方向音痴が進行するばかりだ。

こんなことを以前も書いたことがあった。そう、電卓に頼って筆算が出来なくなるとか、ワープロに頼って漢字音痴になりそうだとかいう、あれだ。しかし、一旦この有難さを知ると、もう地図を見て目的地を辿ることなどしなくなりそうだ。電卓しかり、ワープロしかり。

常識だろうが、このカーナビ、アメリカが軍事用に構築したシステム(GPS)で、複数の人工衛星(全部で24個回っているらしいがこの場合3個で足りるようだ)からの情報を集計計算して自分の位置を出しているという。もっとも、カーナビの場合それだけではない。位置を出すだけでなく、進む方向だって示しているのは、それぞれの機器に備わっているいわゆる加速度センサーやらオートジャイロのようなもので補完しているから可能なのだ。更に全国の詳細道路地図、それに付随した膨大な個人情報を含むデータなどが利用できるわけで、新品の値段にしても、むしろ安すぎると私などは思う。アメリカはこの使用権料で結構儲けているのだろうけれど、本来車がこんなものをつけるのは行き過ぎだと私は思う(便利に使っていてよく言うが)。アメリカを余り儲けさせてもどうかと思うというのがアンチアメリカである私の本音なのだが。いや、商売上手のアメさんだから、普及率との兼ね合いでこのような価格を設定したのかもしれない。多分そうだろう。

多くの知人がカーナビのことを現代の大発明のように言っている。ある御仁は空から個別の車の位置情報をダイレクトに教えてくれていると思っていたらしい。偉大な神の視点というところか。こんな見方も面白いが、そんなことではない。

原理は昔からあった。知ったかぶりで言うのだが、ナビゲーションというのはもとは航海術というような意味で、大航海時代に発達した。陸が見えない大洋の只中で、自分の船が今どこにいるのか、どの方向へ進めばいいのかということを知るために考えられた技術だ。つまり、出航するときからずっと正確に動き続けている時計(クロノメーター)と、船の上空で輝いている太陽の位置、夜は知った星の天球の中での位置を測量して船の地球上での位置を計算して知った(天測法という)。時計はその時点での故国での時刻を教えてくれるので、現在の船の時刻(太陽の位置で分かる、日時計を思えばよい)との差が分かれば経度が分かる。太陽の高度を測れば緯度も分かる。もっとも、そのとき晴れていればの話だが。

つまり、GPSはこの航海術の太陽やら星を人工衛星に置き換えたものなのだ。非常に精確な時計が人工衛星に備わっているのもこのシステムのポイントだ。車のカーナビは人工衛星から発信される位置情報と時間の情報を取り込んでそれぞれの機器内のコンピュータで計算し、自分の位置を知る。

船は必要に迫られてカーナビが普及するずっと以前から極低周波やロランなど電波を使った幾つかの位置計測法を試用し、実用化し模索してきたが、大航海時代以来の天測法も小型船などにはごく最近までメインで使用されていたらしい。GPSが出来たこと、廉価になったことで皆これを採用したのではないか。船だけではなく、国際空路の航空機でも当然これを用いているようだ。更にこれと操縦機構とを組み合わせて自動操縦をさせることも常識になっているらしい。パイロットは高給を食みながらその滞空時には仕事は何もせず(パーサーをからかったりしているのだろう)、離陸と着陸時に操縦桿を握るだけだそうだが、彼らの給料を下げれば航空券ももっと下がるはずだ。離陸も着陸も既に自動で出来る技術は存在する。一部の旅客鉄道が無人になり自動化されているようだけれど、次に自動化されるのは案外航空機かもしれない。もちろんこういった提案をしてたまさか事故が起こったにしても私は責任を取らないが。

