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(250)  アルゼンチンババア

 

DVDを借りて観た。いい雰囲気の映画だった。'07.3月公開らしいから、最近の映画だ。よしもとばななの原作を長尾直樹が脚本監督した。

昔ながらの墓石つくり職人涌井悟(役所広司)が妻の病死のショックで葬式にも出ず近所の独居老女ユリ(アルゼンチンババア 鈴木京香)の洋館へ転がり込んでそのまま家族にも内緒で身勝手な半年を過ごす。高校生の一人娘みつこ(掘北真希が熱演)の父親奪還とそれを援助する父の妹(森下愛子)やその息子信一(小林裕吉)、それに関わる町の知り合いたちの哀歓。

ひとりの死がそれを必要としていたひとを無残にたたきのめすのはありきたりの残酷な話で、世はそんな話に満ちている。誰もがそれに直面するのであり、結局は誰もそれを乗り越えていかねばならないのだし、その乗り越え方にも様々なありようがあるのだろう。ここにはそのささやかなひとつのありかたがある意味幸運な大人の童話のようにして美しく提示される。

結局膠着状態はユリが悟の子を身篭る事態に至って急転し、ようやく父は娘のもとに戻ることになるのだが、そうなると今度は娘が行方不明になる----。

相変わらず役所は難しい役を見事にこなして存在感を示しているし、脇の俳優達もそれぞれ良かった。役所と恋仲になる老女役の鈴木京香も悪くはなかった。神秘的なほど綺麗過ぎる(というのを目指していたのだろう)のは結構だとして、何よりもババアにはもったいないほどの若さだったのが不自然だという面もあるけれど、役所が惚れて離れられないというのが正真正銘の老婆ではやはり一般が観る映画としては難しいのではないか。筋立てとして最初は誰も二人の間を疑っていなかったというのが京香の美貌では不自然だということはあるにしても、それはそれで脚本としてはそのようにリアリズムに向けて努力しているわけだし。

何にしても、この映画の主役のひとつは広い野のはずれに立つ4階建ての洋館だ。その内部の凝った道具立て(こたつがあったのには笑ったが、温かい人間関係を表すには必ずしもおかしくはないだろう)も、屋上でのダンスシーン、周囲の自然も日本離れしたひとつの雰囲気を持った世界づくりに成功した。

話題はずれるけれど、この「アルゼンチンババア」という題名は何とかならなかったのだろうか。原作が大層高名で、それに映画もおんぶしなければならなかったというような事情があったのかもしれないけれど、「ババア」というのは老婆を罵ることばなので、はなはだ印象が悪い。最近も「オッパイバレー」などのストレートな題名で、私は行きそびれた。映画そのものも損をしているのではないか。



(249) 質問サイト 

質問サイト」をご存知だろうか。国内にはどれほどの類似サイトがあるのか知らないけれど、大きなサイトでは「yahoo 知恵袋」とか「人力検索はてな」とか「教えてgoo」とかが有名らしい(私はうかつではあったが、自分が利用する以外のこういったサイトをごく最近まで知らなかった)。いわゆる「掲示板」の一種で、質問者がキーワードで検索サイトを利用するように、さまざまな日常の込み入った疑問を質問として書き込み、一般からその回答を募るというものだ。これが昨今なかなかの盛況であるらしい。

スタイルは大新聞などにある専門家による法律相談欄、文化人らによる人生相談などのネット化ということだけれど、実体はかなり違う。質問は簡単な登録手続きだけで出来るのですべてが受け付けられ、そのまま公開される。最も違うところは回答側が複数になり、名の知れた権威者でなく、一般の覆面ボランテアであることだ。回答にさほど専門知識のいらないものでは質問ひとつに対して数十件が短時間に寄せられることもある。回答者の本名以外のすべてが公開のなかで進んでいく。どの回答が正解なのかを知るてだてはないが、質問者はそれらの回答の中から自身の疑問に最もちかづいて解決してくれたと感じたものにポイントを与える権利を持っている。これはいわば知識のネットオークションといったようなものだともいえるだろう。

去年の12月あたりから私がお世話になっているのは「OKwave」の姉妹サイトらしい「サイゾー質問箱」である。らしい、と言うのは、未だに私はこのサイトの全体構造を理解していない(同じコンテンツをあちこち使いまわししている形跡がある)ということだけれど。

途中2ヶ月ほど抜けていたこともあったが、ここ半年は殆ど出ずっぱりと言うほど癖になってしまい、その結果、質問に対する回答の件数が先日1千件の大台に達した。つまりこの一年たらずで私は均して日に3件の回答をこなしていた計算になる(質問は50件弱)。それで、ここの更新など他のことが手につかなくなっている現状もあって、しばらく意識的に離れていることにした。けれど、やっぱり気になってちょいちょい覗いたりしている。しかし、私のような常連は例外ではなく、一ヶ月に1千件以上の回答を寄せる猛者もいるくらいで、このサイトに取り憑かれた人間は多いようだ。

どうして「質問サイト」にこんなに惹きつけられるのか。


私が思うに、インターネットというのは出会いと会話の世界的超システムだということだろう。誰だってちょっとした投資とスキルを持つだけでその世界にどっぷり入れる。これを私が認識したのは実際にインターネットを始めた2000年の暮れだったのだけれど、ネットそのものもその頃から更に進歩し、私も必死についてきた感がある。ホームページの開設からメールのクラブ加入、様々な掲示板の利用、チャット(今はやめている)、ブログ(ホームページの更に進んだ形態だろう)の開設、更にはスカイプの利用(現在停止中だが)というように進んできた。質問サイトの利用と参加はまさにその流れの中にあるといっていいだろう。

出会いと会話と言う観点からそれを考えてみているのだけれど、確かに私がホームページを開設したことによって、私がネット上で出会った他人は数え切れないといっていいだろう。メールの会に入らせてもらったことによっても、以前の私には思いもよらなかった新しい交友関係が出来た。そのきっかけはホームページを作ったことによるものだった。

ホームページに付属する掲示板の開設、そして他のホームページの掲示板上での新しい交友と会話もネットでなければ実現できないものだった。

スカイプという生の肉声による同時相互会話も新しいネットの世界のひとつだった。私はそれによって英会話講習を始めたのだけれど、これは機械の不調で挫折した。また機会をみて再チャレンジしようと思っている。

ブログはホームページの簡易版と取ることも出来るし、それだけで存在価値もあるわけだけれど、爆発的に世間に普及したのはそれだけではない理由があるだろう。私自身それ以上のことができないだろうかと模索している最中でもある。

