(241) 「パラダイス鎖国」 へ




(240)秋深き

 

今年は日本映画が好調だったらしい。売り上げが大きいということは作品の多さもあるだろうが、トータルで沢山観客が入ったということで、これは見たいという作品が多かったということだろう。私も若い頃の一時期に比べても、むしろ今年観た数の方が多かったように思う。それも殆ど日本映画だ。洋画も見なくもなかったけれど、そのひとつ、こういった事情を象徴しているようなインディ・ジョーンズ「クリスタル・スカルの秘宝」。失望したので感想も書かなかった。シリーズ中でも最低の出来ではなかったか。これを見ても日本映画(以後邦画と書く)の質が向上しているということもあるだろうが、それ以上に洋画、ハリウッド映画の質が低下してきたのではないか。

 

ま、そんなに偉ぶることはない。昔私は邦画を殆ど見なかった.東宝,東映、日活、松竹 皆徹底した大衆娯楽映画だという先入観と見下げた気分があって、遠ざかっていた。もちろん洋画だって娯楽映画がほとんどだったので、これは趣味の問題だったと思う。

今年の夏、フィルムライブラリーの往年の人気邦画2本(「嵐を呼ぶ男 石原裕次郎主演」、「沓掛時次郎 中村錦之助主演」)を観たが、なかなか面白かった。これは老化による精神の退化、幼稚化現象だろうか。そんなことはないだろう。思うに私の好みが変わったのだ、と思う。センチメンタリズムとでもいうのだろうか、回帰現象なのかもしれない。

 

織田作之助の小説に題材を採ったという「秋深き」を観た。監督池田敏春 これだって以前だったら見ることはなかっただろう。どれほどの評価があるのか余り調べなかったけれど、話題性のあることは間違いない、しかし低予算で作ったらしい地味な映画。メジャー館には流通しなかったので遠くまで観にいった。

       

大阪北新地のキャバクラの売れっ子ホステス一代(佐藤江梨子)にとことん惚れたぼんぼん。学校教師で仏壇屋の一人息子悟(八嶋智人)は背も低く無口で陰気、酒も呑めないのに毎日通う。それで陰では“お寺さん”というあだ名をつけられていたが、それもむしろ嬉しく取るほどのお人よし。親の進める良縁を蹴飛ばし、勘当覚悟で自宅の店から持ち出した「最高級のお位牌」二本を掲げて必死のプロポーズ(「な!一緒にお墓に入いろ!」)をした。そんな個性的な純情が彼女の心を溶かし、意外にもその自爆攻撃は成功する。

家を出た悟とホステスをきっぱりやめ、過去と縁を切ってけなげにも質素な主婦業ひとすじに徹しようと決めた一代の愛の巣は広くもない高台のマンション。かくてどうみても釣り合わない夫婦の愛の生活が始まる。


        

しかし好事魔多し、嬉しくも楽しいばかりの新婚生活に忍び寄る影はやはりその幸福と無関係ではない。魅力的な妻の過去にかかわるらしい疑惑が悟を苦しめはじめる。そんなうぶなぼんぼんの苦悩をさらりと演じた八嶋がよかった。

いくつものエピソードが重なって進んでくけれど、ふたつのクライマックスで「園田競馬場」が効果的に使われる。ミステリアックな、サスペンスタッチで現れ、最後まで二人に絡んでくる背中に傷のある男,松(佐藤浩市)が1−4を賭けて「かずよ、こい!かずよ!」と絶叫するシーンは秀逸だった(本当に1−4が出たらしい。粘り勝ちというところか)。

 

結局これは夫婦善哉のなかでも、悲しい恋の物語なんだろうけれど、悲しゅうて、やがておもろい,という感じ、浪速の喜劇といってもいい仕上がりになっていたのが救いだった。

佐藤浩市がなかなかはまったいい味をだしていたし、悟の両親の渋谷天外山田スミ子も雰囲気を出していた。赤井英和も損な端役ながら良かった。

可愛らしくも初々しい新妻の佐藤も良かった。でも、男二人を苦しめ振り回す元売れっこホステスというのは、可愛らしくて、やっぱり(それなりに初々しくても)もうちょっと知らず男を誘う妖艶の気も欲しかったし、追いかけてくる過去をふっきろうとする彼女の内面の苦悩も描けたらよかったと思う。もっとも、これは彼女自身の責任じゃあないし、ナイスバディと綺麗なバストでそれをかなりカヴァーしていたのだけれどね。


(239)貧困大国アメリカ、狂気の核武装大国アメリカ

 

評判のベストセラーでこれは読もうか、と思うものは少ないけれど、その例外的な本を知人から紹介されてようやく重い腰をあげて本屋へ出向いたら、そのそばにまた興味を惹かれる本があったので一緒に買った。通して読んだが、これは正解だった。ぞっとするような隣国の現状を覗き見た。

貧困大国アメリカ」岩波新書 は日本の若い女性ジャーナリスト(堤未果氏)がアメリカでルポしたもので、レーガンの時代に始まった国の効率重視の市場主義を基盤にした自由化政策、様々な規制の撤廃が,いわゆる「アメリカン・ドリーム」という社会の活性化をもたらし、様々な成功譚を生み、更に大企業の競争力を高めて経済を上向かせる一方で、その副作用というべきなのだろうか、本来国家の任務であった様々な福祉業務、社会保障制度を縮小し、民間に委譲したりしていった結果として、少数の富裕層が様々な経済競争で優位に立って太りあがり、中間以下の市民層は逆に所得を下げ、更に富裕層の金力に翻弄され、いいように搾取される「貧困ビジネス」の犠牲になって最下層へ落とし込まれ、固定化されていく。そのアメリカの繁栄の陰にあるものが昂進していく過程を様々な事例をあげて活写している。

プロローグで既に現今の最大の問題となっているサブプライムローンの問題があらわれてがん、と読者を一撃する。そうなのだ、これはまさしく典型的な「貧困ビジネス」低所得者の立場の弱さにつけこんで半ば詐欺的な手法で彼らを地獄のシステムへ引き込み、そのわずかな所得を更に容赦なくむしりとっていくという構図なのだ。破綻したのはこの場合被害者だけではなかった。その仕掛け人たち(彼らも一時期ははかなく薄汚いアメリカン・ドリームのかげに酔った少数派だったのだろうか)も破綻したのは自業自得というところだろうけれど、そのとばっちりがいまや全世界に及んでいるのは全くやりきれないところだ。