最も自動化が難しいのは自動車だろう。なるほどカーナビは3メートルの精度コントロールが可能な技術だけれど、都会でなくても仁義なき交通戦争の苛酷な状況は、いつどこで生命にかかわるような干渉事故が起こっても当然という現状で、まだまだこの手の技術は途上だといいわざるを得ない。まず幹線の高速道路で実現するのがいいと思う。ある御仁はそうなると間延びした運転で道路の利用率はひどく落ちるだろうと憂いておられるが、私はまったくその反対だと思う。人間の不確かな感覚と運動神経に頼った危険な運転が、コンピュータとセンサーによる信頼性の高いマシンシステムに置き換われば、車はその能力ぎりぎりまで引き出し、車間距離だって数メートルにびっしり縮めてコミュータ電車的高速運転ができるはずだ。恐怖を感じる人間は眠っていれば良い。彼が目的地とした高速道のインターチェンジ外の駐車場で目を覚ますことになるだろう。

確かに、情けない現実ではあるけれど、交通事故の殆どは人間のうっかりミス行為(ヒューマンエラー)による。人間はミスを起こすものだ。そういう意味で、最近の大型船の自動操舵による小型船体当たり事故は起こるべくして起こったものだろう。狭い海峡やら沢山の漁船が操業する中にめくら状態で闊歩する巨船の傲慢さは許しがたい。ダンプカーが自動運転で街中を驀進するようなものだ。

 

 



(215) ひとのセックスを笑うな

 

ひとのセックス(性愛)はそれぞれの個性そのもので、無関係な他人(ひと)はそれを批判したり、また、同情したりすることは出来ないのだ。これは簡単なことなんだけれど、どうにも理解できない面が多いことに驚く。もちろんセックスというもの、一人だけでは居られないことに基づくと喝破した先賢(遺伝子やらDNAの知られて居なかった時代に、素晴らしい先見の予言だった)がおられたごとく、ひとの社会性の基礎力のようなものだから周囲に影響を与えることが多く、それゆえに他人のセックスをひとごとと思えない、どうしても関与したくなるということになるのだろう。でも、それは間違っていると思う。セックスについての多くの禁忌、また近代社会が決めた禁止事項、それらの多くが今ではナンセンスなのだと思われているし、出来るだけそれらを少なくしてい(生)きたいと思っているひとのこころには理性以前の真実がある。それらは少数派ではないと思う。
確かにセックスは強力な力であり、ひととひとをある時は本意でなく結びつけてしまうけれど、それはとりあえずは当事者同志の間だけの問題であり、他人にとっては当然対岸の火事、他人事に過ぎないのだ。他人には笑っちゃうような事案であっても、当人同士には極めて深刻な事態であることも多いわけで、つまりあんったがたには関係ねえ!あるいは そっとしておいてよぉ。というのが切実な彼らの本心ということ。

ひとのセックスを笑うな」という警句の意味なのだろう。

表記の日本映画を観た(08/2 公開 井口奈己監督 山崎ナオコーラ原作。その表題から連想するごたくをまくらに書いたのだけれど、もちろん映画は少なくもストレートにそんな面白みのない主張などしていない。いわゆる世間に囚われない純愛の美しさをひたすら自然に、ニュートラルに淡々と(一種のドキュメンタリーを見ているようでもあった。演技陣、演出陣の勝利だろう)描写して自足している。そのまともさ、その美しさは特筆できる。この映画は純愛映画のひとつの規範として長く言い続けられるのではないか。

 

とある地方田園の中にある美術大学のキャンパス。自由と若さが横溢する構内風景。3人の仲の良い画学生男女、みるめ(松山ケンイチ)とえんちゃん(蒼井優)、それに堂本(忍成修吾)その中に突然割って入ったかなりエキセントリックな個性を持ったリトグラフの臨時講師ゆり(永作博美)、この4人が繰り広げる激しく、あるいは切なくもかなしい3通りの恋愛模様。その中心は20歳の年齢の差を感じさせないユリとみるめの激しい禁断の愛。ゆりの小悪魔的(あるいは魔女的)な魅力と大胆行動にどうしようもなくに引き込まれていくみるめの愛の苦悩がこのドラマの中心なのだが、金縛りにあったようなみるめに終始つきまとってチャンスを作りながらも自身の愛を成就しきれないえんちゃんの苦しみ、またそのえんちゃんを愛しつつも更に消極的にならざるを得ない堂本の限られたチャンスを生かし、すがすがしいとも見える接吻を盗む場面(これは秀逸)、その3通りの恋愛風景の細部にわたる描写、小道具の使い方<ユリのアトリエにある夜も光る奇妙なオブジェの美しさなど全く見事だ>(だから彼らの人間性が具体的に見えてくる。もちろん表題に示されたとおりこのドラマには社会性はないけれど)はもちろん、彼らの周囲の恋愛とは関係ない第3者的な、しかし以下に示すように関係する人間達の描写も結構リアルかつ丁寧で、彼らの一筋縄ではいかない人間味もあらわれて(ユリをめぐる二人の男、情けない亭主のいのくまさん<あがた森魚>と同僚教師の山田先生<温水洋一>、変に孫に協力的なみるめのじいさん、これらだってセックス発現の形態群の一例なのだろう)深い味わいのある作品になった。137分だったらしいが、全く長く感じられず最後まで楽しんで観られた。長回しのカメラワークも見事だった。




