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20.妖精のこと

  VでA・ヘップバーンの特集があった(NHK9/4「夢伝説」)。

 故人となった元大女優の生前の(上品な老女だったけれど)
結構饒舌なインタビューや、アカデミー賞を貰った時の、
幾分上ずった、初々しい挨拶などを見ることができた。
懐かしい感じの映像だった、昔の恋人におもいがけず出食わしたような。

  私の二十前後の青春を華やかに彩った
このまことに愛らしいハリウッドスターも、今の私には後発の、数限りない、
輝かしくもセクシャルなフェミニンたちの間で目立たない光彩を放つだけの存在に
なり了ったけれど、といえば、随分の気移りよとか、身勝手なとか、
今なお変わらず夢見ごこちにオードリーへ打ち込まれておられるファン連からは
非難を買うに違いない。勘弁してほしい。
あれから三十年以上経っているのだ。

  けれど、思い返せば、私のその昔の思い出はやはり、
これまでの人生の中でも、格別に素晴らしい恋愛体験だったと思わざるを得ない。
ありがとう、オードリーさん。

 

  そのころ、大阪は吹田の独身寮から、阿倍野の封切り館近鉄劇場まで、
何度となく彼女主演の「マイ・フェア・レディ」’65を観に通った日々を頂点とする
前後数年間は、どういうわけか(幸運にも)彼女の主演した
旧作が頻繁に再映された時期でもあった。
心斎橋のキリン会館ビル「戎橋劇場」がその主な「名作上映館」だった。
戦争と平和」、「尼僧物語」も、「麗しのサブリナ」も、「噂の二人」も、
「許されざる者
」もそこで観た(と思う)。
もちろん「ローマの休日」も、「昼下がりの情事」も、「ティファニーで朝食を」も
リバイバルで観たのだけれど、この彼女の代表作とされる三つは、
私にも特別な思いがあるにもかかわらず、
なぜか、それぞれがどこで見たという記憶はなくなっている。

 

  当り前のことだけれど、その頃はビデオのない時代で、
一度劇場でみたという経験は、今どきビデオで(つまりTVで)観賞した場合の、
恐らく数十倍の濃さで心に染み付くものだった。
周囲の環境もあるだろうが、気分としてもそれほどの集中度でみていた
ということだろう。映画を見にいくということは、それほどに特別なことだったし、
少なくも(いい)映画をみたあと、数日間(あるいは数週間)
心が特別な「酔った」状態になっていたような気がする。

 

昼下がりの情事」はその頃、少なくも二回はみていると思うけれど、
この印象は強烈だった。私は、この時の印象を大事にしたい余り、
ずっと後年、ダビングで手にいれたこのビデオソフトを、
未だに装置に掛けていない。

  「ローマ」よりも先にこれをみたということもあるのかもしれない。
私はこの作品がオードリーの中では最も好きだ。
作品としてもよくまとまった一作だった。
ビリー・ワイルダー監督。プレイボーイのロマンスグレー、ゲイリー・クーパー
(どうも高倉健のイメージにダブるのだが)を、
その初心さと父親(軽妙なモーリス・シュバリエ=男女関係専門の私立探偵)ゆずりの
色ごとに精通したふるまいで切りきり舞いさせる音楽学生アリアーヌ、
結局二人は結ばれ、クーパーは走り始めた汽車へ彼女を略奪よろしく抱きかかえ、
引き込んで、めでたく結ばれる、見事なラストシーン!。
涙と笑いのしゃれたロマンチックコメディだった。

 

  多くのひとがヘプバーンの魅力が最高に引き出された作品だという
ティファニーで朝食を」。
昨日のTVでの裏話で、この主人公ホーリーには、
最初M・モンローが予定されていた、という。さもありなん。
私はすっかりこのミスキャストの顛末が分かったような気がして、腑におちた。
T・カポーティの原作による、ちょうど荷風の「墨東奇潭」に似たような趣を持つこの
大人の童話に出てくる奇妙な娼婦から借り出したホーリーなる役柄が、
とてもヘプバーンのイメージには合わないことは誰の目にも明らかだった。
彼女ほどいわゆる娼婦からほど遠い、肉体を意識させない女優も珍しいのだし、
ならそれなりの筋立てもあるはずなのだけれど。
当然ながら、映画は破綻をきたし、残ったのはただ、
ファッショナブルに様々な衣裳を着こなした現実主義の小妖精
ヘプバーンの美しさだけが際立ったという結末になった。
もちろんヘプバーンファンはそれで幸運だったのだし、映画も当ったと聞く。
でも、割り切れない気分がずっと残ったのは、やはり作品として
不完全燃焼に終わった、という一言に尽きる。
中途半端な恋愛で生の女になどならず(どうせなり切れないのだから)、
オードリーには最後まで都会の小妖精という不思議な役割に徹して欲しかった。

 