そして質問サイトである。

最初私はこのサイトを使う価値を自身のローカルな疑問と知識の拡充に置いてみた。当時不安に感じていた自分の健康の状態を質問し、専門的な回答を期待した。また、科学分野でのニッチな疑問を問うてみた。それらに対するサイトからの反応はそこそこ満足のいくものであったり、あるいは隔靴痛痒といったものもあった。ま、こんなものか、という多少以上の期待はずれといった感じを持った。公称百万以上というユーザーに含まれる各界専門家(OB含む)があまねく特殊な分野までをカヴァーしているだろうという甘い期待は持たぬ方がいいらしい。

そのうち、私自身がずっと関心を持ってきた別の分野を閲覧する時間が増え、そこで行われている質問に対応する回答群に疑問や不満を持つことが重なった。なんだ、この程度のことなら私にも(回答者の思いを汲んで、ずっと適切に、)答えられるのだが、という気分が増してきた。それまでの質問の段階にもいえることだろうけれど、確かに自身の増上慢ということも当然あったろう。

もちろん、私が長年仕事としてきた分野では自信をもって答えられる質問も幾つも認められた。

 

結局、最初の質問専門から回答側に回る事が増えて、その割合は最終局面では1:20 にまでなっている。これはサイトのメンバーとしては特殊なのだろうか。私はそうでもないと思っている。

確かに質問しかしないメンバーも多いようだが、逆に回答専門というメンバーもそれ以上に存在するようだ。大体から質問ひとつに回答十件というのが平均近いようだし、長く置いている質問には百件近い回答が積み上げられていることも少なくないのである。質問よりも回答の機会が多いことは当然だろう。

質問者には嬉しい悲鳴だろうか。大体実学では質問に対して適切な回答ひとつがあれば、それで完結するべきものが多いはずなのだが、例えば哲学・倫理カテゴリーなどでは最適解などあってないようなものだし、それだけに様々な回答がだらだらと寄せられる。質問者と回答者の間には、更に補足という形で相互に”会話”が出来、質問者はそういった会話で最終的に自分の満足に近い回答を得ることが可能なのだ。質問箱としての本来性を守るために回答者同士間の会話は禁止されているが、質問者との感情的な討論(罵り合い)はしばしば見られる。政治、時事問題などの分野ではむしろ日常のようである。
ネットの匿名性とオープン性もあって、どの分野でも玉石混交の回答があり、私の経験でも質問者が100%の満足を得られるのは難しい場合が多い。もちろん、インターネットの様々なトラブルに関する技術的な質問や、日常の有形無形の悩み相談(野次馬的な無責任回答も多い代わりに良回答もあり)などは、全体として相当に満足度は高いように思える。科学や文系の学問分野における専門家の数に比べて各段に回答者の層が厚く、充実しているのだろう。

 

倫理哲学分野の質問サイトに存在理由がないというのではない。この場が「ネットの井だからといって時事関係や政治、社会問題、更には倫戸端会議」だと言う意見がどこかに見られたように、質問者たちも完璧な回答を期待してくるのではなく、関心を持つテーマで議論を書き交わすことに楽しみを見出しているような面もおおいにあるらしい。それら日々投げかけられる沢山の質問テーマの多くに様々な試行錯誤的な回答が集まり、それらの思索と内容を反映して更に一段深まった内容の回答が現れるという経過の中で、いずれは良質のネットサロン文化が生まれ、新しい世論形成の発生がはじまる可能性もなくはないだろうと思うのだが、楽観的に過ぎるだろうか。






(248) 日本の難点 

金融危機が起こった2008から’09年の時点で、日本と世界がこれまでにない変節点を迎えているらしいことを感じているひとは多いだろう。経済の問題をはじめとして、様々な切り口からこれを分析して、今何が起こっているのか、日本は、世界はどうすればいいのかという示唆をあたえてくれる著書が数多く出されている。今度読んだ「日本の難点 宮台真司 幻燈舎新書 ’09.4発行」はそれらの中でも出色の、日本社会全体を眺めて、社会そのものの分析と処方をかなり徹底的に、思い切ってやってのけた一冊だ。

もちろん見当違いだったり、偏向している面があるかもしれない。しかし、それはそれなりに反対の立場からも参考にはなるだろう。氏の鍛えられた論理思考がそこへゆく道筋をわれわれ門外漢にもなんとなく納得させてくれる。

著者の専門分野である社会学がベースになった5つの章に分かれている。

コミュニケーション・メディア論(第一章)、若者論・教育論(第二章)、幸福論(三)、米国論(四)、そして日本論。一章と二章は著者の専門であり、それゆえに多彩で手馴れた内容ではあるが、またそれゆえに専門的過ぎる語彙の丸投げや記号論めく論理の飛躍が随所にあって、なかなか素人であるわれわれにはついていけない面があった。もっとも、多彩で豊富な各(42だと!)論点をそれぞれ突っ込んで誰にも分かりやすく記述するとおそらく字数はこの何倍にもなるだろうけれど。

ここで最も納得が行ったことは、若者の間で特徴的な関係性の希薄という現象が、結局彼らの間でのケータイやパソコンによるコミニュケーションの多様化とフラット化(誰とでも簡単に、同じ労力でアクセスできる)の結果だという著者の分析である。余りに仲間を簡単に求められるために、少数のなかでその関係性を深めることがない、必要がないと感じられているのだと。これは憂うべき事態ではないのか。

 

第三章あたりから明白になる著者の世界観は、ひとことでいうと、金融危機で世界経済の底が抜け(そうになっ)たと同様に、われわれの社会の底も既に抜けている(生きる意味が見つからないことがほぼ常識になっている、共通したモラルが形成できないということだろうか)というある意味悲観論で貫かれているということだろう。これは二章の教育論でも既に、教育者にはすべからくカリスマ性による感染がなくてはならない(言いたいことは痛いほど分かるが、ないものねだりだろう)とする主張で現れている。つまり平板な自由主義と権利主張とのせめぎあいのなかで、社会自体が非常に複雑化し、一貫した社会正義というような正統性が失われてしまった現在において、ただひとつの方法論として残った民主主義における社会の決定は、結局すべて個人にその責任が負わされるということになってしまった。つまり、逆にいうと皆が納得する決定方法は最終的には多数決にしかないということなのだけれど、当然ながらこれは間違うことも少なくない。だから現代の政治は(間違わないでおくという意味でも、皆を納得させることでも)非常に困難なものになってきている。

 

困難なことといえば、裁判員制度についても著者は政治同様の問題があるという。長い歴史を持つ社会での裁判(による量刑決定)は、その間に蓄積された先例と知恵によることが正統性とされ、それらを知悉した専門家による裁定が皆を納得させる。それゆえに単なる多数決で量刑を決定するのは法システムをないがしろにする退行だと。