そのプロローグに続く驚くべき事例が次々に無知なわれわれにつきつけられる。民間が営利本位で運営する医療保険の高額なために低所得者は加入することが出来ず、待ったなしの病人がやむなしにかかる病院では日本の十倍以上の請求(盲腸炎の手術で243万円!――ニューヨーク 入院1日)がつきつけられ、払いきれずに借金し、結局破産してしまう。民間しか扱わない高利の奨学金を受けたばかりに就職後もその返済で貧困を抜け出せない大卒者たち。最も驚くべき事例はやはり政府が志願兵の募集を民間に丸投げしたあとに現れた人買い的ビジネス、前記の借金に悩む若者や貧困者層を狙った派遣斡旋業者が軍と結託して戦場で必要な人員を供給しているという状況だ。これも「貧困ビジネス」といっていいのだろう。その構図がまさしくアメリカの不人気なイラク戦争を維持できる理由なのだ。「人権擁護」を叫ぶアメリカが自身で犯しているこのような非人道的なやりかたをどう考えているのだろう。

日本もごく最近、このようなアメリカから制度改革と様々な自由化を促されてそういった真似をはじめた結果、同じような所得格差の拡大が進んでいる。しかし、まだアメリカのレベルへ落ちるまでにはいっていないと思う。この本はそのような社会の方向に対する警鐘として読まれるべきだろう。エピローグの中で米国のジャーナリストの言葉として書かれている「過激な市場原理主義の流れに呑込まれないためにも、まず何が起きているかを正確に知る事が不可欠だ」という言葉は、すぐその後にかかれてある「メディアの中立性」ということにかかわってくるだろう。相対貧困率において日本はすでに米国についで2位になっているのみならず、「メディアの自由度ランキング」においても日本は50位という低位に落ち込んでいるというのだ。この実感が沸かないところに怖さがある。

 

さて続いて読んだ「狂気の核武装大国アメリカ」集英社新書 ヘレン・カルディコット 

改めて核戦争の恐ろしさがこの最初の部分でおさらいされる。そして現在の世界がいかに危険な緊張に満ちた状況であるか、そしてそれを引き起こした超大国アメリカの核装備の歴史と現状、そのほんの一端である劣化ウランが引き起こした汚染、悲惨な戦場での結果など。著者はよくぞここまで、と驚くほどのアメリカ政府とその産軍共同体との癒着の実態、その不条理で無意味な資源浪費の数々などをあからさまに描き出して見せる。

これを読むと結局、アメリカが目指した「小さな政府」とはそれ自体が目的だったのではなくて、露骨に自身の既成権力を温存したい国防総省(いずこも同じという絶望感が深い)の望む過剰軍備とそれを支える巨大企業グループを太らせるための財源を確保するために様々な福祉部分や社会保障部分を切り捨てていった過程だったのかと気づかせられる。

著者は第4章「死の商人」で書く。「近年の議会を動かしているのは、誰か、多国籍企業だ。彼らの取締役たちは大統領や副大統領、国会議員のほとんどすべて、すなわちホワイトハウスや立法機関の公務員たちにワインを飲ませ、食事をふるまい、ねだり、賄賂を与え、腐敗させる。このように非常に強力な会社が合衆国議会を通過する殆どすべての国内法、対外関連法を操作し、コントロールしている------。」

つまりジョージ・W・ブッシュ政権は軍需産業を頂点とする利権構造の権化なのだ。元大統領のカーター氏がこの政権を史上最低(最悪?)と呼んだ理由もしれようというものだ。もちろんこの政権だけではない、その前のクリントン政権もさほど変わらなかった。

著者によれば核軍縮の絶好の機会はソ連が崩壊して弱体化した時点を中心に幾つもあったという。クリントン政権は核拡散防止条約をその国とまとめたとき、その機会を何の自覚もなく逃してしまった。もちろん必死に抵抗する国防総省に地力で敗れたということもあるが。しかしその機会を逃したあと、産軍共同体はかさにかかって政府を攻め、核拡散防止条約を自ら無視し続け、何の実質的な敵もいないのに地球上の人々を32回殺戮できるだけの核爆弾を溜め込むまでに膨れ上がった。それだけでなく、更にEUの主要国の反対を無視して、ロシアや中国など他国を必要以上に疑心暗鬼にさせる宇宙戦争のシステム構築などのために膨大な予算を組んで無駄な資源やエネルギーを消費し続けている。

 

ある程度想像はしていたけれど、これほどひどいとは思わなかった。これも隣国の共産中国の凄まじい汚染大国の現状を映画で見たあと、反対の隣国で世界最大の、かってはあこがれの自由と繁栄の象徴だった超大国がここまで心身に重病をわずらっていたのかという驚きが、中国の危機的状況とはまた異なった危機で日本と世界に及ぼす悪影響を想像して悪寒を禁じえなかった。

これで日本はまだまし、と満足するひとがいるだろうか。その利己主義の権化裸の王様的超大国の尻馬に載っているのはほかでもない平和憲法を鞘に挿したままのわが国なのだ。

もちろん、私は9/11の仕掛け人に共感するものではないけれど、そしてその行為が更にアメリカの悪をブーストしているということはあるけれど、彼らがアメリカを憎悪する気分もわからないではない、という気にさせられる。UN(国際連合)が頼みに出来ないのなら、冗談でなくアメリカ帝国を律する宇宙大のマグナ・カルタが必要になっているのだろうか。そんなことは可能だろうか?

著者はこの日本版に寄せて日本国への希望を書いている。日本は今、世界史的に重要な、責任ある役割を担う世界で只ひとつの国になれる絶好のチャンスが来ていると。

その期待に応えることはできるだろうか?