  しかし、つくづくヘプバーンという俳優は特異な、
個性の強い女優だったと思う。その「少女っぽい、未成熟な」個性が十年以上にわたって
世界的な人気を保ったというのも、空前絶後だったろう。
私が彼女と最初に出合った映画は「シャレード」’63だったのだけれど、
高三の私は色気が分かり始めたころで、なに?この変な女優、全然セクシーでないし、
主役にしては歳が往き過ぎているし、とか、全く印象が悪かった(良かったのは、
スーツ姿で悪漢に追われ、懸命に疾走する彼女の、きれいなフォーム位のものだった)。
その数年後には、寝ても覚めても彼女ばかり思い続けるというていたらくが、
いまだに信じられない。何が私に起こったのか。
それが恋というものなのか。

 

  私のフィーバーは、「さすらいの二人」’66を最後に
静かに終わりを告げた。「おしゃれ泥棒」も、「暗くなるまで待って」も辛くて観れなかった。
でも「さすらい」は後味の良い、いい作品だった。
どうして三十七歳のオードリーが、あのように若々しく演技出来るのか。
危惧したよりもよほど彼女は若々しく見えた、シャレードよりも。

歳よりもかなり老けて見える彼女を、懸命に若く見えるように技巧をこらし、
何とか成功したスタンリー・ドーネン監督(シャレードも同監督)の手柄だったろう。

 


19.拝啓  呉智英さま

  先生の著「封建主義者かく語りき」双葉文庫版
楽しんで読ませていただきました。
 読後感はすこぶる良く、なぜこのようなユニ−クな本や、
先生のような希有な著者の存在にこれまで気付かなかったのかと
我が身の不勉強さを恥じました。
これは知的で上質のユーモア読み物として
近来になかった快著であると思いました。
また、下手なSF小説よりも奇想天外な疑似思想書
(こういったジャンルが過去あったのか、どうか。
ツァトラストラのパロディ?いやもっと違ったなにものか)
だとも思いました。
そのあたりの、実に含蓄に富んでいそう
(ひょっとすると疑似抜きの思想書かも!まさか?)
ところがこの書の困ったところであり、また魅力なのでしょうか。
もちろん先生の意図したところもそんなところにあるのかもしれませんが、
これは一面ではかのO・ウェルズの疑似宇宙戦争実況中継よりも
人の悪いいたずらともいえるわけです。
もちろんそれを仏の大文章家ゴーチェにも比される
先生の大手腕とはとっても、
人柄のなすわざとはとりませんが。

  以下に、小生なりの具体的な疑問点などを挙げてみたいと思います。
言葉の問題として「封建主義者」はいささか乱暴に過ぎると思いますし、
当面のところ改良儒教思想による士大夫(哲人)たちのトップダウン、
民衆統治ということになるのでしょうが、
統治に関して最大限の責任を持たねばならない士大夫の可能性も、
その緒に至る具体策も全く示されていないのがこの書の思想書
(であれば)としての最大の弱点だと思います。
あれほど空虚な業だとして憲法学者をわらった先生にしてみれば、
それこそこの書のかような「空虚さ」を
たっぷりと笑って欲しいのだとでもいわれるのでしょうか。
小生が愚考するに今再び大洪水などが起こって、
ゼロからの出発になったとしても、
一度民衆が手にした自由思想(の記憶)は大賢者とても
回収することは出来ないだろうと思いますし、
まして野から遺賢をなくすことはもっと困難だとも思うのです。
彼等と士大夫とのかねあいは最も困難な問題かもしれませんから。

  前述とも関連しますが、小生が最も理解困難な部分は
例の「身分を弁える」という部分です。
身分制度は我々の拘わる民間企業になお色濃く残っており、
序列が異なれば呼称や椅子の形が変わったり、
給料(の上がる速度)が変わったりするだけでなく、
当人に周囲の人間どもとは身分が違うんじゃという自尊心、
プライド意識が現れるようです(はっきりいってこれが一番嫌らしいし、弊害もある)。
もちろん例外はあるでしょうが、
トップダウンは(全くしないひともいますが)当然あっても、
我々からのボトムアップは、屈辱的な状況下で
理由なく拒絶されることがしばしばです。
これを小生は封建的遺制と考えていたのですが、
先生はこれをよしとされ、むしろ美風とすら言われる。
給料の代償としてこのような辛さにも耐えている我々サラリーマンが、
会社を出てまでも町内会長やら見回りの警官やら
市の職員などからトップダウンされ、このような状況に置かれるとしたら、
ストレスはいやがうえにも昂まり、それこそ
SM変質者でもないかぎりそうは耐えられず、
そんな社会は長くは続かないような気がします。
それとも湯島の聖堂を拝せば悔しさは悦びに変わるとでもいわれるのでしょうか。

  土佐の一本釣り」(著者青柳裕介氏はこの8月逝去されました。合掌
は確か井上ひさし氏が選者の時に「朝日」の書評欄で取り上げられたこともあり
(内容は忘れましたが)、漫画の出来としては悪くない、
特にストーリーとか状況描写などは、
長編だったことでいい頃もあったのだろうと一般論として思います。
小生も最近は十年といわず「朝日」を見ていないので
なんともいえないのですが、当然ながら漫画にもお詳しい先生のことですから、
こんなことは百も承知で前記の漫画を非難されたのでしょうし、
小生はこの批評も作品も見ていないので
「土佐の−−」の出来不出来についていう資格はないのですが、
先生がこの主人公が日本人論を語るのを「分在を知れ!」とか罵って
不快感をあらわにしておられる。これが不可解に思えるのです。