確かに、先日もTVであったが、陪審員制度の先輩国アメリカでの特許に関する民事裁判(米国は民事、刑事かかわりなく陪審員制度が進んでいる)では、特に州によって日本のメーカーが勝てないという現象があるらしい。ポピュリズムが司法にも影響している典型例だろう。

 

理解出来なかったのは日本の軍備について。これは著者の持論らしく、第一章からさらりと現れるが、本格的には第4章のアメリカ論のなか述べられている。確かに日本の軍備はアメリカという国をさし措いて考えることは出来ない。彼の議論は、専守防衛ではあっても、国内戦を戦うだけの(現在の)防衛力では結局国内はめちゃくちゃになってしまう。そうなるまでに外の敵を叩くことが不可欠であり、そのためには今の軽装備では役に立たない。軍備増強が必要であり、それを可能にするための条件として対アメリカ交渉、そして近隣国の疑惑や懸念の払拭、最後に憲法改正のための国民の意識改革が必要だという(出来るだろうか?)。

アメリカは日本の重武装を容認するだろうか。というよりも、著者は対アメリカの立場を対等にするためにも日本の軍備は増強しなくてはならないという。そこへ行くための戦略として「日本は軍備増強が出来るのだぞ」というコマが使えるのだと。

議論がぐるぐる回って自身の尾っぽを噛もうとしているような感じを受けたのだが





(247)釜山旅行

 

結構好奇心旺盛なので、海外へ物見遊山に行くことは考えていた。しかしなかなか機会がなかった。今回ご近所のグループ8名で韓国へ行って見ようということになって早速パスポートを取った。実はパスポート取得は3回目(自前では初めて)なのだけれど、使うことがなかった。ペーパードライバーというのはあっても、こういうのも珍しいのではないか。

 

釜山(われわれの読みは”PUSAN”だが、自国内ではどうやら”BUSAN”らしい)へのツアーはいろいろあって、飛行機を利用する上級、高速船を使う中級(これが殆どだと思っていた)、それにフェリーを使う並み級があることを今度知った。それも博多港と下関と双方で連日出ているのだ。フェリーは主に日韓の物流を担っているらしいが、当然旅客も扱う。ただ高速船が3時間で行くのに比べて倍近く時間が掛かり、これは安価であるという最大の利点がビジネス客には好まれる理由なのだろう。もちろん高速船は鯨との衝突事故以来シートベルトが必須になって、ゆったりと船旅を愉しみたいというひともフェリーに流れているらしい。ともかく今度私達が利用した2泊3日のツアーはなんと¥10、500.−(ホテル〜港間送迎付き)と激安。これでは福岡人は国内旅行よりも海外の釜山が人気なのは無理ない。今度のグループ仲間は私以外複数の釜山経験がある。ま、フェリーでの船中一泊が含まれるし食事は個人持ち。最近の円高ウォン安(\/W=12.7  9/12戻り時)もこれに拍車を掛けているのだろう。それにしても安い!と飛びついたわけだ。これも福岡県在住というメリットが大きいだろう(博多港までの足は自分持ち)。

 

港に着いたら、ツアー料金以外にターミナル使用料金という変なものと燃料付加運賃(要するに原油高騰に付きというやつ)¥500+300 を徴収された。ま、仕方がないか。

出国税関を通過し、飛行機同様に身体検査、金属探知機、乗船開始 12:00、同30分出航。

 

ニューカメリアという巨大な外航船が私達の国際航路の安全を保証してくれるようだ。何にしても、船というものはとてつもなく巨大なものだ。いつ見ても感動する、こういったものを計画し、作ってしまう人間の胆力と気力(一緒か?)、知能力とものをつくる総合力に。

このフェリーは日本船籍だそうだけれど、船員と船内要員はすべて韓国人だという。そういえば彼らの間ではすべて異国の言葉だ。インフォメーションの美女が韓国の民族衣装だったのには驚いた(なぜだ?)。気が付けば船客を含め周囲は殆ど外国人(韓国)だった。すでに異国の中に入った感じ(なぜだ?)。若者の団体客が何組もいるようで、レストランが借りきりオフリミット。占領されていた(なぜだ!)。弁当を買って入らなかったことを悔やむ。サーヴィスも異国並みということ。

に船内は濃厚なキムチの香りで満ちる。税関を出た後の免税店で缶ビール(500cc で200¥)を買っていたのがせめてもの慰め。船内の自動販売機ではなぜか¥50高。隣の販売機で(これらは日本円で可)で150¥のカップめんで空腹を慰める(家でも食べないのに)。

展望風呂に行く。乗客の多さの割には殆ど利用するものはいない。異国のひとは風呂を好まないのか?阪九フェリーのそれよりもずっと広く豪華な風呂だ。もちろん快適だったし、ここで唯一の満足すべき施設だった(船の設計者は日本人だろう)。

午後4:30ごろ左に対馬らしき島影を見る。対馬は半ばというよりよほど韓国寄りに位置しているのだ。もちろん日本領だけれど、この不思議を思う。

 

いよいよ韓国領海へ入る。右手に海雲台タワー群。高級マンションとビジネスビル街を含むらしい。釜山港へ入っていく。延々とコンテナーターミナルエリアが続く。ここは既に日本を追い越してアジア最大になっているらしい。接岸。入国。インフル水際検査をここではやっている。額に温度計をあてられた。無事通過。

待っていた向こうの旅行社ガイド嬢(黒木ひとみ似の美女)に案内されてワンボックスカーに乗り交通繁雑な大通りへ。右側通行なので見た目慣れないこともあるが、全体に非常に運転が荒々しく、二十年前の博多のようで恐ろしい。国際市場で降り、活気のある露天雑貨店の並ぶ中を歩く。バイクがしきりに隘路を行き来する。みやげ物店を2店はしごしたあと無事ホテル着。荷物を置いて待望の焼肉店石井へ。豪快に大きめのスペアリブをはさみで切り裂き炭火で焼く。付け出しのたまねぎの刻みやいろんな野菜に味噌のような薬味をチシャのような大きい葉に肉と一緒に包んで口に入れるのがこの食べ方だ。これはなかなかの美味だった。ただビールと焼酎がいまひとつ。それでもかなり過ごした。酒代ともで13000Wほどだったのは予想外の安さ。ホテルへ帰ってテレビを見ながら就寝。チャンネルが多いのはケーブルTVだからだろうか。日本のNHKBSも見れた。著名なホテル(タワーホテル)だがクーラーがない。真夏は辛いだろう。