(238)いま ここにある風景

 

スペクタクル(壮大な見世物)は昔から映画というショウにおける最大の呼び物だ。皆がこれを見たさに映画館へ来る。ドキュメンタリーにもそんな手法があっていい。いや、その呼び物が作り物でなく、実際にこの世にあるものだということなら、余計に見たいと思う。この映画の見所は中国の工場の巨大さだという。その「必見」の映像を見た。

20〜30メートルほどの普通のベルトコンベアに両方から作業員が並んで(これをラインという)生産に励んでいる工場内部をカメラが人間の目の高さで横切っていく。次々に新しいラインが現れては過ぎていく。人間だけが沢山並んでいるラインもあれば、コンベアの両側に人間が操作する機械が動いて作業をしているラインもある。作っているものはモーターやら電気アイロンやら様々なのだけれど、ともかくそういったラインが一定の間隔を置いて沢山並んでいる画一的な光景が途切れることなく延々と続く。私は50(ライン)まで数えて、馬鹿らしくなって数えるのを止めた。

これは日本では既に時代遅れになっている人海戦術的“工場制手工業”または1工程持ちコンベア生産というものなのだろう。人間の多さはともかくこれだけのライン群にそれぞれ部品供給を途切らすことなく、また画一的な製品品質を維持しつつコンスタントに稼動させるには、なかなかスタッフの苦労と手腕がいるだろうという印象を受けたのだけれど、それ以上に、この信じられない規模のラインを収容している建物はどんな大きさなのだろう、彼ら作業員は全体どれほど大勢いるのだろうかという好奇心、想像が膨らんでいく。このイントロは秀逸だ。

その疑問は次の画面で工場全体(というよりその部分だろうけれどともかくある程度その規模が想像できるほどの俯瞰図 )が現れて多少の欲望解消がなされる。


 地平線へ続く工場

その工場は少なくとも同じ規模で2セット!あり、その工場の途切れる地平線あたり更に向うに霧に霞むように別の工場(本部?)が存在しているらしいことを窺わせる。なんだ、このべらぼうな規模は!

この工場の休憩時間撮影にあたって、撮影班はできるだけ作業者が工場の印象を裏切らないほどに沢山集まって並んでいる(これこそ、人的資源の豊富な中国の実力の真髄、こういった工場が実現し得るという)場面を意図的に作りたかったようで、その前の無限工場の場面との調和とあわせて、それはかなり成功しているといえるだろう。

更に私が危惧したように、(製造業に携わった私のような人間が聞いたら信じられないようなへぼライン管理者の部下への指示、というより叱責(というよりぼやき)がその中から聞こえてくるという設定。なんだこのめちゃくちゃにええ加減な工場(管理)は!

もちろん生産に不良品の発生はつきものだけれど、不良品と良品の仕分けがなされていない(結果として良品に不良品が混ざって出荷される)工場など考えられないのだが。

 

ま、これはこのドキュメンタリーにおける唯一のユーモア(冗談、フィクション?)と私は解釈したのだけれど、ある程度、これは事実に近いのではないかとも思った。私が関わった製造業(複数)で中国と直接接触していた管理者は例外なくかの地の品質意識の低さを口にしていたし、実際その不良発生頻度とクレームの多さに私が直面したこともある。最近はどうだろうか。

 

結局、制作者がこの中国の工場の風景(“マニュファクチャード ランドスケープ ”:原名)で観客に印象づけたかったことは、こういった巨大で膨大な(量の)生産が現実として地球上のどこかで日々進行しており、その生産のための原材料調達にカナダの大地が巨大な穴ぼこになったり、ひどく汚染されていること、生産に足りない原材料やら稀少金属を手当てする(中国には人を例外として資源が少ない)ために世界中から廃品類を中国に集めており、それはまた新しい破壊と汚染(そして新たな悲惨)を引き起こしている。

三峡ダム(世界一のダム・水力発電所)

また巨大な船舶がつくられ、工場を動かすための水やら電気やらを供給するために巨大なダムが何百万人もの住民を犠牲にし、村を破壊しつくしたあとに建設されたりということの連関というか人間活動の必然性なのだろう。
ともかく中国ものにはやたら世界一、世界一ということばがついてくる。確かに世界一大きな国の、世界一大きな工場(?)、世界一のダム、世界一の都市模型(上海)などなど。そして今進行している世界一悲惨な汚染。これらはすべてリンク(関連)している。
巨大タンカーの廃物がバングラデシュの遠浅の浜で解体される場面も同様なのだ。余りに悲惨な場面はモノクロで表現されるけれど、それは昔の過去のことではなく、やはり同時進行している現実なのであり、それらすべてが今世界で進んでいる現状で、われわれと密接に関わりあっている悲惨なのだと。

 

制作者はぶつぶつ意味不明のこと(これを見る人はきっと不愉快になるだろうなあ、とか)を言いながらただそれらの現実をどーんとわれわれの目の前に投げ出しただけなのだけれど、やっぱり、その映像は重く辛い。どうすればいいのだろう?解決法はあるのだろうか?人間の業、あるいは原罪だ(から仕方がない)と結論して見ないふりをし続ける?

あべさんやらふくださんなどのように投げ出せばそれで終わりというものではないのだ。


(237)歴史認識 その2

 

最近人気の日曜のトーク番組で例のあぶない前空将が元になった騒ぎを再現していた。様々な立場の、基本的にはTVタレントとして目立ちたい面々なんだろうけれど、各局のコメンテーターなどの人間のうち彼に同情票を寄せる人物がそこでは多数派になっていて(そういう人間を意識して集めたのだろうか?)、今更に日本の右傾化ということに危機感を持った。もちろん、空気を見るに聡いかれらのことだ。そのほうが一般に好感度が高いという読みがあるのだろう。

トレンドとしては平和一本やりは今や時代遅れだという認識があるのだろう。当然のことだけれど、「先の大戦」について謝りっぱなしの日本というイメージを誇張し、いわゆる「新しい歴史教科書を作る会」に代表される威勢のいい声(日本は悪くなかった)が若い無知な階層には心地よく聞こえるだろうことはよく分かる。ある意味、日本にも「民族主義」の台頭があるのかもしれない。これは危険な兆候だと思う。

 

毅然とするということと、過去の史実に向き合い、非をはっきり認めるということは全く矛盾しない。というより、それどころかこれからの日本の姿勢をはっきりさせるためにも必須のことなのだ。こういったことをあいまいにし、あるいは隠蔽したままで、ただ相手国に強い姿勢で臨むということは、単なる虚勢、傲慢の態度に過ぎない。彼らが理想としているらしい強大な軍を後ろだてにした恫喝外交というのは、“国際社会において名誉ある地位を占めたい”と謳っている日本国憲法の精神には合致しないだろう。それとも憲法9条を書き直すついでにこんな前文も書き換えようというのだろうか。

 

軍備はしませんといいながら、既に有数のその種の装備と組織、集団を持ってしまった日本にはいくつもの矛盾があることは確かだ。しかし、なしくずしにここまできて、それなりに周囲の国々は日本のそういった建前と現実を黙認している事も事実である。そういった全体の(ソフト、ハードを含む)状況は日本の現有資産として重要だし、それらをいますぐどちらかへ変化させていくことは近隣国をいたずらに刺激し、得策ではないだろう。