  これは小生の想像ですが、
少年漁師が稚拙な言辞を言い散らして大人ぶろうとする、
そんないかにもどこかにいそうな平均的日本男児を生々しく描いて
漫画に奥行きを持たせようとする作者の意図があったのではとも思います。
同じ経験を持つ人間たちもこれを見て頭を掻きながら苦笑したでしょう。
こんな嵯末事までを思想的に押さえることは出来ないし、
非難は的外れだと思いますがいかかなものでしょうか。
むしろ先生としては、この人気漫画をだしにして
封建主義者」を悪漢よばわりする三流批評家こそを
撃破しなくてはならないのではありますまいか。
漫画家たる作者の「安っぽい哲学」を非難されるなら、
では小林よしのりのゴ−マンシリーズを先生は、どうして
著者が漫画家であるという理由で無視されないのでしょうか、
価値を云々する以前の問題として。
あの事象こそ「良き民主々義、自由主義」の典型例だと小生には思えますが、
先生のもっとも好まない事例だとも思うのですが。

  はしなくも我乍ら言い過ぎたことをお詫びします。
他にもいくつも疑問点はありますが自分なりの解答を探っていくつもりです。
しかし、双葉文庫には、文庫本特有の巻末解説が
(コスト削減か、どうか、ともかく)備わっていないので、
はなはだ頼りなく、どうも読んだ気がしないのです。
これは私たち一般大衆である多くの読者のためには
絶対に必要だと編集者氏にはお伝えください。
特に先生の著書のような難解なものには是非つけて欲しいのです。
お願いついでに付け加えると、この本の解説者には
伸坊氏や鏡氏や春菊氏などでなく、もっと思想界に近いひとのほうが
いいのではないかと思います。

先生におかれましても更にご活躍されんことを。

 


18.虫の生活


は虫の季節である。様々な昆虫たちが夏を謳歌し、
我々を楽しませてくれる。

中でも主役は喉自慢のセミたちだろう。セミしぐれを聞くと
我々は夏を感じる。それも微妙な夏のうつろいを。
ハルゼミのぎい、ぎいという声で夏が始まり、アブラゼミのじりじりと
焼けるような暑苦しい鳴き声で夏本番を実感する。
ミンミンゼミの雄大な歌声で深まる夏を思い、
ツクツクボウシの軽快な唄が
ヒグラシのもの悲しげな斉唱に変わる頃には
既に夏も盛りを過ぎ、残った宿題が気になってくる
夏休みの後半ということになる。

セミの博物館サイト

http://www.nat-museum.sanda.hyogo.jp/wave/wav_semi.html

を訪れると、
その種類の多さに驚かされるけれど、
我々が日ごろ親しむのはその中でも
上記を含む6,7種くらいだろうと思う。
どんな貧しい木立でも、せみが鳴かない木はないほどだ
(針葉樹林は多少静かだという説有り)。
様々な種類のセミが一つの木にとまって
鳴いている光景も珍しいことではない。
セミは木(樹液=食物)のよりごのみはしないように思える。

電信柱にまでとまって鳴くセミがいる。

彼等は鳴くことがすべてなのであって、
食事は二の次なのではないか、とすら思える。

高校時代、無理を言って買ってもらった
北杜夫の「どくとるマンボウ昆虫記」に耽溺した。
彼の実父である歌人
斎藤茂吉の「セミ論争(奥の細道にある芭蕉の句
 しずかさや / いわにしみいる / セミの声
の中のセミの種について、
おおかたの意見であるニイニイゼミに反して、
茂吉はこれをアブラゼミだと言い張った。
あとで取り下げたそうだが、論争を好み、
強情な彼にしては珍しいことだったと。
茂吉の複雑な性格を示しているようで印象に残った。

同時期に読んだ茂吉家三代の小説風バイオグラフィー
楡家の人々」に現れる若い医学者茂吉がドイツ留学時、
憧れの大学者に面前で卑しめられ、傷つき、
悩む場面とも重なって、彼の肉に迫っていく感があった。

セミではないが、「ハエ」の章に、
「ある種のハエは、悠々音速を超える速さで飛ぶ」
という驚くべき一節があって、子供心にも疑わしく感じた。
彼一流のユーモアとは、とても思えなかった。

三十年後に出会った大部の「
虫の惑星H.A.エバンス 日高敏隆訳早川書房
の中にこの答えらしきものがあった。

C.H.Tタウンゼント(米)はシカバエ
時速815マイル(千三百キロ)で飛ぶと、ずっと以前に言った
(しかし、それを確認した者はいないし、
それに近い記録に達した人もいないとも)。
どくとるマンボウの種本は、ずっと以前にそう主張したという
ハエ学者タウンゼント氏の著作だったのだろうか。