 

 

 

朝は早起きしてホテル裏手の竜頭山公園へ。エスカレーターで難なく頂上へいけるのが嬉しい。既に地元の年寄りたちが多く歩き回り、座って座禅を組み、瞑想している一団も居る。秀吉軍が攻め込んだ時に亀甲戦艦で果敢に戦った英雄李舜臣海軍将の銅像が立っている。釜山を一望に見渡せる釜山タワーに昇りたかったが、まだ開店していなかった。

朝食を近くの中央食堂”で摂る。韓定食の品数の多さでガイド誌に紹介された。おばさん一人で営業している。事前に予約していたようだが、みなの目の前で悠然と米を砥ぎ、大なべで飯炊きをはじめる。これが炊き上がるまで待たせる積りだろうか、と一同不安そうに目を合わせる。しかしなんとか20分ほど待ってどんどん皿が出てきた。

 

 

出てくる出てくる、かぼちゃスープやはたはたのような焼き魚も含めて十品余り、私は食べ切れなかった、というよりその多くがキムチ系のピクルスだったこともある。それと昨夜もそうだったが、人数分個別に品が分けられていない。同じ皿から2人ないし3人がつつき会うことになる。さすがに飯はそうではなかったが、時としてスープも二人で分け合うことがあるらしい。ここでは印象に残る品はなかった。7000Wは妥当か。

無料シャトルバスでロッテブサンの免税店へ。頼まれていたシャネルの香水をゲットする。そのあと「ミス黒木」の案内でカジノ初体験。皆に配られた最初の12700W(約1000¥)を元手にルーレットで張ったがすぐ摩ってしまった(泣;;)。仲間の一人が何とか勝ち続け、80000Wをゲットしたのはせめてもの快感だった。あとでジャカルチ市場のさしみを奢ってもらい、ひらめとあわびをたらふく食べた。ここの注意点は出される醤油やわさびが日本人のくちに合わないので、あらかじめ日本から持参することが肝要だ。

ロッテの地下の西面からは地下鉄で中央洞間まで戻り、地下街をジャカルチ市場まで歩いた。途切れることなく雑貨や電器店が続く。伸縮するステッキを仲間が6000Wで買ったがこれは日本では20倍近くするものだ。もっとも、品質も同じものではないだろうとは思うが。

 

ャカルチ市場の海産物の豊富さは一見に値する。行っても行っても尽きることのない魚貝類のオンパレード。ここは韓国一の海鮮市場だと。

昼はビルの7階でバイキングにした。ここの呼びものは巨大ないかの丸焼きだろう。テーブルで焼いてもらい、たれをつけ、切ってもらってそのまま食する。これは美味だったね。

ファッショナブルな光復路の目抜き通りを歩いてホテルへ戻る。途中路面にハリウッドのような手形の舗道板がある。タケシのものがあった・釜山映画祭の記念板だ。1997とあったから、多分「hanabi」だろうと思うがさだかではない。多分、韓国では一番名の知れた日本映画監督なのだ。

中心街はすっきりして清潔だった。印象的だったのは、日本のメーカーの気配が広告塔やバイクや車(一台だけ、トヨタのレクサスを見たが)を含め見事に皆無だったことだ。ただ免税店にソニーやニコンが見られた程度。もちろんこのことが、韓国のテクノロジー全般にわたって全く日本を必要としなかったという証拠にはならないだろう(特に電器製品など)し、車についてはアメリカの手を借りた面が大きいのだろうと思う。しかし、正直なところ、よくやっていると思う。高層ビルは日本では考えられないものが建設されている。完成時102階ともいうが、しかしなかなか進んでいない。建設現場をちらと見たが、まだ足場の段階だ。ここにも世界同時不況の影が見えるようだ。

 

ホテルへ戻ったあと、一人で「釜山近代歴史館へ向かった。大体見当をつけていたのだが場所はすぐわかった。地味な入り口で日本人は余り来ないところのようだ。料金は?と聞いたが只だという。2階部分がそのようだった。説明書きには英語のほか一部日本語で書かれてあり、「日帝」ということばが多く目に付いた。釜山の都市化(港湾設備など)と韓国の近代化に日本は多くの役割を担ったが、それは韓国の人的資源と多くの産物を日本の戦争のために使うのが目的だったというスタンスだ。悲しいことだがこれはおおむね間違ってはいないと思う。ハングルが読めないので英語を解読して日本語にない部分を補うしかないが、展示物を含めて当時の日本的な文化も展示されてあり、懸念したような過激な(反日的な)ものはないようだった。

 

 

帰り船(同じニューカメリア)は出航が23:00とあったけれど、「ミス黒木」はバスをホテルから17:00に出した。個人的には20:00まで街でうろつけるのでは、とふと思ったが、出国手続きが19;00から30分に規定されているので仕方がない。途中で例によって最後の土産店へ寄り(さすがに誰も買わなかった)、18:00に港のターミナルでさよならした。弁当は今度も買えなかった(何処にも置かれていなかった)が、船のレストランは空いていて何とかまともな夕食にありつけた。メニューは韓流が主体だったけれど、えびピラフなどもあった(ライス食ではこれが唯一のらしくないものだった)。安い(500¥)のは有難かったけれど、もっと日本人が団体で利用すれば、もっと良くなるのでは、と思った。



(246)原爆忌 ’09

 

今年も広島、長崎の原爆忌の季節が来て、終わった。今年はあの日から64回目の記念日で、これまでで最多の国外の参加者を得、ひとつの節目にもなったようだ。オバマアメリカ大統領の核兵器廃絶宣言があった年でもあり、更に勢いをつけて世界の核兵器を根絶させるための運動を進めていかねばならないという感がひとしおである(私は傍観者でしかないが(汗;))

 

しかし、逆流もある。全く楽観は許されないのである。北朝鮮の核兵器保持宣言に続いてイランの動きも加速化している。日本がそれらに対して実質的に無力に近いのは情けない。いや、もっと日本自体の深刻な問題もある。

日本の核武装論である。

 

私が昨年末からよく入っている「サイゾー質問箱」という質問・回答サイトにはこの手の議論がしばしば現れる。その内容主旨は予想されるところだが殆どが「核武装是認論」である。「憲法九条変更問題」が殆ど見られなくなって、代わりに現れたといった感がある。

彼らの論旨は 1)「北朝鮮の脅威=金正日が持つから我々も持たねばならない」、2)「中国の脅威=チャイナがアメリカと手を結べば日本の核の傘は外され、裸になるから自前の核が必要だ」といったものが殆どだ。さすがに今、ロシアの脅威を言うものは居ない様だけれど、かの国とは平和条約はなく、未だに国境紛争を抱えており、中国よりも身近かな脅威であるのは疑いない。これを敷衍すればアメリカだって直近の交戦国であり、日本にとっての最大の敵国にならないという保障はないのである。