どうしてことさらに敵国と攻められる状況を仮想するのだろうか。これらは非常に微妙な問題だということは理解できる。しかし、一般にいって日本が攻められることを好まないように、相手国も自国が攻められることに恐怖を抱いている事は確かなのだ。北朝鮮が核装備をしようとした動機の殆どは、米国の軍事力とその恐怖のせいなのだ。そのために日本(と韓国)が非常な迷惑を被ったことは特筆すべきだろう。

もちろんロシアだってその核装備は同様に米国があるからなのだ。中国はロシアと米国と両方に対する恐怖があったはずだ。そういったことを諸国にはっきり理解させ、核戦争が起こるまでに、せめて核兵器だけは全廃する方向で日本が動くということは不可能だろうか。こういったことが全世界的に久しく言われていないようだ。ロシアがしぼんだときにこそこれは実現の緒が見えたはずだった。なぜ出来なかったのだろうか。

日本が出来ることは、お互いに戦争はしないということを前提として、外向きに、周囲の状況を変えていく、そのことで危険を減らしていくことだろう。そういった外交に全力をつくすべきなのだ。外交だけでは何も出来ないということはない。むしろ外交しか出来ないということに特化するべきだろう。

日本だけに通用?するちっぽけなプライドを振りまわして近隣国へ変に威張りはじめても、日本の安全に貢献するどころかその反対だろう。世界の平和に逆行することであり、進歩にはならないと思うがどうだろうか。




(236)人類が消えた世界

先月たまたま見ていたTVNHK(BS)で途中から見た番組の印象が強かったので、そのサマリーを表紙に書いた。あとでそれが日本でも最近出版されたノンフィションの一部だったことを知った。私が書いた内容も余り正確ではなかったようで、私はすぐそれを削除したのだけれど、それは以下のようなものだった。

現代文明がある日そのまま主を失ったとして、その痕跡は270年もたつと形を失い、自然に埋もれて跡形もなくなるという。現代文明の構成要素である鉄とコンクリートはいずれも30年から100年で強度が劣化し人工物としての寿命が尽きる。
機能と経済性のあやういバランスで成り立っていた現代の建造物は、風雨、地震、太陽風、腐食、人間以外の動植物の生命活動、そして重力などあらゆる自然力によって凡て崩壊し存在を終える。高層ビルだって原子炉だって巨大ダムだって、すっかり無に帰してしまうわけだ。
以下略

人類が消えた世界」アラン・ワイズマン 鬼澤忍 訳 早川書房 ‘08.5初版 を読んだ。確かに著書の内容の一部はTV番組に見られたものだったけれど、それだけではなかった。それに、著者はそれを、人類の文化が意外にもろくひ弱だということを言おうとしてそのような叙述をしたのではなかったということに私は気がついた。自然というものが人工からもとの姿に復旧する力の強さということを強調したことはもちろんとして、人間の力に関しては弱いというよりもむしろ、現実としてその逆だ、ということなのだ。TVではその視点が抜け落ちていた。

 

人間が、ある日この地球上からその(生き物としての)存在をわずかの間にすっかり消してしまうということなど、とりあえずは、あるはずはないのであるが、(別の種、例えば宇宙人が人間を狙うなどその可能性も本書では触れられているが)さあ、どうだろうか?という著者の凄みのある謎かけがここにはある。これはひとつの(壮大な)思考実験とでもいうべきものだけれど、今著者が本書でこういう実験をすることにどういう意味を持たせようとしているかは明らかだ。

 

ここ数百万年来(ことにこの二百年間)殖えに殖えて、消えるどころか殖える勢いの衰える気配のない(なかった)人類が、どうやら今世紀中には消えるとまではいかなくも、その勢いが減速するかもしれない、それもトンでもない勢いで減少する可能性もあるぞという、そのまことにおそろしい予言の書なのだ。

人類がいかに世界、地球の自然に対して重大な影響(負荷)をこれまで与え続けてきたかという実情を様々の面から検証し、その結果として、(これからが極めて重要なのだが)この21世紀の半ばを待たず、人類は他の生物を道連れにして急激に減少に転じることはほぼ明らかだという(第4部 私達の地球 私達の魂)。道連れといったが、その前兆としての人間以外の生物種の大量絶滅は人間という種の発生とともにすでに始まっており(アメリカ大陸での巨大ナマケモノを含む沢山の大型獣の有史以前の絶滅の事実があり(第一部 消えた珍獣たち))、現在も世界的にこの傾向は年を追ってひどくなっているのだ。

著者はこれまで地球で栄え、そして突然没落し、今は遺跡でしかその文化を推定出来ないいくつかの古代文化のうち、特に中央アメリカで栄えたマヤの文明とその最新の知見を紹介する。優れた都市国家を作ったマヤはその国家を維持するために戦争に明け暮れ、突然現れた強者が国家間のバランスを崩してその支配を広げ、住民を集中させ、そのために土地を疲弊させて結局国家を維持できずに一挙に崩壊した(第3部 大地に刻まれた歴史)。著者がその史実に現代との類似性を示していることは明らかだろう。
他の生物が絶滅していくということについて、弱肉強食という自然の摂理が働いている結果だとか、仕方がないとかいう思想的な考え方はひとまずおいて、この「人類が急速に減少に転じる」という予測にこそ注目してもらいたいのである。

現在のままでは世紀中葉に90億人と言うピークに達し、その直後からその強烈な負荷に耐えられなくなった地球では年間数億では利かない不自然な人間の大量死、阿鼻叫喚の時代がはじまる。そのカタストロフィーがくるまでにやらねばならない最小限のことは、世界規模の産児制限である。

本書では従来の温暖化という観点からの記述はほとんどない。しかし深刻な海洋汚染をはじめ、さまざまな世界の人間による人工的改造とその結果が世界をどのような不自然な状態にねじまげているか、それに対して自然自体がどれほどの圧力で人間に反抗して(元に戻ろうとして)いるかを、アメリカ大陸の地峡を切り取ったパナマ運河の事業と、その保全作業に関わる人間達の苦闘を例に出して描く。幅34メートルの運河を維持するために払っている米国の技術者達の苦闘と莫大な戦費。それが途絶えれば、数年経たずに運河は干上がり、使い物にならなくなってしまうという。

自業自得とはいえ、人類が開いた自然世界との戦いは果てしなく前線を広げて、しかも微妙繊細な技術が主流になっているので、それらから少しでも目を離せば(保守管理をサボれば)、たちまち人間は敗北を重ねて長大橋や地下鉄道、巨大ビルなどの社会的生活基礎建築物を失い、退却せざるをえないと言う状況になっている。その最たるもの、すぐにでも世界全体のダメージにつながるのは原子力発電だろう。産児制限と人口の減少がそれらに悪い影響を与えることは避けられない。どうしたらソフトランディングが可能なのかを人間の知能は短期間のうちに見つける必要があるだろう。それこそ人類の生き残る唯一のみちなのだ。