ホホアカクソバエの公式記録は一秒当たり三メートルだそうである。
もちろんこれは昆虫中最速であり、
体長比の速度では音速ジェット機の十倍近い。
(「
虫屋のよろこびジーン・アダムス 小西正泰訳 平凡社)。
タウンゼント氏は、そしてマンボウ氏は
感覚的にさほど間違ってはいなかったのかもしれない。


日本には昔から昆虫全般に重きを置く文化があった。
それも幾分情緒に軸足を置いた文学系のもので、
うつせみ「空蝉」などという素晴らしい和製の語彙もある。

北杜夫氏のあと、私の知る限り
今は
奥本大三郎氏などが続いているようである。
最近の「
虫権利宣言」朝日新聞社 は、
勇ましい表題もさりながら、なかなか好調な出だしを誇る。
「虫の本字蟲はあらゆる動物を含む概念である。
人間は裸蟲の一種に過ぎぬ---。」けれど、
読み終わってみれば、珍種標本収集家の
海外紀行文以上のものではなかった。
表題の権利とは、作者の虫に対する権利なのか、
と錯覚したほどだった。

誰であれ、処女作を越えることはなかなか
難しいものなのだろう。「虫の宇宙誌」’80青土社
( 読売文学賞)は初々しい薀蓄の珍書である。


17.人間の限界

界水泳選手権大会福岡2001 '01.7.12〜 。 イヴァン・ソープ(豪)
7冠達成か、と。
世界最速の魚人間の自由型100メートルのラップは48秒そこそこである。
人間としての極限の泳力、技がそこに具現されてあるのだろう。
もちろん彼とて人間だから、全く敵なしというわけにはいかない。
現にその100メートル決勝では米国の
アービンにトップを奪われ、
コンマ5秒差の4位に甘んじている。

人間は世界的に同一種
(有色白色皆ホモ・サピエンスという類人猿の一種)であり、
有り難いことに個体間で肉体的な差はあまりない。
民族間において。雌雄の別にあっても。
だからこそ、こんな競技大会の発想が生まれたのだろう。

日本人もかつては世界水泳の覇者として
君臨した時期があったのである。

もし、コーカソイドがモンゴロイドの三倍もある巨人族であったら、
と私なぞは悪寒を禁じえない想像をするのだけれど、
もちろん、そんな仮定は無意味だろう。
文化発生以前の段階で前者は後者を駆逐していただろう。

人類学者の一部には、かつて人類のあけぼののころ、
幾つか並存した人種間で存亡を賭けた闘いがあり、
我々が生き残った、と主張するものがある。
例えば、ネアンデルタール人が我々ホモ族と共存して今日に至ったら、
人間(達)の文化はかなり変わったものになっていたはずだ。

もちろん猜疑とプライドのかたまりである人間族の歴史では、
有り得ない想像だろうが。


ちょっと話がよれてしまったが、私はソープの限界を考えていた。

世界最速の男といえども、本物の魚とは敵にならないのである。
太平洋のマグロは時速百キロメートルで泳ぐという。

マグロと比べるのは酷だろうけれど、このひどい差は何だろう。

マグロとソ‐プ間にこれだけの体力差があろうとも思えない。

やはりこれは泳法の差、効率よく水中を進む工夫の違いなのではないか。
時速百キロとはいわなくても、現状の時速七キロそこそこを
飛躍的に伸ばす方法はどこかにありそうだ、と思う。

現にポリネシアの原住民に伝えられる泳法には、
そんな可能性がある、とどこかで聞いた。

頭上を越えることが課題だったハイ・ジャンプが、
メキシコ五輪で初めて試みられた背面跳びの改良で
あっさり克服された例もある。

井上靖の詩で知られるシリヤ砂漠で1947年に発見されたカモシカ少年は、
時速50マイルで走ったという。
これは後にサハラ砂漠で
J.C.アルメンによって確認された
別の野生児の観察でも指摘されている(「
砂漠の野生児」 S50 評論社)。

オートボルタの住民の鹿猟で見せる走法は
時速45キロに達するという記録もある。
多くの技術指導者の柔軟な発想を期待したい。

私はオリンピックなどの賑々しいお祭りを好まないけれど、
本来の精神は悪くないと思う常識人のひとりとして、
21世紀も益々、競技そのものは盛り上がって欲しいと
考えているものである。



16.Eメールの書き方

Eメールは短くなければならないそうである。
世界最先端技術の結集、複雑で地球レベルほどにも巨大な
人類共用資産の超強力な機能のおこぼれを、われわれは私的、
個人的な目的の為に流用させてもらうのだから、必要最小限の
時間に留めて置かねばならないのは見やすい理屈だろう。
未来志向的環境重視社会の、マイカーの個人使用制限などにも通じる
エチケットとでもいうべきルールだろう。

 もちろん時と場合によるけれど、
私の場合、どうしても長くなりがちなのがこの私信である。
少しこじれた相手との関係修復のときなど、
幾ら言葉を重ねても誤解を解き得ない気がして、
自然長くくどくなってしまう。
手紙(封書)では平気で便箋5、6枚十円超過などとやっていた
私だけれど、さすがにメイルではなし得ず、
書きたいことも身を切る思いではしょってしまうことになる。
発信したあとで後悔することになる。舌足らずの弁解なぞ、
むしろしなかったほうが良かったのではないか。出さずに
沈黙していた方が立派だったのではないか。