 

アメリカはともかく、ロシアが以前のソ連時代から様変わりして仮想敵国から外れた感があるのは至極結構だけれど、ではなぜそれらとはひとまわりふたまわり(軍事的に)小さい中国が、そして人攫いの脅威はなくなってはいないが軍事的にはどうでもいいような北朝鮮が日本の核武装の理由にされるのだろうか。

 

確かに中国と日本は尖閣諸島で国境紛争がある。それをいえば韓国とも竹島の帰属で問題が継続している。アメリカとだって沖縄の基地問題で国境紛争に近い悶着を抱えているのだ。

それらの解決に軍事衝突をしてまで解決をしようという国民の意思は少なくとも日本としてはない。全くないとはいえない(竹島などで)けれど、ほぼ常識としてやっても得にはならないというトータルの国益的見地からそれは声にはならないのである。

 

しかし中国が核を持っているから、そしてそれをなお増強しようとしていることを強調する、(桜井よしこ?http://blog.kajika.net/?cid=43327&page=0?参照)ような論陣がまじめに張られていて、それに惑わされて対抗上日本も核を持たねばならないなどと慌てる一般人がいるのも事実である。責任ある知識人の言動として非常に危険なことだと私は思う。

 

中国はソ連との国境紛争を延々とやっていた時期があり、アメリカとも対立していたし、その時期から核兵器の開発を行っており、今に至るまで核兵器を含む軍事力の増強を続けている唯一の国である。特に最近は経済状態が良くなってきたし、余裕で海軍力なども増やしている。しかしその動行は考えようによってはアメリカを継ぐ潜在的な超大国の自然なバランス感覚だともいえるし、その先に特に対日敵視があるとは思えない。それになおロシアなどと比べても特に核兵器では大きな較差がある(ロシアが核弾道で一万発近いのに、中国は200発くらいだと)。

 

アメリカが最大の軍事大国の責務として核軍縮を提唱した理由として、核拡散に危機感を抱いたことがあるけれど、その当面の目標として中国レベルまでの軍縮を目指しているといわれるのは、中国の核兵器増強を止めたいという思惑があるのだろう。核兵器軍縮においてはその強力な破壊力を考えれば全廃にしか意味がないと思われるけれど、とりあえず全世界的に増強を止めるのが危急の責務なのだ。アメリカとロシアがそれを目指しているのは確かだと思う。ともかくアメリカとしても核兵器を使うという選択肢は先制攻撃としてはない以上、ともかく世界中で新規に作らせず、絶対数を減らすことが自国の安全保障のために必要なのだ。それはロシアとしても同じだろう。

 

自国の核を減らして、モラル的な優位を保持しつつ全世界的な核軍縮を進めるという戦略が彼らにとっても今取り得る最善の方策であることは間違いないだろうし、極力速やかに進めてほしいと思う(もちろんアメリカだって産軍共同体があり、オバマ氏に賛同する人間ばかりではないだろうし、難しいことだろうとは思うが)。

 

そういった世界の望ましい流れを考えた場合、日本が核兵器を持つということがいかにばかげたことであるか、世界の安全保障、そして日本国自身の安全保障を考えても意味のない、むしろ危険極まりないことであるかがわかるだろう。これまで核兵器禁止運動の先頭に立ってきた日本が核兵器を装備するということは、アメリカが目指している核拡散防止の方策に真っ向から対立し、中国との関係はこじれ、敵対国は更に増えることが想定される。それ以上に、核兵器不拡散の世界的な潮流が逆流してとめどもない核兵器増産の危険な季節が訪れるだろうことは想像に難くない。日本がやらねばならないことは全くこの反対のことなのだ。

 

先日来カンサンジュン氏の「ナショナリズム」と「ナショナリズムの克服」を読んでいた。

日本の特殊なナショナリズムの形態である「国体」についての精密な分析がなされてあった。この天皇を中心とした国家主義が明治初期の国策として構築され、その日清日露戦役での成功が結局は今次敗戦と破滅を導くに至る。しかも戦後のアメリカ占領軍においても日本の中枢との合作によってそれは巧妙に息を永らえて今に至っているという氏の分析は説得力があった。ある意味部外者としての氏の醒めた目がこういった作業を成功させたのだろう。

そういった国家主義の残滓、日本の嫌なにおいのするプライドの影響が、中国となお張り合わねばならぬという思い上がり思想につながっていなければいいのだが。




245)日食

 

小さい頃から宇宙には関心があった。なぜか宇宙の豆知識本が家にあっていつも開いていた。

オオツカさんとかいう年上の物知りの小6生と砂場で知り合いになっていろいろ教えて貰ったが、ある時

「1光年はどのくらいの距離か、知っているか?」

と聞かれ、例の豆知識本で記憶したとおり

「9兆5千億km!」

と答えて面食らわせたことを覚えている。もちろんさまざまな知識の幅と深さで彼は大抵私を上回っていたが。

日食があって、彼に教わって蝋燭のすすをガラスにつけ、覗いたのもそのころの記憶にある。


いずれにしても、宇宙に関する私の知識はそのころがピークだった(笑)。


数年前、たまたま読んだホーキング氏のベストセラー本など、まったく理解の外だった(泣;;)。

 

「神童」が長じて凡人となる例のひながたにもならない年寄りの繰り話だ(哂)。

 

 

 

 

 

ま、それはそれとして、

 

今世紀最大の天体ショー」という触れ込みで、最近マスコミが騒がしかった。またその日食が日本で見られることになったらしい。

なぜまだ9年目で「今世紀最大」になるのか?というつっこみもネットではなされていたようだけれど、皆既日食になっている時間が奄美諸島の悪石島などでは最大6分間になるということが珍しいらしい。たまたま最近旅行した奄美大島でもそれが見れるということで現地のキャンペーンも見た。知人へのお土産に「黒糖日食焼酎」なるものを買ったし、全く縁のない現象でもなくはなかったわけだ。

 

さて7月22日、当日わが地域は曇り、ときどき日が射す?付きの天気。菜園に居て最近の大雨で緩くなっている雑草を抜いていたが、青空も一部見えて、これは何とかなるか、と今世紀最大の天体ショーの観測準備を始める気になった。