前史時代のアマゾンが豊かな農業地帯だったという最近の考証には驚かされるが、それだけ自然は貪欲で強靭な力をもっているということだろう。大陸間に回廊を設けてすべての動物の移動を許し、アメリカ大陸での大型動物、特に象や野生馬などの繁殖を促進させようという壮大な計画があるのもうなずかれる。




(235)まぼろしの邪馬台国

 

宮崎康平氏のベストセラーでいわゆる邪馬台国ブームのきっかけとなった著書は名前だけは知っていた。今度その名のついた映画が封切られたので、映画を観るついでに本も読んでおこうと思った。ゆきつけの古書店にあったのを知っていたので行ってみたら売り切れていた。幸いその古書店はチェーン店であり、在庫があったので取り寄せてもらった。なにしろ当時は良く売れた本だから、いくらでも在庫はあるらしい。ゲットした本も(s)49年4月 29刷 とあった。初版は42.1.24 。

 

著書「まぼろしの邪馬台国」は、郷土史家というには小さすぎる、きわめて多面性のある才能に富んだ文化人であった氏の半生をその古代史とのかかわりの面から自伝的に綴る部分、そして氏の後半生を助けた妻和子氏に日々朗読させておのおの百度近く読んだといわれる「記紀(古事記、日本書紀)」の読み解きの部分、そしてそれをベースにした「魏志倭人伝」の解明と「邪馬台国」の所在の追及の部分とに分かれている。殊に古代史に興味を持った時点で既に盲目の学究であった氏の、そのハンディを逆手に取った記紀の音を中心とした意味解明(なるほど、記紀成立までの日本ではすべて漢字は読み音を借りるだけだった。音と固有名詞とのかかわりが意味解明のすべてとは言えないまでも大部分だったのだ)、それを倭人伝中にある30を超える国名、地名の読み解きにも応用した執拗な論考は、数限りなく存在する邪馬台国関係の書籍の中でもユニークな視点と方法ではないだろうか。実にスリリングな,推理本としても楽しいものだった。

もっとも、私は記紀をしっかり読み込んだこともなく、歴史の専門家でもないし、この種のものは殆ど読んでいないので、この著作とその成果が古代史学、ことに記紀解釈と邪馬台国論争の中にどんな位置を占めているのかを量る事は出来ないが、この力作を読んだ後で、これもほぼ同時期に評判になった松本清張氏の「古代史疑」を改めて読めば、独創的どころか様々な点で内容の粗雑さ(多くの地名が信用できず里程、戸数なども符牒化されているとして深く追求されていない)を覆えず、大清張といえどもやはりその表題(氏は本の題名をつけるのに巧みだった)の誇大さに疑義を挟みたい気分にもなってしまう。

 

宮崎氏の著書での最大の弱点は、この膨大で詳細な論考の帰結というべき邪馬台国の位置の推定において自身のホームベースで故郷でもある島原半島の高来郡あたりを比定したことかもしれない。もちろん氏自身がこの結果に驚き、何の作意もなくそこに至ったことを文中で断ってはいるけれど、清張氏の推定した北九州(筑後川下流域)と比べてもそれはロマンとして見事な帰結だったという、作品としての完成度をこそ評価するべきかもしれない(氏は優れた文学者であり詩人でもあった)。

 

さて、映画「まぼろしの邪馬台国」である 監督堤幸彦 脚本大石静。ヒロインである和子(吉永小百合)の中国からの引き揚げと不幸な成長期、そしてNHK福岡劇団員時代での宮崎(竹中直人)との出会いと島原行きから、前妻に出て行かれて二児を抱え苦労する宮崎社長の世話をするうちに結局後妻に入ることを余儀なくされるあたり、きっかけは彼女のファザーコンプレックスが仄めかされる(が動機は弱い)。そのあとの古代史と邪馬台国探しの二人三脚(映画中最も美しい場面だった。特に有明海宇土あたりの黄金色の干潟の光景)、「まぼろし--」の出版と成功、二人しての「吉川英治文化賞」の受賞、栄光と復権から更なる史実の追求と史跡発掘途上での宮崎の死、葬儀、前妻(余貴美子)との和解。

結局これは和子の物語、その災厄?と苦難、その末の栄光の半生、つまり奇人康平との出会いと奇蹟のような夫婦善哉の物語なのだろう。映画としては、それはそれでよかったのかもしれない。和子に焦点を合わせれば、彼女については褒めても褒めすぎることはないだろう。精神的、経済的な苦難をも乗り越えてよくやった、と思う。まして結果を出したのだからなおさらだ。

康平の思いの中にある理想のひと、女王国の女王である和子のイメージと栄華、滅びの幻想シーンも悪くはなかった。吉永は相変わらず美しかった。よく分からないのはオーナー社長だった人間の貧乏と、二人の重なる旅行の間、子供の世話はどうしていたのだろうということだが。

 

なるほどこれは事実に基づくフィクションだと断ってある以上、ひとつの美談、物語なのだろう。しかし、本来の主人公である宮崎康平が本名で描かれる以上、余りに事実とかけ離れた描写はどうだろうかとおもう。その最たるものがオーナー社長として君臨した地元の会社との関係だ。自伝だから虚飾はあるだろうけれど、水害時の鉄道復興工事の描写だけを取ってみても著書との食い違いが大きすぎる(著書では周囲が2ヶ月以上かかるという工事を、自分は45日で仕上げたと自慢げに書いている。反面映画では工事に引っ掛けて遺跡の発掘にかまけ、期間が延びたことで社長を解任される。)。

映画では余りに興味本位で、安直な筋立ての都合からか、そのワンマン振りと無能さが極端に強調されていたように感じられるのだけれど、実際はどうだったのか。モデルとしての郷土の有名人士としての立場からも、失礼に過ぎるのではなかっただろうか。国民的名女優が惚れるという男としては不自然で情けない限りだった。

城山三郎がこの人物をモデルに小説を書いているらしい(「盲人重役」城山は日本を代表するような企業人たちを多く小説で描いてきた。それも映画での宮崎の描写に疑問を持つ理由である)。機会があれば読んでみたい。

 

 




(234)歴史認識

 