214)カー・ライフ

自動車というものはよく現代文明のひとつの象徴とされる。

社会生活に不可欠の利器、とも。しかし、個人的には携帯電話同様ライセンスを持つ必要は特にないだろうし、車自体も自家用としては、持たなければそれで何とかなるものだ、とは思う。もっとも、これは地域によって事情が異なる。都市部のように公共交通機関が発達している地域では持たない不便さは少ない。地方でも市街地に居を構えておられる中にはまだライセンスを持っていない、持つ必要はないと考えられるご仁はおられるだろうし、それも悪くはないと思う。環境負荷などの考えから脱車社会が叫ばれる中、これからはむしろそうあるべきともいえるだろう。

 

関西の会社に居た23歳まで、私は車を持つことなど夢にも思わなかった。必要がなかったし、持てば煩わしい。しかし、九州(の地方)へ転勤になってから考えを変えざるを得なくなった。

田園の中に見つけた下宿から職場への通勤をはじめ、日常生活、それに都会で享受していた楽しみの多くが現地の公共交通機関の貧しさのために不可能に近くなったのだ。

私はそそくさと教習所へ通って免許を取得し、最初は原付自転車(CD50 ホンダ)を1年、次に1000CCパブリカ(トヨタ)2年落ちの旧車(26万¥)で6年(この間に結婚)、次に同じくファミリア(マツダ)の旧車(22万¥)で8年、スバル・ジャスティ(殆ど新古車50万¥)で10年と乗り継いできた。必要悪ながら通勤の具、最低限の家族の足としての機能を満足させてきたわけだった。

 トヨタパブリカ1000

マツダファミリア1000
スバルジャスティ

50の声を間近かに聞く頃になって、なぜか突然私に車についての嗜好が目覚めた。ずっと割り切って考えてきた“車は足(動けばいい)”という概念が崩れ、特に“この車”に乗ってみたい、という切なる気分が現れたのだ。

“今の車よりも良い”ものがほしいということではなかった。それはある特定のメーカーの、特定の車(もちろん現行よりも数段ランクが上のものだったが)に向かった。喩えでいえば私はその車に“恋をした”ような心情だった。

今言うのも気恥ずかしいが、平成6年に発表されたホンダオデッセイだ。

後から思えばそれは(車の嗜好としては)さほど特殊な好みではなかったようだ。私が魅せられたこの車はほどなく(デザイン的にも)日本のミニバンのスタンダードになり、ブームになり、その時期最も売れた車になった。ホンダは生産が需要に追いつかず、私自身も半年近く納車を待たされるというあおりを食った。ま、それは余談だが。

 

私の気分の変化というより価値観の変化、これまで気にもしなかった車というものにひとつのポジチブな価値を与えたということ、そのきっかけがなぜだったかは分からないけれど、それはいわば私の心の進化だったのだろう。ともかく私は家族の大反対を押し切り、経済的にも無理を承知で初めて自分の気に入った新車の購入という贅沢(これまでの車の総投資の数倍だった!)をしたわけだ。

結果としては大成功だったと思う。私にはマンゾクの十年、陶酔のカーライフとして生活の中に一定の輝き、生きがいを添えた。

ともかくその車はなるほど人気の通り期待を裏切らずよく出来た製品だった。

初めて乗ったオートマチック車という機構のなんと便利なことか。イージードライブという言葉の真意もその時に知った。長距離ドライブの楽しみ、望む限りのスピードが出せる車の愉しみもそれで味わった(私はそれまでの小型車でも何度かスピード違反で切符を切られていたが、それも高速道路では限度近くの速度を出せばハンドルががたついたり、不安定になるような車ばかりだった)。