写真を撮りたかったがフィルターを作っている時間はなかった。

30X38X40(深さCm)のダンボール箱の上に安全ピンで小孔を明けて、底に無地の紙を何枚も敷いた。ネットなどで聞きかじっていた針穴写真機応用の反射望遠鏡の真似事だ。孔と像の写る位置が離れているほど像は大きくなるはずだったけれど、欠けの始まる9時30分はもう過ぎていたし、ともかく見てみようと外へ持ち出した。

生憎その頃から青空は殆ど見られず、うす曇に時折光が射す悪条件。福岡地方は95%欠けるという情報に賭けた。見える、見える、ちょっと小さいがちょうど箱の底に小さい太陽の像がはっきり結ばれた。

もっとも、見えるものが皆写真に撮れるわけでもない。いろいろ暗箱の暗さを増しながらカメラを頻繁に撮った。雲が増えると当然像はぼやける。

 

 

 

10時40分ころの写真が中ではましだった(最大欠け時は10時55分)。

 

これはTVでの受けうりだが、太陽に月の影がぴったり重なる地上での日食は、天体同士の距離と大きさの比の関係が偶然ある値(太陽と月の大きさの比400:1、太陽と月、月と地球の間の距離の比400:1)を取った結果起こる奇跡のような現象であるらしい。

なるほど。

例のサイゾー質問箱の哲学カテに「偶然にしては出来すぎている」との質問があった。

 

太陽と月の視直径が同じ。しかも400倍の距離と400倍の大きさときている。日食は人類に観測させるためにあるらしい。
偶然じゃないですよね?

そのひとつの回答である。


>
日食は人類に観測させるためにあるらしい。
誰が?
私も今度それを聞いて奇異に思ったものの一人ですが、それ以上の思いは浮かびませんでした。
多分質問者様は全能の神が宇宙を創り、その時にそういった仕掛けをしておいて人間を驚かそうとしたのだろうとか考えておられるのでしょう。
そう考えるのは自由ですが、なら、そういった全能の神は誰が創ったのでしょうか。この思考方法はきりがない循環を形作るという意味で無意味なことだと思います。


世の中に驚くべきことは他にもたくさんあります。それらは偶然というよりもまず事実なのだと思います。
驚くべきことも多いけれど、一方で、納得がいく平凡な事実はそれらを無視できるほどあります。
ですから偶然という言葉が出来たのでしょう。全体として妥当な確率の範囲に収まるのではないでしょうか。

私が神だったら、世の中を怪しい偶然ばかりにして、人間たちを驚かせっぱなしにするでしょう。
 以下省略。

 





(244)昭和の風よ永久に吹け

 

私は当然ながら昭和生まれである。いわゆる戦後っ子といわれるS・20年生まれの世代と、いわゆる団塊の世代と言われる多数派(S・22年から25年にかけて)の間にあるS・21年生まれ派だ(生年はS.22年だが)。

戦争が終わって間がなかった時代だから、物心ついたころの記憶をまさぐってみると、かなりの部分で今次戦争の傷跡が思い出される。これは祖父母、父母や5歳上の姉、周囲のおとなたち(戦争の真っ只中で苦労をした世代)から聞いたことがあり、それとともにまだ戦争そのものの痕跡がなお日常に残っていた。それは例えば身近に見た防空頭巾だったり、空襲に備えたランプの覆いだったり、家の前に埋められてあった竪穴式防空壕の痕跡の記憶だったりする。そのスペースは戦後数年間芋などを作った畑になっていたらしい。近くの切りとおしの崖には古い横穴の防空壕が幾つもあった。

私の町は戦中日本海側には稀少な軍港で、海軍工廠があったので空襲にも遭った。疎開もしたようだが幸い実家は焼けなかった。小学生の時その造船所を見学して、なお空襲で被った1トン爆弾の被災痕の説明を受けた記憶もある。もちろん私たちが見学した時は民間の工場になっており戦後10年近く経っていたし、造船景気の只中であり場内は活気に満ちていたと記憶している。


いずれにせよ私の生きた時間には戦争はなかった。

だから、私たち以後の世代は、戦争の被害者ではなく、むしろ戦後焼け太り現象の恩恵を全面的に受けたといって間違いではないだろう。私達は幸せだったと思う。

私自身は平和主義者を自任しているのだけれど、実際には戦争そのものに立ち会っていないのでその見聞は全く迫力に欠ける。

やはりここは実際に戦争を体験された方々の直接体験の伝承が重要だということだろう。

 

最近、私の年長の知人が古希を記念して首記の表題の著作を出版された。現役時代に関係された会社の機関誌に連載されたエッセイをまとめたもので、既に三冊目だそうである。

表紙の含蓄のある絵も著者のものだ

私より8歳年上である。当然ながら一番多感な年少時を昭和の激動時に晒され、苛烈な戦争体験を持たれた。表題に見られるとおり、そして冒頭の米軍のイラク侵攻のニュースから幼少期の東京空襲の死の体験が語られる(見事な語り口である)。自宅の崩壊と父君の故里九州への厳しい疎開行、その疎開先北九州もやはり激しい空襲に晒されるなど氏の悲惨な戦争体験を主なテーマとして、現代の豊かな時代にあっても、遠くない過去にはそんな死と隣り合わせの苛酷な時代もあったのだということ、そして日本人はいつまでもその原体験を忘れないでいて欲しい、過った道へは二度と進まないで欲しいという著者の強い願いが篭められている。

氏の父君が海軍将校であられた関係から、豊かな人脈からの貴重な資料も披露される。一般に信じられているいわゆる戦艦大和の片道燃料での沖縄戦出撃という故事がここでははっきりと否定されている(事実だろうが、これは納得のいく感動的なものだ)。公式資料の裏側にある真実は日本近代史を書き換える可能性も感じさせる興味深い内容だ。

筑豊の山野で伸び伸びと過ごされた少年時代の体験からの教育論、直近の話題としてご自身で飼われた猫について綴ったペットロス症候群の考察、そして生涯を通じて没入されている禅の体験、高僧との出会いを通して至った人生観、死生観、、超常体験など内容は実に豊富である。

掉尾に置かれた著者の義母様の、やはり日本の昭和史に直接揺さぶられた波乱の生涯のスケッチは簡潔でありながら感動的である。もちろん本書の主要主題の荘重な締めくくりとして秀逸な構成だと思う。

 

著者 安増義人 中央公論事業出版 (税別¥1200こちらにメールしていただいても受理します。


243)ハッピーフライト

 

中学校の修学旅行で羽田空港を見学したのは何年前だったろうか。1時間以上の滞在時間で閑散とした広い滑走路に旅客機の発着を見たのは確か1回、当時は珍しい双発のジェット機だった。もちろん日本のものではなかったと思う。あのころはパンナムの全盛期だった。