 
丸谷才一によれば、小説というジャンルが一般に詩文などに比べて
低いものとされてきた理由に、その自在さ、形式のなさ(つまり、いい加減さ)
が挙げられるという。だとすれば、構想などないまま書き始め、
書き流し、流されっぱなしに書いて、
終わってみたら大抵が中、長編になってしまう私のものなど
その低さは相当のものだろう。ハイスクールの頃、何となく短詩形クラブに
籍を置いたことも有ったのが嘘のようで、確実に堕落しているのだろう。

 五十五刷の
「チョコレート革命」俵万智 河出書房新社を楽しみつつめくる。
今回は何か、凝縮の秘訣がありはしないかなどと賎しい目つきになってしまう。
日本語というのはやはりこんな非論理的(誤解され易い言葉だけれど)な文学に
最適な言語なのだろうかとか思ってしまう。
もちろんひとつひとつ完結した世界がそこにはある。
ひらめいたイメージに添って、
空中から手品のように的確な、平易な言葉たちを
さっと取り出してひたりとくっつけ、一気にまとめあげてしまう。
それだけのことで美しい思いへと誘い込む、凄い
即興的なテクニックが秘められている。もちろん
こんなことは誰にも出来ることではない。ましてEメールへの応用など不可能だ。
次元が違う。

「ネコでも出来るEメールのはじめかた」の著者で、スピーチの専門家でもある
内山龍一郎氏(名著「ネコでも出来るホームページの作り方」
私のサイト作成時の唯一の教本だった)によれば、
Eメールはスピーチの要領で、
更に会話しているような気分で書ければ良いという。

 なるほど、と思う。顔を合わせなくとも、
そこに当人がいるような、肉声に限りなく近い文章、
それで苦しい胸のうちであれ、正直に表現できれば、
読み手はそれを感じ取り、どうしようもなく共感させられるだろう。
要はまごころを出すということか。とりつくろう意識
をなくすことだろう。言うほど簡単なことではないけれど。


 


15.猫のことなど

は嫌いだった。犬を飼っていた(父が)経験から、どうしても
くらべてしまう。いわく狎れない、馬鹿である、役に立たない、
(屋内で飼うから)油断がならない(魚などを奪う=荷風だったか、
猫には泥棒癖があって困るとかいう節があったが、癖というより、
狩猟本能といった方が正確だろう)、あたり構わずうろうろするので
誤って踏んでしまう、毛などが散らかって汚い、
陰険、化ける、云々、云々----。
 しかし、六年前一匹の迷い猫を家族の圧倒的な民主主義(多数の横暴)から、
よんどころなく(庭先で)飼い始めたのが百年目だった。
猫が猫を呼び、仔を産み、殖えて、
何時の間にか座敷に侵入して居座り、
これまで飼った個体は延べ三十を下らないだろう。
 現在、庭には五匹の子猫を含めて八匹が常時たむろし、
屋内には最近生まれた三匹(外で産んだあと、後でくわえて
連れて帰ってきた)を加えると七匹が今の内猫(うちねこ)
いわゆる
選ばれたメンバー猫ということになっている。

 その他に、
「恐怖のむぎ」といわれる一匹の古猫がいる。
これは二年前に直線で三キロばかり離れたスーパーに
捨てた二匹のかたわれの、麦色(今は灰黒色)の猫で、
三ヶ月前に、ぼろぼろになって戻ってきたが、
未だに屋敷内に棲む権利を主張して、隙さえあれば
(隙間はなくとも鍵が掛かっていなければ)玄関などをこじあけて侵入し
現メンバーとトラブルを起こす傷だらけの悲しいアウトサイダー。
ムギといえば、高千穂遥の「ダーティ・ペアーシリーズ」に従うロボット猫(豹?)
を思い出す。これ(ムギ)は何の意味だったろう?)
 内外合わせて十五匹だから、常時十六匹居たという
大仏次郎宅よりは、まだましかもしれない。
そのほかに
常連のビジター(近所の飼い猫らしい)も二、三いる。

 しかし、飼ってみれば、さほど毛嫌いするほどの
ものでもなかった。つまり、
狎れないのでうるさくなくていい。
お互いにべたべたせず、捨てるときも割り切れる。
(実際は家族の抵抗が強く、これまで四匹しか
捨てていない。その内半数が戻ってきた。)
屋内にうろうろしていても、案外敏捷で、滅多に
踏まれることはない。食事どきでも、全く構わなければ、
そして極力しつけを厳しくすれば、魚などを奪われることは少ない。
汚いことは確かだけれど、トイレの場所に
天井へ抜ける
電動ファンつき換気筒を設けることで、かなり臭いは
少なくなったし、のみなども、いい薬があって、季節に
一度用いると劇的に少なくなった。