だから、その高速走行自在のオーナー車で10余年、速度違反で押さえられたことがなかったのは幸運というか、皮肉なことではあったが。

 

もちろん気に入った新車だって10年以上も乗れば新車の良さは薄まり、飽きも来ようというものだ。車そのものはなお堅牢であり、トラブルは皆無に近かったが、燃費が気になるようにもなった。世は環境指向になり、ガソリンも高くなって、いかんせん私の経済力も、体力もそれらに逆行してがくんと落ちた。

これからの貧乏老人のイージードライブはやはり小型車だろう。それとも軽自動車か?私は同年代の人間が一般的に車人生でたどった“最初は軽、その後の乗換えで普通小型車、大型車”というような一般ルートを経験しなかった。先ほども言ったとおり、最初から1000CCの今で言うコンパクト・カーに乗り、同じランクを乗り継いできた

(当時の軽自動車はホンダN360のひとり勝ちの時期から、すぐ他社が争って後を追い、激戦の様相だった。ホンダは
NVからZへ、ダイハツはMAX、スズキはフロンテクーペスティングレー<このデザインは良かった。これは後年セルボへと引き継がれる。>、そのあたりが当時の最高40馬力の人気軽自動車だった。もちろん360CCだが)。

だから私は軽自動車に乗った経験はこれまでなかった。

 

しかし、十年余を大きなミニバンに乗ってきた私として、もう大型車は結構、次に乗り換えるなら軽だ。という気分があった。

 

燃費でいえば1000CCクラスの小型車は軽自動車よりもむしろ良いとされるらしい。しかし私はこれに疑念を持っている。最大効率のエンジン規模がどこにあるかというのは簡単ではないらしいし、何であれ車体がより軽くて小さいほうが燃費も絶対良いはずだと思う。それに、幾分エゴっぽい考えではあるが、軽の魅力は何といっても各種税金、保険の割安さだろう。これからは軽(薄短小)の時代だとは誰もが言っている。殆ど乗せることのない5人乗りの(やはり無駄に大きい)小型車よりも、私の現状として多くは一人、稀に夫婦で乗る2座の軽自動車が合理的だと思う。

そう考えたら、私の思いは既にひとつの車に向かっていた。いや、そういった思考の筋より前にすでにひとつの車が私を虜にしていた。十年前と同じ状況だった。

 

2座の軽乗用車でオープンの仕様がある世界で唯一の現役、コペン(ダイハツ)である。多分、その時にまた私の心に進化の飛躍があったのに違いない。

(コペンという日本離れしたスポーツ車がいかにユニークな存在でデザインも秀抜であるかは様々なサイトで言われている。だからもうここでは書かない。興味があれば以下のサイトへ寄っていただきたい)

 http://copen.jp/

http://www.axesslove.com/copen/

http://blog.livedoor.jp/kuro14/archives/50826336.html

日本社会は車大国として歴史に残る一時期(多分近未来分もトータルして半世紀ほどになるだろうが)をエンジョイしていると思う。街中に溢れる国産車(多くは自家用の四輪乗用車だが)の多様で新しいこと。もっとも私は国外の車事情を直かに見たことはないのだけれど、多分、この見方は間違っていないだろうと思う(日本ほど多くの国産メーカーが共存し実質稼動している国はないだろう)。

しかし、街で見られる多くの車が十年未満の新しいこととあわせて、私はこの“多様性”に少なからず不満を持っていた。

それは、日本の車社会には真の多様性はないということだ。

あるかもしれないが非常に弱い。

一例が、多様なメーカー、大小の車種は存在するけれど、その割には多くが似たり寄ったりのデザインと機能だということだ。例えば一時期ほどではないにせよ、やはりミニバンは“全グレードにわたって”異様に多い。軽だってその殆どがルーフの高い箱型擬似ミニバンなのだ。半面落ち着いた乗用車に高級車は多いけれど、多様性はない。環境志向の小型車が多くなったのは悪くないけれど、反面むやみに巨大なRVやらワンボックスが目立つ。以前のように白地の車が異常に増えたり、赤い車が目立ったりということは少なくなったけれど、そんな横並びの傾向はまだ大いに残っている。現に私自身がこの十年間閉口した“スタンダードなミニバンの増殖”はなお収まってはいないのだ。もちろんメーカーが生き残りのための経済法則で売れない車種を作らず、その時々の売れ筋の車種、デザインを真似あって量産するという供給側の理由もあるのだろうが、それは結局買い手側の嗜好の反映でもあるのだ。