新婚旅行で小松から札幌、当時は(新ではない)千歳空港へ、乗り継ぎのため羽田に寄った。私の思い違いで(指示されたはずの)バスへ直接乗らずにターミナルへ入ってしばらくうろうろし、旅客係(つまりグランドスタッフ)の女性に問い合わせた。女性はチケットを一見すぐ行動を起こし、私達を外の空バスへ乗せ、暗くなった滑走路をぐるぐる走りまわり出発直前のジャンボ機に横づけしてタラップを架け直し、押し込んでくれた。間一髪だった。当時は羽田といえども今は常識になっているターミナルビルから搭乗機へ直接乗り込める移動式のブリッジがなく、バスで機のそばまで行って、タラップを利用するのが普通だった。もっとも、羽田がボーディングブリッジを備えたのはむしろあとから続々出来た他の新鋭地方空港よりも遅かったようだが。

 

好評だったハッピーフライト矢口史靖 監督)を見てそんな私的な思い出が浮かんだ。

ある日の羽田。もちろん現代のお話、というより、旅客航空会社の舞台裏をドキュメンタリータッチで説明するという趣向。だからとりたてて目立った筋立てがあるわけでもない。しかしこのあんまり平凡すぎて誰にも思いつかなかったネタを、ここまでしっかりしたドラマに仕上げた監督の手腕は凄いと思う。何してもよく汲み上げられた細部描写がなんとも面白い。ぐんぐん映画の中へ我々を引き込んでいく。事実の持つ重みというのだろうか、よくもここまでというほどの丁寧な取材による手抜きのない、しかしあくまでさりげない語り口。たったひとつ、これはやりすぎですよと思ったのは滑走路でかもめの群れを追い払う銃を放つバードパトロール(ベンガル)に対立する愛鳥家のゲリラ戦だけど、ま、これくらいならご愛嬌か。

羽田を発ってホノルルへ向う1980国際便。この一便に焦点をあて、このフライトに携わる熟練(時任三郎)、新米(田辺誠一)パイロット、華やかな乗り組みのパーサー(寺島しのぶ)、キャビンアテンダント(CA)達(彼女達(吹石一恵)にも新米(綾瀬はるか)にモンスタークレーマー(菅原大吉)がからんでありそうなシリアスコミックドラマが)、その機体の整備係(田中哲司)の熾烈な新米(森田龍)いじめ、あるいはコントロールタワーの働かない公務員やらセンターの定年まじかでパソコン嫌いのおっさン(岸辺一徳)を含む人々、更には乗客を送り込むグランドスタッフ(田山涼成田畑智子)にいたるすべてのプロフェッショナルたち。先にも言ったが滑走路に群れるかもめなどを空砲で追い払うパトロール役(このドラマの大きなキーワードなのだけれど、最近もニューヨークで大惨事を起こしかけたバードストライクの防止役)、などなど。いや、皆適役でうまい。

機に一事起これば彼らが如何に体を張ってこの一便の安全を究極の目的にして個人技を競いつつそれぞれの立場を守り、お互いにカヴァーしあってひとつの方向へ収斂していくかという、いわば日本発根性もの的群像劇がこの映画の見所だ(風雨をついて帰還してきた便を彼らがそれぞれの場所にあってグループ単位で見守る場面、演出の冴えというべきだろう)。

いや、それだけではない。彼らの外にあって彼らに常に熱い関心を寄せ続ける飛行機オタクとでもいうべき人たち(飛び立つ飛行機を撮影するカメラマン、その画像に注目するブロガー達、更にはCAにあこがれる少女など)にも映画は温かい目を注ぎ、重要な役どころを割り振っている。

映画の中で問われるクイズが二つ、機長がOJT試験の最中の副操縦士に問う“最高の着陸とは?”という答えは何だろうか。私は、やはりショックがあろうとなかろうと、最高に安全を保障できる着陸というものがあるのだろうと思う。

もうひとつ、機内食のデザートはCAの分もあるの?という綾瀬の質問はどうだろうか。

今度機会があったら直接聞いてみようか。

 

ある意味この映画は製作にあたって全面協力したANAという航空旅客運送会社の上質なPR映画だともいえるのだろう。今や老舗のJALといい線でライバル同士しのぎを削る。ドラマの中でもさりげなく語られるけれど、今や全世界で一日千便を飛ばすという。その中の1便にしてこれだけの苦労なんですよ、というわけだ。いや、ご苦労様です。


242)百年の誤読

 

二十世紀日本の文学通史としても大きな間違いではないかもしれない。正確には1900〜2000の間に日本社会に現れた「ベストセラー本」の一括レヴュー。俎上に上がった書は徳富蘆花「不如帰」を皮切りに1900〜1910の第一章だけで与謝野晶子「みだれ髪」、国木田独歩「武蔵野」などの古典的なおなじみから岩野泡鳴「神秘的半獣主義」などというあやしいものまで11冊(年一冊)、おおむねその年に一番売れた本、つまり10X10の103冊(プラス2004年までのおまけ9冊)を若手の俊英岡野宏文、豊崎由美の二人のポップでありながら意外に内実マジな対談形式で辛らつに切りまくり、けなしまくる。これはおもしろくないわけはない。「ダ・ヴィンチ」の連載で評判がよく、あとでまとめて出版された。私は例によってちくま文庫(08.11.10一刷)で読んだ。

 

この労作の彼らなりの動機というのが、もともと近年のベストセラーを読む仕事に関わっていた彼らが、その質の低さに閉口しながら、ベストセラーというものは昔からこうだったのだろうか?という素朴な疑問に端を発したものだという(百年の誤読という題名がそれなのだけれど、解説で呉智英氏も言っているようにこの名づけはまことにうまい)。

その疑問を解くために、百年前からの当時の出版文化に分け入って二十世紀初頭の当時9000部を売ったという「不如帰」の精読読みあわせから始まるわけだ。もちろん私も多くは読んだことはないけれど、それなりに著者名、そして名前だけはよく知っているいわゆる古典的な著書がずらっと並ぶ(「武蔵野」で私にも懐かしい手塚治虫の漫画の思い出が披露されていたが、岡野氏と私との重合は意外に大きいのかもしれない)。それが古今100冊も並べばまことに壮観というしかない。もちろんこの100冊の中には著者らが丁寧に特定するように従来の見方どおり「今も一読の価値のある<古典>」もあるけれど、現在では一顧だに価しないもの、更に目を覆うばかりの文字通り「百年の誤読」だったものもまた少なくないということだ。そういった目利きによる「見直し」がわれわれ勉強不足の読書子にはまことにうれしい日本文学再案内書にもなっている。

 