 それに、一匹一匹が実に個性的で面白い。
狎れないといったけれど、中には結構なれる「ひとなつっこい」のもいる。
大方は抱かれるのを嫌がるけれど、よく肩や背中に乗ってきて
抱け、抱けと強要するのがいる。大方は好奇心が強い。今度父なし仔を産んだ
隻眼のきじ猫「
ちび」は個性的な外見もさりながら、非常に好奇心が強く、
何の食い物もないことがわかっているわが書斎へしきりに入りたがる。
あちこち覗き回って人形や積読の漫画本をひっくり返す。

 しかし、最も優雅な美女で毛並みの柔らかなペルシャ系(?)の一匹「
ふか」は、
我々の前ではおっとりして動きも緩慢なくせに、意外にも最も野生が残っているらしく、
いつも外からとかげやへびなぞを捕まえてきて、自慢げに
飼い主に見せびらかすのを趣味としている。

 美女といったが、思えば、獣の中で最も美女との近似性がある(比較する場合、
やはり主に容貌だろうけれど、他にもいろいろ類似点はある。)のは猫族だ。
目がいい、声も魅惑的だ。四肢も適当に人間らしい。賎しいところがない。

文士の猫好きは多分に官能的なものではないか。
萩原朔太郎の詩に頻繁に現れるねこはその典型だ。
私の好きな作家は大抵が猫好きである。2の
舘主諸元で掲げた十七名の
諸氏の内、最も最近の
立花隆氏は嵩じて「ネコビル」なる
奇怪な仕事場を作ってしまったと聞く。
このリストに
内田百閨A夏目漱石を加えれば、
完璧になるのではないか。百閧ノついては、
並の愛読者程度にひととおり読んだだけだけれど、
漱石については、ご多分に漏れずという以上に熱をあげた。
彼の上質の官能性が好みだった。

 
豹がよく言われるけれど、躯の美しさ、適当な大きさに
官能を誘われるのだろうか。それにしても、
「女豹」とはもう陳腐すぎるほど使われたけれど、いっこうに減らない。
私も使っているので余りいえないが。

 豹は飼えないけれど、猫を観察し、付き合うのは
楽しいことだ。もちろん彼女たち猫族も(人間について)同じことを
思っているのだろう。


14.永井荷風の偉大さ


っと気分がすぐれない。鬱なのだ、と言い換えても良い。
どういうわけか、偶々真面目な本を読んで、それが
胸につかえている。小林秀雄ではないが、何か書くことで
ふっきれるかもしれない(小林は「やっつける」と表現した。)が。
がらでもない本など、手にするべきではなかったという教訓だろう。
いや、これは言いすぎだろう。すべては私に責任があって、
本そのものには何の罪もない。小著だが、見事な著作だ。

倫理という力前田英樹。講談社現代新書 例えば、
ひとを殺してはいけないという気分とか、
嘘をつく時にそれに抵抗する内なる力、
積極的に無償の善行へとかりたてる行動の欲求
(これを仮に「倫理」と呼ぶ)は、
共同体に依存せざるを得ない人間一般に備わった
共同体そのものを維持するために仮想される
「(集団の)普遍原理と一体になろうとする欲求の力」で、
生とか性への欲求が個の生存持続本能で説明出来るように、
「倫理」も、人間という社会的な動物がその個よりも、
その社会を存続させるために(矛盾なく)行動するための、
その個々の心が希求する本能のようなものということで、
進化論的に説明出来るらしい。

 例えば、社会は、皆が正直なことを前提として成立しており、
嘘は、周囲が正直でなければその効果はない。
社会が正直であれば、あるだけ、
嘘はその目的を達成できる可能性が増すのだから、
いかなるときにも嘘をつかない「倫理的な」人間は、
つまりそんな社会の普遍原理の成立に強く資していると言える。
この一見、当人には何の直接的な利益もないような希求の源は
人の心の隅に存在するもので
「人間の生存に根ざす一種の欲求がもたらす力」
だともされるけれど、
やはりその発現は稀なものだと言わざるを得ない。

カントやベルクソン、デカルト、素行などが少し出るが、
最小限に留まっており、
東京物語」の小津安二郎等も説かれて全体としてわかりやすい。
倫理を正面から説いた書籍としては出色であろう。
人類愛など課題もうまく提起されている。

しかし、結論はやわではない。

 例えば、共同体そのものを軽く否定するだけで、
これ(「倫理」)を合理的に説明することは出来なくなる。
人間に与えられた「知性」は、この共同体よりも、
個のために多くはたらくものであり、
そんな「歪んだ知性」に出会うだけで、
これを「やわな道徳教育」などで敷衍することは困難になる。
ただ、実践、そして身をもって分からせる、普遍的な伝統的技能へと
向かう教育でしか、これを現代未来へとつなげていく方法はないだろう、
というのが著者独自の、そしてやや悲観的な結論だ。

それはまことに困難な道になるだろうことも確かだろう。

貨幣経済も、近代産業革命以後の技術もここでは否定され、
例えば法隆寺宮大工の
西岡常一
著者が出会った昔かたぎのトンカツ屋のおやじ(非常な辣腕だと)などが称揚される。
自然に密着した奇跡のような技能の勝利への憧憬。
彼等、偉大な技能者を種とした、
民族や国家を超えた人間同志の、共通の目標を目指す精神が
人類共通の倫理へ向かわせるのだと。