もっと多様性があってもいいのではないか。

私の見るところ、日本には実用車の多様性にはおおきな問題はない。問題があるとすれば、実用以外のレジャー車の貧しさだろう。全体に占める割合で少ないのではない。その傾向に多様性がないと思うのだ。

RV車や家族用ミニバン(これも実用車ではない)のやたら大きい高級車は目立つけれど、その割にレジャー車の王道であるスポーツ車に見るべきものが少ないのだ。ことに外国では普通に見られるオープンタイプの車が、日本の街中で殆ど見られないことは異常としかいいようがない,と思う。

 

調べて見ると軽自動車でオープンタイプを実現した車種はこれまで3つある。ホンダビートスズキカプチーノ(この2車種は現在は中古車としてのみ実在し、既に生産されていない過去の車だ)それにダイハツコペンである。これらは当然ながら2座(二人乗り)であり、比較的廉価であること、それにランニングコストを高級大型レジャー車のものと比較すれば、もっと若者に普及してもいいのではないか。いや、群れたがる若者、家族の多い妻帯者に比べて多くとも2人単位で動くマルビ老人達に受け入れられてしかるべきである、と私は思う。 ホンダビート
スズキカプチーノ

 

私はホンダつながりから、最初ビートに関心が向かっていた。確かに中古車としてはビートは絶体価格で買いやすいかもしれない。しかしスズキカプチーノ(車のデザインはこれが一番いいと思う)ともども既に生産が終わってから10年近く、これでは実用的な良車を見つけるのは至難だろうと思われる。それにコペンの存在を知ってからはこれ以外には目が向かなくなった。

 

コペンは中古車としてはあまり値が下がらない車だ(まだ総数として出回っていないということだろう。最近の情報として4万台を越えたというが、ビートが3万4千台弱、カプチーノは2万8千台だから、現役としてはようやく台数で先輩を追い抜いたところらしい)。だから新車で購入した方が割りにすれば得だと仰るご仁もおられる。しかしやはりオプションなどをつければ2M¥近い軽自動車はちょっと買いにくい。私は根気強く値ごろの中古コペンが現れるのを待っていた。去年の暮れ、通っていた訓練所の近くにそれが現れた。ATで5年落ちだったにもかかわらず、ナビを含み相当のオプションがついていたためか思ったより高価だった。

しかし、私はその機会を逃すべきではないと思った。家族の猛反対にあったのは十年前と同様だったけれど、ともかく諦めさせ、今年の1月19日に納車があった。確か仏滅だったと思うけれど、気にする私ではない。

それから一ヶ月、片道17キロの通勤を主体として1千キロを走った。当面仕事が忙しくて余り遠距離のツーリングは出来ない(まだ高速道路には出ていない)けれど、今のところ大満足である。

 マイ・コペン アット遠賀川サイド

改めて実感したことがある。車の運転を純粋に楽しむにはスポーツ車に限る。限られた日本の道で車のスピード感覚を味わうには人馬一体というか、出来るだけ小型の車が良い。その取り回しの軽快感、地面に近い視界から受けるその実質速度以上のスピード感!。たかが軽というなかれ、ATではあるけれど4気筒16バルブインタークーラーターボエンジンは静粛でありながら一般道では充分すぎる速さ、加速度感が味わえるのだ。

今の私の課題は、いかにさりげなくこの車高1260mmの中へ頭をぶつけずに入り込むか、いかに不自然でなく低いバケットシートから尻を持ち上げて車の外へ抜け出すことが出来るかということである。衆目の中、まさかどっこいしょとか声をあげてこの動作をするわけにはいかないのだ。オープンにすればかなりこの動作は楽になるようだが、衆目の注視は更に厳しくなるはずだし。