この書の親切なつくりとして、批評し論じる本と同時代に平行して出版され、ベストセラーほどには売れなかったものの、文学史的には無視できない小説や出版物群の年表がついているのがうれしい。基本的にこの上下2段に現れる「著者名」は多くが重複している(例 太宰治「斜陽」ベストセラー、同「津軽」下段 1941〜‘50)

1900年代の初期からずっと漱石、鴎外はじめ芥川やら三島由紀夫やら志賀谷崎内田百闊苺囑嵩、サルトルの「嘔吐」なんかも堂々とベストセラー作家に名を連ねている(現在の出版界からは信じられないほどだが)、その傾向ががらっと変化するのが岡野によれば“フォッサ・マグナ(巨大断層帯)」が通過した“1960年だ。この時期以後、ベストセラーに本格的な〔大家の〕純文学作品が現れることは絶えてなく、代わりにハウツーものや、タレント本がどっさりと売れ筋にのさばるようになる。たまに現れる文学書は時の話題をさらった「芥川賞受賞作品」に限られるという、”日本人の読書傾向が一斉にだらしな派へ変更した”年。この非文学的傾向は2000年以降にも続き現在に至る、日本文学の退潮とひとびとの価値観の変化、文学書による教養文化の衰退に連動しているのだろう(涙;)。

そういった大きな日本文化の流れを具体的なデータで再認識できるのもこの企画のすぐれたところだけれど、だからといって絶望することなく前向きに考えてここ百年の間に現れた貴重な「古典」を彼らなりに再認識し、後世へ向けてのメッセージとしたという意味が大きいのではないかと私は思いたい。

この近代日本百年の少なくない大作家とその良書群を私達も大事にしたいと思う。



241)年末に思うこと

 

年末に向っていささか身体をこわし、医者にかかった。今は安静の身である。しかし、医者は殆ど私の健康を疑っては居ないようで、私はここぞとばかりあそこが悪い、ここが気がかりだ、この辺にガンの気配があるなどなどいろんな症状を訴えたのだけれど、まるで本気にはしない様子で、4週間(28日)分の薬を見繕ってくれたあと、これだけ飲み終わったら再診しましょう、といって早々に切り上げてしまった。なんだ、この極楽トンボ的診察は!

ま、その時は腹がたったのだけれど、後にして思えば医者にも言い分はあるのだろう。大体が日本の老人は自分の健康に自信を持てず、体に必要以上の病巣を予見し、勝手に心労を重ね、病院へ日参することを役目と心得ているものだ。私の父親がそうだった。ぼろぼろになった「家庭の医学」を毎日むさぼり読んでいたし、母が亡くなったあと、何度か病院に入退院を繰り返し、追い出されたりしていた。麻生首相の例の軽口にも理はあるのかもしれない。

そんな状況の中で世界の経済はますます悪化の一途を辿っている。アメリカの金融崩壊に端を発した衝撃波は日本の輸出産業を直撃し、株は急降下し、全国の金回りとものの動きは非常に悪くなっている様子だ。私のささやかな金融資産も大変な目減りになっていて(ま、一般的にいって絶対額はたいしたことはないが)それも昨今の私の体調に悪い影響を与えていることは間違いない。

ま、私のことはさておき、日本の経済(と日常生活がかかわる文化)が今度の大不況で転機を迎えていることは間違いない。戦後一貫して変わらなかった経済成長の右肩上がり基調が、今後は期待できないことがはっきりしたのだ。そればかりではない、同じ問いの中から提案された所謂小泉改革というものがある意味破産したという論調は最近多い。これは小泉改革がアメリカの国家政策である経済策、金融自由化に範をとったものだったことが理由だろうけれど、グローバル化は世の趨勢であり、何もかも悪かったというのはどうだろうかと思うが見直しは必要だろう。なににせよ日本は今後どうなるのか、というよりもどうするべきかという問いは日を追って鋭く国民につきつけられることになるだろう。

 

ひとつの提案が込められたアスキー新書の「パラダイス鎖国」海部美知 ‘08.3.25 初版 を読んだ。著者の認識では、高度成長時代の日本人の海外への関心が最近はずっと薄れて、少なくも実業に関する限り日本人は心地よい旧来の体制で、主に日本を舞台にして活動することでおおむね満足してしまうことになっているようだ。


最近、日本企業が負けないいくさしかしなくなった、と著者はいいたいようだ。一度世界に確固たる地位を築いたあと、彼らの戦法はバブル期を経て@数量と資本で押す、A品質とネームバリューで売る。この二つでしかなくなっており、ここには新規会社の参入と既存企業の別業種への参入が不可能な(非とする)傾向が強くなっている。既得権益の優先と持続は新しい智と血を受け入れない日本の保守性(パラダイス鎖国)として今に至っていると分析する。

このままでは日本はジリ貧になって後発の新興国(中国、インド、ブラジル、ロシアなど)に追いつき、追い越されるのは確実だろうという。その証拠として公式に発表される国際競争力の指標が日本はどんどん落ちている(IMDでは24位(’07)、‘90年は二位だったらしい)。この原因として、日本では戦後の一時期に奇跡的に成功したベンチャー企業(ソニー、ホンダなど)が戦前からの大企業とともにずっと一貫して社会を牛耳っており、アメリカなどのような新しい産業・イノべーション(ITなど)とそれに伴う新会社(MS、インテルなど)が興らない旧態依然たる社会が続いているからだと。

 

アメリカだって新興の有力会社など滅多に起こるものではない。その成功の根には長い自由主義と特殊な幼児教育、多くの移住者たちによる異文化の混交があり、日本がまねてまねられるものではないと思うけれど、著者は日本にもシリコンバレーが必要だと力説する。アメリカでもこの地帯は特別なのだ。異人変人達が寄り集まり、離合拡散を繰り返しつつ新しい事業が起こり、混沌の中で破産と創業を繰り返す。その中で成功がままあり、その事実が彼らの前向きの力になる。そういったことは国内的にもある程度の余裕が必要であり、そういったことを率先してやってきたアメリカと遜色のない、世界でもなお二位の経済規模を持つ日本こそ、この渦巻きをどこかで起こすべきだというのだ。

こういった動きを助けるものとしてインターネットの活用があり、雇用の流動性があげられる。技術と情報の活用は必然的にグローバル化を促進するだろうし、昨今の経済崩壊が既存の二次産業とその大企業群からの労働力の離散、そして新しい産業と起業へのインセンチブをも高める力になるだろうことは想像できる。つまり、災い転じて福と成す?

願わくば、新しい歳が混沌から新しいパラダイスのステージを見通せる場所になりますように。



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