4)SL、津和野

山口線のSLが話題になったのはずいぶん昔のことだし、私も、まだ走っていたとは知らなかったというのが正直なところで、おそらくブームは昔のことで、当日走りこんでも席は空いているだろう、と勝手に決め込んでしまい、私は「白鯨」上巻を仕舞って乗り換えの準備を始めた。電車はやがて新山口に着いた。目的の列車は跨線橋を渡った改札口前の1番ホームだ。子供を抱いて走り始める家族もいて騒然たる雰囲気。私もつられて自分の体力を瀬踏みしつつ、階段を走って上がる。5,6両もの大正風ゴージャスな雰囲気の客車が並んでいる。ホームには見送りのひとびとだろうか、駅員、車掌、駅長らしきひともまじえ、何人も乗車口に立っていてなんとなく乗りにくい感じ。乗ってしまおうかとも思ったが、念のため駅員の一人に、乗っていいですか?と聞いてみる。とんでもない!といった目つきを眼鏡の奥に見て、やばいか、と思った。
「満員ですよ、乗れません。」

すぐ大層な汽笛の出発信号がホームいっぱいにとどろき渡った。そうだ、カメラ、カメラ。乗れないと決まったら、せめて写真にでも撮っておこう。また私はホームを先頭の機関車の方へ向かって走りだした。SLは新幹線のようにするすると走り出しはしない。まだまだ時間があるはずだ。しかし、小倉での「いそかぜ」の比ではないカメラファンの集団が私を待ち構えて、いやSLの出発を遅しと待ち構えていて、なかなか良いアングルを提供してくれない。一枚も満足なものが撮れないうちに、さすがのSLも痺れを切らすように動き出し、出て行ってしまった。
そのにぎやかなSLを追うようにして次発の快速デーゼル車山口行きが出て行ったのだけれど、私はここで活躍しすぎて、気が抜け、いささかぼんやりしていたので、それに乗り遅れてしまった。それで、結局当初の計画通り、1105新山口発で益田へ向かうことにした。私ががらんとしたそのデーゼル客車に席を占めたすぐあと、例の外人グループが乗り込んできた。あれ、またご一緒ですか。ひょっとすると、彼女らも益田へ人麻呂を探しにいくのか?粗末な英語だけれど、ちょっと話し掛けてみたい誘惑にかられた。しかし今回、彼女たちは別の車両へ移っていった。
しかし、新山口とは聞きなれぬ駅名だ。先刻から気にはなっていた。ここが新幹線のための新駅なのか?くらいの関心しかなかったのだけれど、列車が動き始めてようやくここが何者だったのかがわかった。小郡(おごおり)駅。ホームを出る間際に古くも新しい(ペンキを塗りなおした)その旧駅名標が目に入ったからだ。この山陽本線のローカル駅を意識することはこれまでなかったけれど、新幹線の小郡駅を通過することはしょっちゅうだった。その新幹線駅が新山口駅になったのだ。在来線の駅名も自動的にそうならざるを得なかったのだろう。これは町村合併や公共事業合理化が強力に、強引に推進されていく世の流れのひとつだろうか。県庁所在地である山口市と小郡町との格の差はかくれもないけれど、せっかくの既得権益である新幹線駅名を失い、その県都の一出張所、あるいは飛び地になりしまった小郡町民の無念さはわかるような気がした。

山口線を走るのは初めてなので、沿線の風景に目がいく。ずっと素朴な日本の秋の農村風景だ。それは湯田温泉から山口県の心臓部山口へ至るころもさほど変わらない。
山口市は確か、県では3番目以下の人口、県庁所在地としては全国でも小さめの都市だったはずだ。むしろ山陽本線の沿線のほうが現代的で工業地帯も集中しているように思う。やはり山口県の中心都市は下関なのか、とか思ってしまう。もちろん観光立地に山口は県都として率先して実力を発揮している。温泉もあるし、多くのねたがある。私も数度訪れた(車で)。そのこざっぱりした県都の駅を過ぎ、左の窓に長門峡の紅葉が広がった。車の堵列もずいぶん多かった。まだここは来ていない。初めて見る景色だった。中原中也の詩を思い出す。

列車は山あいに入っていった。山口県から島根への県境に近づく。トンネルに入るたびに窓を閉めてくださいとアナウンスがある。先行したSLがふりまいた煙が構内に立ち込めて、開いた窓から侵入するのだ。これは私が学生だった昔の汽車旅行ではおなじみの現象だった。窓を閉め遅れてえらい目にあった思い出もある。今のSLは煙突にフィルターなどつけて煙公害の対策などしているはずだけれど、やっぱり煙は多い。ま、煙を吐かないSLなんて、SLではない、という気分もあるのだろうけれど。