空軍元帥に当たる超高給軍人が貧しい歴史認識を暴露し、それをことさらはやしたてて賛美する有名な右翼大学教授なども目立った最近の不祥事は、それこそ国辱もの、というより全く国際的にも日本を危険な立場に立たせる行為だろう。

「日本(のすくなくも制服トップ)は先の侵略戦争を正当な行為だったと考えているのだ!(なんてこった!怖いなあ。あんな調子ではまた侵略して来るぞ。)」と中国やら韓国に(改めて)認識させ、警戒させて、それがどうして日本のためになることだと思っているのか。国内向けのスタンドプレーか、自分の部下である自衛隊員のモチベーションを高めるという内向きの目的があったというのだが、それだって逆効果か、少なくとも混乱させる効果しか生まなかったのではないか。何という軽薄な上司をいただいていたのかという情けなさ、憫笑と悲しみしか彼らにはもたらさなかっただろう。

 

既に旧日本(主に陸)軍が日露戦争の前後より朝鮮半島から中国、大陸に領土的野心をもって軍事的な侵略を企て、実際に満州国という属国を作り、更に内陸へ侵攻していったことは歴史的な事実で、それらをロシア=ソ連に対する防衛や対米戦争(これらはたしかに明白な侵略戦争とはいえないが)とごっちゃにして正当化するところに最近の国粋思想のトリックがある。これこそ村山談話に言う独善的なナショナリズムというべきもので、そのような単純な誤りを軍のトップが冒すと言う事自体近隣各国の疑念を誘発し、関係を損ない、軍事的な危機を高めるものだ。

 

なるほど日本が立派な国だということを国民に納得させ、特に自衛隊員に周知させることは重要だとは思う。しかしそういった教育はあくまで思想に汚されない最新の科学的な歴史的認識によるものでなければならない。社会科であるとか、歴史の先生はやはり思想的に中立のひとを用いなければならないだろう。

もちろん日本は日本人自身で護らねばならないし、どんなに情けない国でも、祖国であればまもらねばならないというモチベーションは生まれてくるはずだ。高給軍人たちの本音は、やはり国の危機をあおって自分の立場を強め、軍を太らせることにあるのだろう。

一番良い策は、他国に安心させ、こちらはいつ攻められても充分な防備を持つことだけれど、どれほど軍備を充実させれば充分なのかという個別の議論の前に、この方法自体既に大いなる矛盾がある。自由主義の国家では機密を守ることができない。自衛隊に見るとおり防衛はそれ自体軍と変わらないので、防衛を充実するだけ他国の疑心暗鬼を太らせることを防ぎ得ないのだ。

仮想敵国をつくり国防計画を精緻にすることは、軍隊が存在する以上不要だとはいわないけれど、それを他国に知られることは逆効果だということだ。ではどうするか。こせこせせず、平和正攻法で対処するしかないということだ。ま、常識ではあるけれど。

 

日本の自衛隊はGNP1パーセントの予算でいい線行っていると思う。ただ、専守防衛という他国も羨む世界の理想を、そういったことをマスターベーションのように自分の国だけでやっているから他国になめられるのだ。いつもいわれっぱなしで内政干渉ばかりをされている。日本はもっと他国に文句を言っていいのではないか。攻撃は最大の防御なのだ。

 

“自分の国は防衛だけやっている。おまえのところはどうだ、なぜ核兵器が要るんだ、ミサイルなど何に使うんだ、危険だ!野心があるんじゃあないか?どうして原子力潜水艦が必要なのか、航空母艦など無駄使いだ、漁礁に使え、沈めてしまえ!”

 

と実際に声をあげ、平和外交でどんどん攻めるのだ。相手がアメリカのことで文句を言って来たら、更にチャンスだろう。平和条約やら安保条約やらを持ちかけてがんじがらめにしてしまうのだ。もちろんアメリカへもものを言えるチャンスだろう。軍縮は全世界でやらなければ効果は薄い。自衛隊はそういった専門家を防衛大でたくさん養成しなくてはならない。

日本は平和の発信地になる要素が沢山あるはずだ。





(233)おくりびと

 

評判の映画「おくりびと」を観て来た。監督滝田洋三郎

失業してオーケストラをやめ、故郷の町へ戻ってきた元チェリスト大悟(木本雅弘)が「旅のお世話をします」という募集広告と高給に惹かれて迷いながらも飛び込んだのは棺に納める前の死者の体を拭いて死に化粧もしてやる「納棺師」だ。

 

地方によってはなお家族の役割だろうし、葬儀屋の仕事であるかもしれない。多くは病院で亡くなるから看護師が済ますのだろう。しかしこの地方ではその専門業が葬儀屋の下請けのような形で企業としてなりたっている。“KM企画”というこの東北地方の一都市の零細企業は社長一人と事務員の女性(余貴美子)でやってきたが、慢性的に人手が足りず、詐欺的な手法で正社員の募集を行い、それにひっかかったのが映画の主人公である大悟なのだった。

強引な社長(山崎勉)の引きに負けてなんとなく断る事も出来ずにずるずるとそこに留まって仕事を続けていたが、隠していたその職の内容がばれて、妻美香(広末涼子)には出て行かれ、昔の親友や顧客たちの心ない偏見にも傷つき、続けていく気持ちが揺らぐ。

 

職業差別は人種的には比較的単純だった日本社会で江戸期に世襲化固定化されて以来続いてきた階層的な偏見と蔑視にもかかわっている。死者を扱う職業もそのひとつで、死は穢れているから、それを扱うと穢れが移るという多分に観念的なもの(怖れ)がこの仕事が嫌われてきた原因なのだろう。今はそういった社会は崩れ、必要だけれども嫌われるゆえに報酬も高くなって一般人が入りやすくなっている。

それにしても仕事そのものが特殊で少数派だから差別意識はなお残っている。やむなくその職業に入った人間の劣等意識を補償するためにその方法を殊更に様式化し形式化してきたという面もあるのかもしれないけれど、それは人の死に立ち会うというドラマにふさわしい重みだともいえるし、遺族の心情に適う面もあるのだろう。

いずれ日本の地方に残るひとつの美しい文化(彼らが死をどう思っているのか、身内を弔うのにどのような意識で見送るのかという思想でもある)になっているというのはおおげさでない見方だと思う。その様式の美しさがこの映画の製作の動機になったらしいし、カナダの映画祭で大賞を獲ったのもその文化の貴重さがひとつの理由だったのだろう。

 