213)新春随想

 

元旦の昼下がり、近所の神社へ散歩がてら初詣にいって、ついでにその近くの公営スパ(光明石の人工温泉)で\500の初風呂に入った。お屠蘇が入っていたので車がつかえず、歩いての新春贅沢は精精そんなところだ(結構贅沢だと思う)。ちょっと寒かったけれど日も時には出ていい元旦だった。昨日の雪模様が嘘みたいだった。大体が年末から年明けにかけて荒れ模様という予報だったし、それにかこつけて初日の出拝み登山はやめて寝正月を決め込んだのだ。昨(一昨)年もそうだった。

昨夜は徹底して紅白は見なかった。ネットに貼りついていた。

その元旦の近所散歩では珍しく知人に出会った。二組のご夫婦だった。一組はどなたか分かったが名前が出てこなかった(後で娘に訊いて思い出した)。もう一組は名前もどこの方かすら分からなかった。しかし相手の物腰は全く旧知のそれだった。それとも相手が誤認しておられるのか。きっとそうだろう。

元旦の公営スパは少なかった。広い湯船をほぼ独占した。もったいないことだった。贅沢なことだった。

明くる二日も呑んだので家に居て書初め。書きかけていた映画感想(読書感想「バート・マンロー)をとうとうまとめた。もう半年からの懸案だった。わざに「激白」連番をひとつ飛ばして空けてあった(206)のだ。もっとも、ここに入れる予定のテーマは他にもあり、結局書けそうな方をそこに嵌めるという姑息な手段を取ったわけだ。結局書けなかったテーマは「キスリング展とモディリアーニ(と妻ジャンヌの物語)展」についてだった。なぜ今(寡作だった)モディリアーニが不朽の人気を保ち、長期間活躍したキスリングは2流になったのかということについて書こうとおもっていたのだけれど、結局これはいつまでも書

けないだろう。そんな気がする。

 

三日は酒を呑まなかったし、妻と隣町の公営スパへ車を使って行った。ここは前記のスパに比べて充実しているという評判だ。百円高いけれど、サウナが3つもあり(高温サウナ、塩サウナ、冷凍サウナジャグジーも、電気風呂もある。だから妻は一旦入ると2時間は出てこない。私は大抵45分も入ったら湯あたりして出てしまうのだが。しかし、電気風呂とは気持ちが悪いものだ。いつも恐々尻をすぼめてそろっと入るのだけれど、腰がしびれて早々に出る。見ているとどこの老人か横座りに入り、左右の両極へそれぞれ足と尻を突っ張り引っ付けて短絡させている。よくも電撃で死なないものだと思う。

妻を待つ間、付属のセルフサービスの食堂で鋤鍋うどんを食した。小さな鉄なべで、味はまあまあだったけれど量に不満が残った。ギャル曽根だったら10杯以上いけるだろう。

最近入れたらしい42型の薄型TV(多分液晶だ)でクラシック音楽を鳴らしていると思ったら例のコミック実写ドラマ「のだめカンタービレ」の総集編だった。いや、娘などが観ている居間のTVからベートーベンのシンフォニーが聞こえてきたのでぎょっとして覗いたことがあって、そんな漫画があるのだと知った。もっとも内容は他愛のないもののようだった(余り知らないので深くは立ち入らない)し、大方は主人公(のイケメン玉木宏)の人気なのだろうと思っている。もちろん漫画本からクラシック音楽が流れ出たりはしないから、やはりその物語自体が(クラシック音楽の是非とは無関係で)面白かったのだろうとは思うけれど、これをTV化して様々なクラシック音楽をバックやら本筋に流そうという発想は新奇そのもので、そのものめずらしさが受けた面もあったのだろう。

いずれにせよクラシック音楽の魅力をポピュラー音楽しか知らなかった層へPRしてくれたということでは結構なブームだった。クラシックの旋律が最近はよくポップに取り入れられることも珍しくないけれどこれも同傾向の世の流れなのか。