一種の自然回帰主義だろうか。

いずれ、これはまことに困難なみちだろう。

 先日、偶々カキコしたサイトの主人(サイトの風格からして、
見上げるような君子だ)から窘(たしな)められた。
少々人気の出たHPをつくってしまうと、
アクセスの数を気にする余り、
裸踊りも辞さないようになりがちだし、
そうなるまでに自身は(潔く)サイトを畳むのだと。

 とても真似できない倫理的な行動だ。
ストリッパァの世界を興味津々小説にえがいている私には
更に痛いご指摘かと言わねばならない。

 もっとも、私のそのページへの実際のアクセスは、
全体の二割程度であることも事実ではあるが。

 いいわけにはならない。

 猥褻書画頒布行為は、それ自体人倫にもとる行為だろうか。
立派だとはとても言えないと思うけれど、それが一種の創作活動であれば、
そして世俗の利益に結びつく(この場合アクセスを増やす)
意図を目論まない限り、それは倫理に反するとは言えないのではないか。
むしろ芸術(言語、絵画技能)という技の修練への
意欲という倫理に参入することではないか。
 例えば、文化勲章を貰った
永井荷風(S27)のように、
一般に認められたことだといえるのではないか。
彼が上流階級の出で、外国に留学もした当時の大インテリだったから、
例外だということだろうか。
それはないだろう。彼の誉れは、長期間に亘る優れた文藝活動の技
に与えられたものに違いない。

 もちろん、荷風と、われわれのアダルトサイトを比較することなど、
とても出来ないことだけれど、根源的に異なっているものでもない
という気分を払拭出来ないのも確かだ。
そんな中途半端な気分が、私を最近不快にしている原因なのである。




13.すい子さーん
 とうとうみつけましたよぉーっ



のこんな趣味のルーツに山川惣治があることは
サイト内でもあちこちで書き、Webでもその名前を捜し続けていたのだけれど、
なかなか、古書関連以外には断片的なものしか見つけられなかった。
これは私にとってはひとつの謎だった。

なぜ、あの一世を風靡した大山川のサイトがないのか?
世はつとにコミック文化全盛の時代だというのに。
そのたて役者の一人である彼が、どうしてこうも簡単に忘れ去られてしまったのか?

ひょっとして、これには理由があるのか。

暗い日本戦後史の奥底で、
アンチ山川の巨大な陰謀が蠢動したのか?
あるとすれば、その猛悪な黒幕は何なのか。
魔神ウラーの亡霊なのか?それとも---。

しかし、昨日(6/16)、私はとうとう望んでいたものを見つけた!
しかもすこぶる良質の、山川惣治百科的研究サイトだった。
「山川惣治と絵物語の世界」
良質であるばかりではない。私が望んでいた以上のものが
そこにはあった。山川を中心とした、当時の
絢爛たる絵物語作家群の世界の見事な把握(懐かしかった)、
的確で卓見に満ち、緻密で理論的にも整然とした作品解説。
源流探索まである徹底した親切。
申し分のない量。
労作である。頭がさがる。

中でも膝を打ったのは、山川の文章の上手さに関することだった。
絵物語における文章の重要さは、思えば当然過ぎることだけれど、
これまで、こと山川に関しては論じられたことはなかったのではないか。
(もちろん私が断定するには余りにも勉強不足だけれど)
その卓絶した画力の評価に隠れて、見落とされていたのだろうか。
ともかく、絵と文章の絶妙のバランスが彼を第一人者にしたのだろう。
(その稀有の才能が後輩の追随を困難にしたこと。
世間の文章離れも絵物語の衰退を早めたのかもしれない。
もっとも、こんなところで安っぽく括ってはサイト氏に対し失礼であろう)

 多くの貴重なグラフィックスも、めっちゃ楽しい。
私はネット料金のメーターが上がるのも忘れて
この読み甲斐のあるテキスト群をしばし彷徨して倦まなかった。
また行こう。

しかし、この
優良サイトも、期間限定(6月一杯)であるという。なぜだ?
やはり陰謀の存在は幻影ではないのか。
これではリンクもたてられないではないか。ともかく、
早めにこの大部のテキスト群をダウンロードしておかなければ---。

注’04/6 カムバック 確認!


12.九州王朝は崩壊するか?


 
良県桜井市にある前方後円墳の勝山古墳から出土したヒノキ材を
年輪年代測定法で調べた結果、三世紀初めのものであることが分かった
と報道された(5/31読売新聞)。
弥生時代に対する、古墳時代の出現が
半世紀さかのぼる大発見だ、という。
これはいい。
 しかし、それに続けて、
「これで邪馬台国が、
いわゆるヤマト政権そのものである可能性が強まった」
と書かれてあったのが面白くない。

 なぜそんな飛躍ができるのか。

 よくあるジャーナリズムの軽薄、一つのニュースのバリューを高めるために、
更に別の色を強引に付加して世の耳目を惹きつけようという
意図が見え見えである。
首記のニュース性そのものについては否定しないけれど。