繰り返しあらわれる「死とはなにか?」「生まれることと死ぬことは同じ一対の出来事なのだ、死だけが特別(ダークな)ことではないんだ」「人間は生きるために他の生物の死が必要なのだ(植物だけは違うが)」「死とは別の世界へ入るための門だ」などなど。町を流れる川を必死で上っていく鮭のけなげな姿、それらの間を産卵を終えた死者が逆に流れ去っていく。そういった言葉にならないメッセージを含めて、平凡な人間にひそむ死への偏見を作者は懸命に批判しているようでもある。

 

映画はやもめ暮らしを余儀なくされた大悟が悩みながらも雇用者である社長(彼も妻に先立たれた事がこの道へ入るきっかけだった)の特異な生き方を見、仕事から得られる満足感と自信に彼なりの地歩を固めていく過程が、山形庄内地方の美しい自然を背景にしてじっくりと描かれていく。

妊娠を契機に夫の仕事の問題に決着をつけようと夫のもとへ戻った美香。しかし近所の公衆浴場をひとりで切り盛りしていた寡婦(吉行和子)の死とそのために見ることが出来た夫の納棺師として働く姿は、かえって彼女の偏見を正す契機になった。

物語は最後近く大悟自身の心の隙間だった父の孤独死へと転換し、彼が憎み続けていた父のなきがらを自分自身で納棺することで和解に至る、感動的(涙;;;;)なハッピーエンドだった。




(232)話を聞かない男、地図が読めない女

 

私の身近かでも離婚する夫婦は結構多い。日本人の近年の離婚率はほぼ5パーセントと聞いたけれど、実感としてもっと多いようにも思う。定年を契機に離婚しようと計画しておられるご夫婦なんかもこれから増えるのかもしれない。殊にこの本が書かれた欧米では離婚率が50パーセント近いというし、この男女関係の危機的状況は現代における深刻な社会問題のひとつといっていい。この本が良く売れた理由だろう。

話を聞かない男、地図が読めない女」アラン、バーバラ・ピース 藤井留美 訳 主婦の友社2000年4月初版刊 同年10月 12版


つまり、男女関係をスムーズに持っていくには?というノウ・ハウ本なのだけれど、その延長線上に最近派生した問題、女権向上運動への批判もここにはこめられている。

 

女だから、男より劣っているということはない。それはそうだろうと直感はうなずく(特に知的な面で)。しかし、男と女が全く同じという前提は、(もう少し微妙な、しかし本質的な面で)やはり間違っているのだ。男は男の特徴があり、女もしかり。人間主義からいけばそれらを尊重することは当然のことかもしれないけれど、この問題は政治的強者である男性によって長い間無視されてきたし、それゆえに両者の溝は深刻なものともなっている。多くの科学者たちが本腰を入れてこの問題を科学的に解明してきた。この本はその分かりやすい報告のようなものだ。

 

男と女は、それなりの理由があって一夫一婦制を取ってきた。それは人類の知恵なのだろうけれど、文明以前の人間の長い百万年の歴史、男は狩りに出て、女は家庭を守るという生活上の役割分担が続くうちに必然的にそれぞれの体と心がそれに見合って特化してきた、おおげさでなく異なった生き物に変えてきたということなのだ。


外観が違うということはすぐ理解できるから納得がいく。男は大きいし強い。だから運動競技ではそれぞれ別のフィールドで同性だけで闘う。同性の中でも体格の差でいくつものグループに分けているが、基本は男女を別にするということだ。

重要な点は、男と女が、外観、体型、体力だけでなく、心の働きも異なっているということだ。著者の言ういわゆる「男脳」「女脳」だ。これは冗談ではない。人間の胎児が8ヶ月目位で母体から分泌されるホルモンによって外観的に性が分化するのと同様に、脳そのものもホルモンのせいで男女で異なった神経配線が形成されるという。

男らしさ、女らしさという心の働きは以前は生まれてからの境遇、教育などで形成されるという考え方があったけれど、神経系統の差ということであることが分かった今ではほぼ否定されていると。


実に様々の適切な例が引かれ、それぞれが説得力のある解説に結びついて納得させられる。

その象徴的な例が本の表題になった「話を聞かない男、地図が読めない女」だろう。自己本位、直情径行、プライドを重んじる男の性向に対して、空間能力とそれに関する抽象的思考に難のある女性を示している。それぞれの生来の短所というべきだけれど、裏を返せばお互いにその短所を補うべく長所になっている(「人間関係構築にすぐれた女性、地図を読むのに巧みな男性」)。

実際に脳のつくりが違い、メンタルな面で男女の能力はそれぞれ異なっているのだから、それぞれの長所短所を理解しあうことで良い関係を保つ事が出来、ウーマンリブ論者にはすべての面で男女を同じステージに立たせることの愚、無意味さを主張する。なるほど。

この本がベストセラーになっていたころは読もうとは正直思わなかった(なんとなく常識が書かれているような気がしていた)けれど、はずみで買って(古本)しまった。ま、時間つぶしにでも、というわけだけれど、内容など知れたものだ、と侮っていた。大体皆が読む本は読まないという天邪鬼なのだから、これを手に取ったのはよほどの運命のいたずらと言わねばならない。

 

面白かったのである。

 

いや、面白かった。というよりも、読んで良かった、と言う方が近い。もっとも、これは私の個人的感想(私と妻の間の様々なトラブルがそのままこの本の内容になっている!という軽い驚きが読書中始終続いた。これはお互いに平均的な男と女だったことが納得できたということなので、別に私達の間に離婚の危機が勃発していたということではない。)なので、この本が抜群の名著だと言うわけではない。いや、名著なのか?

 

圧巻は読者自身が「男脳」のパターンに入るか「女脳」なのかを判断するためのよくできた30問のテスト。0〜180点までは男脳に属し、150〜300点は女脳だと。私もやってみたが90点だった。何だ、面白くもない。もうちょっと異なった結果が出るかと思っていたのだけれど、まさしく平均的男脳でした。

 

とかくすれ違いが多いのが「男女の仲」である。お互いに理解していない。しなくてもいい、という考えもあるのかもしれない。私などそのくちだった。もともとからだのつくりが違うのだから、当然、心情も違うだろうという警戒心が抜けなかった。大体から異性よりも同化しやすい、話せば分かるはずの同性だって理解しあうのに苦労するのだ。

それでも男同士には友情という粘着力がある。男女には性愛というものがある。いや、それしかない。性愛と理性とは関係ないというより相容れないのだから、コントロールは難しい。その点理性の勝った友情とは違う、と思う。だから男女関係については変に考えてもしかたがないのだ、自然に任すしかないのだと思っていた(ま、ある意味諦めていたということ)。