いまどきNHKのN響アワーでも交響曲をまるまま(4つの楽章全部)放映することなどはほとんどなくなって、さらりと短縮したダイジェストばかりだけれど、これもお手軽が結構な世の趨勢なのだろう。それで興味を持ってナマのコンサートへ聴きに行った面が本物に退屈するか、感激するかは勝手だろうけれど。

「のだめ」のエンディング、ベートーベンの7番シンフォニーが終わり、誰もが息を呑んでその素晴らしい名演の余韻を楽しんでいる。突然起こる「ぶらヴヴぉー」伊武雅刀の快哉の声、スタンディング・オべーション(立ちあがって拍手)、感動の幕切れのTV画面に直近の席でじっと食い入るように眺めている風呂上り半纏姿、あるいはトレーナー姿の中高年の庶民的な男性仲間二人、失礼ながらさほどクラシック音楽に堪能な方とも見えなかったのだが(「のだめ」ファンだろうか)、かくいう鋤鍋うどんの私もそういえば一見そんな感じから出てはいなかっただろうな。

 




(212)‘07年に起こった個人的なこと

 

今年はわが人生における大きな節目の歳になった。平々凡々(でもなかったが)と一穴主義でメンメンとひとつの会社に奉職し、それをなんとか最後までやり終えて、それなりのご褒美もいただき、余生のフレーズに入ったところで前の会社の先輩にお世話いただき、新しい就職口も見つかった。

 

全体としてよんどころなくひとつの世間並みの路線に従って、幾つかの偶然も幸いし、さほどのぶれもなく第二のスタートを切ったといった方がいいだろう。これは順調だという意味もあると思う。もっとも、そうはいっても私が年初に思い描いていた路線とは異なっているのだが、計画はしばしば変更されると言われるとおり。

ぶれがなかったということは、たいした節目にはならなかったということであるかもしれないけれど、それでも確実に、当初の計画との差は少なく、(計画どおり)私の行き方は変わった。変わったと思う。

 

ひとつは前の会社から離れ、距離をおくことが出来たということだ。

私の経験によれば、人間40年も同じ会社に勤めていれば、そして余り変わらないメンバーと一緒に居れば、どんなに誠実にやっていても、やはりどうしようもなくその人間関係は構造的に疲労して非活性化する。さびやら汚れもついて思うように動かなくなる。

定年制度というのはうまくしたもので、そういった関係を自動的に断ち切ってお互いにリフレッシュできる仕組みなのだ。私をとりまく社会のひとつの関係をリセットし、出直すということが出来た。これがワンステップ。

 

途中、4ヶ月の完全自由期間を経て私は失業保険給付中の間に受けることが出来る職業訓練サーヴィスを半年間受講した。これは権利者が希望すれば誰でも受けられるというものでもないのだけれど、幸運にも私は半年間の充実した訓練所生活を享受できた。

何人かのピュアな友人関係、訓練所の先生方との知己関係を築く事も出来た。再就職に有利になるという幾つかの技能資格取得という成果もあるけれど、それ以上に新しい系統の人間関係を作ることが出来た方が私としては大きな収穫だったと思う。これがツーステップ。

 

そして、ここ一,二週間のことだけれど、思いがけなく二人の前の会社の先輩から声を掛けられて、小さいながら私の前職の経験が生かされる職場に就くことが出来た。これは実際は来年初めからになるけれど。これをスリーステップと言おうか。

 まだここまでは起、承、転 まで来たつもりだ。この先に肝心の結があるだろうと思っているけれど、ともあれ、ここまできた。

私は仕事が好きだ。仕事人間と言われたこともある。定年で退職したあとも、若し私のそういった経験が生かされる職場があれば再就職しても良いと思っていた。

そんな希望どうりの再就職が出来るかどうかは半々以下の可能性だろう。だからそれが見つからなければ、就職は諦めようとも考えていた。

具体的にはF市近郊にある技術とアイデアを売り物にしている工作所を狙っていたけれど、あいにく最近求人はしていなかった。

私は自称趣味人間であり、就職に付かず、悠々自適を通すことも視野にはあった。もちろんそういった一見閉塞した日常を過ごすことの自信も私には充分にあったけれど、やはり社会人としてのどしりとした自足感は、社会での認知と責任ある生き方によるしかないことも確かだ。

