3)大いなる旅の友、メルヴィル

こんなな一人旅の通例として、私は今回も大きい本を携えてきた。大きいといっても内容が大きい(重い)という意味で、文庫本だけれど、ハーマン・メルヴィル「白鯨」田中西二郎訳新潮文庫版。最初の鯨づくし(鯨の語源百科)をかつての鯨王国下関あたりで読むのも単なる偶然か。
人間はさまざまな事物に名前を付けていった。それこそ何から何まで名前を付けていった。
名前を付ければそれでそのものを理解したような気分になったのだろう。人間が最初に鯨を見たときは、それこそ驚いたことだろう。世界最大の動物。人間は決して海のいきものではなかったから、それらを発見するのは(象、マンモスなんかよりも)かなりあとになってからではなかったろうか。マンモスが人間(穴居人)共の餌食となって死に絶えたのはもうほとんど定説だけれど、この海の巨獣が、やはり人間の餌食となって絶滅に瀕した歴史があったということは、人間というけだもの、生物種の、あるめちゃくちゃな、常識では捉えられない破天荒な一面、あるいは悪魔的な、ばけもののような存在をよく現しているとはいえないだろうか。なぜ人間はそれほどまでに、自身の生命をもいとわず破壊と破滅へつきすすむ精神の力(悪くいえば狂気)を帯びるのか。それほど人間は傲慢になれるのはなぜなのか。メルヴィルの「白鯨」、あるいはその創造物であり、主人公である「エイハブ船長」の生きざまに興味を持ったのが、私のこの小説に向かわせた動機だといえばいえるだろう。
ホエールの語源はスエーデン、およびデエニッシュ語の「丸い体、或いは水中に起伏翻転すること」から名づけられたとある。しかし、デエニッシュとは何語なのか。旅先で本を読むとこんなことが分からないまま読み進まねばならないつらさがある。

随分昔、NHKラジオに世界文学の朗読番組があって、この名作が読まれていたことがあった。朗読の声優(アナウンサーではなかった)がなにか苦味走った巻き舌めく不敵な男性の声、読みぶりで、私は最初の「ハーマン・メルヴィル(作?)、白鯨」という出だしを聞くのが愉しみだった。(もっとも、内容はまったく記憶にないけれど)あの声優、誰だったろうか?

この、読書の達人S・モームが世界十大小説のひとつに規定した長編小説も、随分以前に読もうと思って購入したまま書棚のかざりになって、なかなか果たせないでいた。結構長い(上下巻全135章とエピローグ)全巻(上下を持参した)をこの旅で全部読めなくても、読み続けられるきっかけだけでも得られれば良いと思う。
小説はまだその第一章にもならない。延々と文献抄が続く。著者はずいぶん図書館に篭って様々な鯨関係の本を読み漁ったのだろう。メルヴィルのこの作品に対する意気込みが感じられる。

「神、大いなる鯨をつくりたまへり」という聖書の言葉から始まる、様々な書中にあらわれた鯨についての著述。ずいぶんあるものだと感心する。昔はインターネットもPCもなかったから、これらを索引から見つけ出すのは至難のわざだったはずだ。メルヴィルの博学なことを素直に驚くべきだろう。それとも、この人々の日常生活に簡単に現れるはずもない海獣への人間のただならぬ関心の強さを思うべきなのだろうか。ハムレットにもあったらしい「ほんに鯨のやうな」。こんなところではハムレットを参照することはできないけれど、これは巨大な何物かを暗示しているのだろうか。

山陽本線を走る列車は既に「うべ」を過ぎた。向かい隣の席の西洋人美女二人はあまり気が合わないのか話がはずまない。そのうち窓際の方はニットのセーターを頭からかぶって眠ってしまった。正面のおっさんの厚顔無遠慮な視線をはじめ、周囲からじろじろ見られるのに辟易したのかもしれない。もっとも、天気がよくて直射日光を避ける意味もあるのかも、とも思える。ふと思いたって「携帯全国時刻表11月版」を出す。次の乗り換えの時刻を確かめる。新山口1035着。山口線あたりを繰っていると、あれ、1037津和野行き快速「SLやまぐち号」とあるではないか!。限定ながら運転日も合致している。どうしてこれに気がつかなかったのか。たった2分の乗り換え時間だから、無理かもしれないと思いつつやってきた車掌さんに聞いてみる。「2分…」(正確には3分以上だろう。当電車が駅を“発車する”時間から計算した2分がSLの新山口駅に存在する時間なのだ。)とちょっと絶句したあと、「乗れますよ、席が空いていたらね」と軽く言って去っていった。
なるほど、やまぐち号は全席指定である。

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