 ここでは時事評論はしないことにしているので、このくらいにしておく。
ともかく、古代女王国九州北部説は
松本清張の綿密な論文
「古代史疑」(S43.初版)で決まりというのが定説だし、
吉野ガ里の発見が駄目押しになったというのが一般である
(個人的な見解かもしれないが)。
 まあ、我々九州人としてはやむない感情だろう
(次第にトーンがさがって行く  (^^;;; )。

 それにしても、何をいまさら、といった気がしないでもない。
でも、学問は新発見が契機になって、進歩していくものだし、
気になったのでこれを書く前に一応、上記のもののほか、九州説
の幾つかを読んでみた。とりあえずはびくともしないようだが。

 ここで九州王朝擁護論陣を張るにはスペースが足りないのだが、
最もこちらが有利であるとされる
「三世紀前半に、畿内と北九州をカバー出来る
力を持った大勢力がいたはずはない(一大率の解釈をめぐって、
清張はこれに大陸勢力の派遣した機関ではないか、という卓見を出した。
畿内論者はこれを、後の大宰府官のようなものだろうとしていた。)」
というドグマにおいて、
今回の大古墳がかなり有効な反証になりうる点は、
(しぶしぶながらではあるが)認めねばなるまい。

 もちろん、今後も、いろいろ議論して戴く分には、
おおいにどうぞ、ということだ。


 年輪年代測定法
「ギャラリーフェイク」 細野不二彦
で教えられた記憶がある。
細野不二彦は多様な作品が描ける、力のある作家だ。
画風に色気がないのが、欠点といえば言えるけれど。
気になる作家の一人だった。
これを機会に「ギャラリー 」なぞまとめ読みしてみようか。


11.アダルト宣言 メルトもだった旧友への手紙

 
「メールを拝見した。相互リンクは遠慮したいという文面で、了解した。
予想されたことで、これは通過儀礼のようにも思っていたし、
新米のこちらから申し出るのが筋かと考えたまでで、
当方としてはどうでもいいことだった。
でも、多少余計なコメントがついてきたので
(まさか忠告の積もりではないだろうし)君のスタンスがはっきりしたことでは
無駄ではなかったように思う。
今後の対応におおいに参考にさせて貰う。

 それにしても、君が感情を荒立てるときは、大抵プライドを傷つけた
時が殆どだったし、今度もそうなのかと思ったりしているのだけれども、
心当たりはない。君も結構アクセスのヒット数にはこだわっていたから、
少しはリンクに前向きになってくれるかと思っていたのだけれど、
それが匂って、逆に障ったのかもしれないか、とも思ってみた。
でも、いつも思うのだけれど、プライドは君の専売ではないし、
私などにも少しはあるわけで、友人として許容できる幅はあるけれど、
それにも限度は当然ある。

 それにしても、やはり、よっぽど君は「アダルト」が嫌いなのか、とも
考えてみた。なぜか?いや、聞くまでもないだろう。
分かるような気がする。
 もちろん君の言う事は正しいのだろう。社会の主流(刑法など)は君に
味方しているし、これは理屈ではないというのも何となく理解できる
(倫理の問題?社会の安寧、人間関係?)。でも、
私が君を理解しようとしているように、
君の方でも私について少しなりとも深く突っ込んでくれるための、
(一応の努力を)して貰っていたかどうか、
少し疑問に思っていたことは事実だ。君は、
常に自分自身についての話題と関心で頭が一杯だった。
そんな印象だった。
とりたてて興味はなくとも、時には相手へ関心を寄せてみる、
多少の気配なりを示すのが
友人というものだろうけれど。

 言うまでもないことだけれど「アダルト」は、私の場合自然な、
そして必然以上の(やむにやまれぬ)表現形態なのだし、世に
様々な性格の人間がいて、様々な立場があって、多様な表現があるのは、
これは善悪以前のことだ。
それらの存在が必ずしも意図して(他人との関係で、受け狙いで)
そうなっているのではないことを理解して欲しい。それを知った上で
私を軽蔑して戴けるのなら、これに過ぎたる名誉はない。

 いわゆる、アダルトサイトをウェブで運営しているひとびと(私を含めて)は
おおむねマイノリティとしての気兼ねをしているし、
それは無用のことかもしれないとも思うのだけれど、
やはり、君のような自称「健全健康派」からの、
(いわれのない)非難や蔑視、攻撃などを恐れてそうしている、
小さくなっていることは事実だ。
反撃できる根拠はあるのだけれど、
おおむね彼等自身は(たとえ「鬼畜系」であれ)心やさしいひとびとだから、
争いは避け、黙って耐えているのだろう。
君達に心遣いというものがあるのなら、
彼等(私も含めて)のことを理解できなくても、
(そんな意識はないのだろうけれど)居丈高にならず、
少なくとも無視できるだけの度量が欲しい。

 ここで君と猥褻芸術論争を始めようとは思わない。
多分噛み合わないだろうと思う。
けれど、くどいかもしれないけれど、少なくも以下のことは言わせて欲しい。
「健康派」からのとんちんかんな干渉だけはやめて戴きたい。
出来るだけ静かにして、放っておいてもらいたい。

 
貴サイトの今後益々の発展を祈ってやまない。」

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