 

そんな迷いの中での今度のお話だった。多くのノウハウを備えた先端技術を武器に、前向きな考えでおられる技術系企業家トップが自前で持たれる製造工場の手助けをして欲しいということだ。

 

今般日本の製造業は低賃金の中国との競争の中にあって苦境である。しかし、志のある企業家はまだ日本でも製造業は生き残れるし、残さねばならないと考えているようだ。そして、私もそう思う。

産業(ものづくり)は一国の根幹であり、今先進国で主流となりつつある商業や金融サーヴィス業が産業かどうかは疑問のあるところだと思う。これは私の偏見だが。

微力ではあってもそういう社会の必要に貢献できればと思い、私は彼の希望を納得して受け入れたのである。




211)「クワイエットルームにようこそ」

 

映画を観る楽しみの一つに、お気に入りのスターを見に行くというのがある。カムバックした内田有紀が主演女優としてどんな活躍をするかという期待はこの場合かなりの割合で満足度に達したのではないだろうか。

自殺未遂の末の精神病棟入りという文字通りの汚れ役で、その不幸な私生活を連想させるような意地の悪い設定、しつこいほどに繰り返される拘束ベッドシーンなどなど、可哀そうな役回りだけれど、それが結構かっこいいし可愛く見える。もちろん演技力は定評があるわけで、その上にこんな役柄をひたむきに演じられたらファンならずとも拍手を送りたくなるだろう。私だってそうだ。これ一作でファンになってしまいそうなのだ。

エイリアン」のシガニー・ウィバーがそうだったし、「ジャンヌダルク」のミラ・ジョヴォヴィッチもそうだったけれど、内田を含めて彼女たちのしかめっ面が非常にいい。内田は笑顔もチャーミングだけれど、不機嫌な顔の方が更に魅力的だ。彼女たちは揃ってボーイッシュと呼ばれることが多いけれど、日本では男優の方が最近は他愛ない笑顔を売り物にする若い綺麗な軟弱俳優が主流なので、いずれアクションなどは美女が中心になり、ボーイッシュという言葉は死語になるのだろう。ま、そんなことは置いといて本題。

松尾スズキ監督,同名の直木賞候補小説の映画化。

28歳でバツイチのフリーライター佐倉明日香(内田)は初めて得た800字のコラムの締め切りに追われ、仕事に行き詰る毎日。同棲相手の鉄男(宮藤官九郎)ともすれ違いの微妙な状態。
そんなある日、目が醒めたら見知らぬ白い部屋に手足を拘束されてベッドに横たわっていた。そこは“クワイエットルーム”と呼ばれる精神病院の閉鎖病棟だった・・・。そういった唐突なイントロに始まるミステリアスな密室劇どうして私がこんな目に遭わねばならないの?

原稿の締め切りが迫っていたし、すぐにでも退院できるかと思ったのは大きな間違いで、自由になるまでには何重にも関門がある。そんな扱われように納得がいかないまま異常性格の医者、冷酷な看護婦(りょう)に退院を日一日と延ばされ、当然ながら常識を超えた異様な病院の患者たち(蒼井優、大竹しのぶなど)の中で過ごすうちにも彼女自身が意識しなかった(病室へ担ぎ込まれるに至った経緯の)過去現実が謎解きのように次第に明かされていく。睡眠薬の飲み過ぎに始まって、その原因が単なる仕事の行き詰まりから自殺未遂になり、父親の死んだ実家(一時風俗をしていたことで目下絶縁されている)へ送った仏壇が送り返されてきて、更には前夫の自殺によって不眠ノイローゼに陥っていたらしいというふうに畳み掛ける。そしてとうとう主人公の存在する世界そのものがひっくり返るような意外な展開・・・

精神病院の閉ざされた世界とその患者たちの間に入って来た正常な人間の孤独というのはなかなか面白い題材だ。難しいのは、ひとつ間違えば臭いあちゃらか喜劇になってしまうことだろうけれど、本作は異常者たちの好演ともあいまって楽しくも深みのあるシリアスなドラマになった。人間関係というもの、やはりどんな時にもお互いの尊厳を大事にするというところが重要なのだろう。

 

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