この本が主張していることは、まさにそういうことなのだ、と私には思える。百万年かけて特化してきた男女の差が、この“男女同権”の現代生活で心も体も同じレベルに落ち着くにはやはり百万年かかるという著者の言葉もある。だから諦めるとうのではなく、男女間の違いをよく知り、出来るだけ認め合い、理性的に処理していけば、未来はそれほど悲観的になる必要はないのではないか。



(231)買っても余り使っていない家電品

 

ウェブに「買っても余り使っていない家電品ベスト20」という特集があった。大体日本は物余りの国、国民所得もそこそこの国で、工業製品はそれなりにリーズナブルな値段で買える。いきおい多少高価な耐久消費財も衝動買いしてしまう傾向がある。かくいう私だってその傾向はなしとしない。だからこういった記事には(自省の意味を込めて)目を惹かれる。もっとも、個人的には様々な傾向、事情があるだろうと思うし、これだけの無駄な機器購入すべてを百人が百人冒しているわけではないだろう。だからこれらを見て自分はまだましだ、と自己満足に陥ることもないだろうとは思う。

「買っても余り使っていない家電品ベスト20」男性(女性の順位は右欄)

(1)   ファックス

 

100 (1)
(2)   コーヒーメーカー

 

86.0 (3)
(3)   万歩計

 

78.5 (2)
(4)   プリンター

 

64.5 (5)
(5)   家庭用ゲーム機器

 

55.1 (8)
(6)   ダイエット機器

 

52.3 (4)
(7)   WEBカメラ

 

45.8 (14)
(8)   電子辞書

 

43.9 (12)
(9)   空気清浄機

 

34.6 (7)
(10)   ポータブルゲーム機器

 

33.6 (11)
(11)   ポット

 

29.0 (6)
(12)   シュレッダー

 

25.2 (10)
(13)   ヘッドフォン

 

21.5 (17)
(14)   ホームシアターセット

 

18.7 (19)
(15)   電子楽器

 

15.9 (12)
(16)   オイルヒーター

 

15.0 (15)
(17)   カーナビ

 

14.0 (20)
(18)   食器乾燥機

 

7.5 (16)
(19)   掃除機

 

7.5 (18)
(20)   気自転車

(カーナビ=女性)

4.7 (番外)

 

でも、やっぱりこの平均的な傾向と自身を引き比べる愚をやってしまう。私もつい、やってしまった。

アンケートでは男女に微妙な差があり、それぞれひとつずつ異なった項目が置き換わっているので、あがった品目は全部で21である。これほど共通しているものかと驚くけれど、多分用意された限定アイテムからの選択だったのだろう。この中で私(あるいは家族の共用として)が購入した(ている)ものは12(別表)であるが、無駄な買い物だったと考えるものは、その中ではWEBカメラ(デジカメの代用として数回使っただけ)のみがこのアンケートに該当する。あとの11品目は、おおげさでなく毎日のように使用している現役なのだ(万歩計は購入後一ヶ月で紛失し、現在はケータイの機能を利用している)。多くは私にとってもう無くてはならないものになっているわけで、むしろ、なぜこれほどに皆はこれらの至便な利器を(入手しながら)利用しないのだろうか(勿体ない事だ)と不思議に思うほどだ。

 

逆の見方からも、私が購入しなかったもの(9品目)で、ここでベスト(ワースト?)10(男女で)に入っているものが項目もある(この結果には納得がいく)のは、幾分か私に平均以上の選択力があったのかと、つい思ってしまう。でも、本当にそうなのだろうか。

 

前記「買っても余り使っていない家電品」の中で、私が購入した品目

 

WEBカメラ(殆ど使用せず)、

万歩計(週1回以上使用中)、

コーヒーメーカー(2.3回/日使用中)、

プリンタ(週1回程度、家族も同程度利用する)、

ポット(単身赴任時購入/当時毎日使用、現在は待機中)、

電子辞書(¥1500の英語辞書、週1以上使用)、

電子楽器(購入時/30年前は毎日使用、10年ほど前に故障使用不能)、

ウォシュレット(毎日使用している)、

食器乾燥機(買い替え2代目、毎日使用中)、

ヘッドフォン(秋葉原で15、6年前に買ったワイヤレス、必要に応じて使用している)、

掃除機(必需品、何度も修理して使用している10年選手)、

カーナビ(今年偶々中古車の付属品としてゲットしたが、連日便利に使用している)

 

私のような戦後(団塊)世代、家電品(というより、エレクトロニクス、それに続くマイコン)の発達を最初からずっとまじかで体験し、実感してきたものにとっては、最近の様々な機器の奇蹟としか思えないような性能の凄さ、ありがたさがよく理解できるわけで、それだけに、それらの性能を苦労して実現した提供者(メーカー)の希望的立場に立って存分に引き出し、利用し尽くしてやろうという気分があることは確かだ。

反面、生まれた時からパソコンが風景の中にに在った最近の若者(という言葉は余り使いたくは無いが)たちが、これらの巷に溢れる奇蹟を当然のことと思っていることは仕方がない(私は不満である、義務教育でこれらの科学史を教えねばならないと思う)としても、一旦購入した以上は、その凄い利便性そのものを(驚かないまでも)、自身の一部分にして生活を豊かにすることは、現代人の義務のようなものではないかと思うのだ。

 

とはいっても、その「凄い利便性」に淫しすぎるのも問題かもしれない。

私もワープロの廉価機種が出たころからポータブルのサンヨー製品を買い継ぎ、富士通のルポまで4台を買ってしまった。その後継としてのパソコンもIBMのアプチバから始まり、2台のショップ製品を経て旅行用に東芝のダイナブック(中古 39K¥)まで買ってしまった。それ以前、まだメモリーが6M位だった草分け時の日立ベーシックマスター(中古 新品はセットで700K¥以上したはずだ)を入れたら、私のパソコン遍歴はここ十年で5台を数える。日立ベーシックマスター6892

また初期のヴィデオテープレコーダーが5万円台になったころから、主にTV映像の収録とレンタルヴィデオの虜になって、10K¥を切る廉価な機種(フナイ)が出たことと相俟って、合計6台のヴィデオレコーダーを買い継いでしまった(最近初めてHDのついたDVDレコーダーを購入した)のは、いくら「使用っている」とはいっても、一台分割りにすれば使用頻度は「余り使っていない」範疇にはいってしまうかもしれない。

 

これらも余り一般化は出来なくも、また問題がなくはない日本の物余り現象のひとつなのだろう(他人事のように言うが)。





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