「白鯨」はようやく第一章に入り、小説らしい滑り出しを見せる。イシュメイルというアラブ的な名前の風来坊、商船に乗り組んだ経験のあるとりあえずの主人公が捕鯨船に乗ろうと決めてニューヨークから捕鯨船の母港であるナンタケットへ行こうとする。その途中での安宿探し、なにやら私の今の境遇と似ていないこともない。著者の饒舌に辟易しながらも、宿で同宿となったアフリカ土王国プリンス出身の銛打ちと仲良くなるところまで読んだ。13:01石州津和野着。新山口でたもとを別ったSLが機関を停めて居座っていた。彼女はここと旧おごおり駅の間を1日1往復することで役目をまっとうする身なのだ。再会を喜び、しっかりカメラに収める。しかし、SLの黒い巨体、鯨に見立てた著述がどこかになかっただろうか。


津和野で途中下車し、ちょっと駅前をぶらりと見回ってみようと思う。本当のところは昼食のためである。私は健康のためもあって三度の食事はできるだけ規則正しく摂ることにしているのだけれど、それがローカル列車に乗ってきたことで弁当も使いにくく、今まで我慢してきた。津和野では何が食べられるだろう。観光客が目に付くひなびた駅前あたりをしばらくぶらぶらし、さびた小料理屋「石見路」に入る。「つわぶき定食」¥
1100なるものをいただく。黒く丸い塗りのお重になって出てきた弁当風の定食は、つわぶき入り山菜料理ということだろう。ほんのりと色がつき暖かいたきこみまぜご飯がおいしかった。生ビールも入り、気分もよくそこを出て駅前へ戻る。テントにずらりと若い女性が並んで、観光客相手にパンフレッドなどを渡しているので、私も仲間入りさせていただき、アンケート用紙なんかをいただく羽目になった。
7ページにもわたる詳細なテストだ。こんなことに巻き込まれている時間はない。公衆電話で益田の観光協会を呼び出し、今夜の宿を手配する。駅前の養老の滝2階、「とらや」というビジネスホテルで、4990円だと。食事には便利かもしれない。また現金にも余裕が出た気分で、駅前の津和野観光協会内の写真ギャラリーを覗く。リアルタイムで緊迫した現代世界を捉えている町出身の報道写真家の個人展だった。現代韓国の時事報道写真の数々を撮るのはさぞかし苦労があったろうと思うけれど、観光協会の中で、金を払って鑑賞するにはちょっと違和感のある内容だった。
そこを出て向かい隣の豪農風な庄屋蔵大建築めく安野光雅美術館に入る。氏は最晩年の司馬遼太郎の挿絵、特に前任者の死去に伴うライフワーク「街道を行く」の挿絵でわたしたちにはなじみとなった。なぜか宗教的な細密画を思わせるその画風は幅広く美しく、ポピュラーな楽しさもあるけれど、本質的に氏は真面目な性格なのだろう。スペイン旅行の沢山な作品に私はいささか食傷した。そこを出て、この町に寄った最大の目的である北斎美術館を探す。目抜き通りなのだろうけれど一般の生活があり、しもた屋も多い。こういったさりげない町を歩くのも楽しいものだ。しかし北斎はなかなか見つからなかった。辻を間違えて行き過ぎていたようだ。ほとんど駅前まで戻って探しなおし、見つけた。瀟洒なこじんまりとした町並みの中の小美術館。肉筆画、弟子の作品も含まれた版画などを見た。2階は写真展示が多かった。収蔵品をあちこちに貸し出しているらしいけれど、貸し出しすぎて展示品が品薄になっているのでは、とものたりなくも思った。北斎は贋作の多い作家だというけれど、彼自身長く生きたということもあり、作品は膨大な数に上っているはずだ。せめてこんな観光シーズンには穴をあけずにわたしたちを実力で堪能させてほしいものだ。

駅に戻ると既に復路へ旅発つべくスタン・バイを完了したやまぐち号がもうもうたる煙をあげていた。ラッキーだ。私はこの旅で現役SLと三度目の出会いを果たしたような気になった。
彼女の出立を見送ってから、私は益田行きに乗った。
1506発、益田15:44着。

文頭へ戻る

(5)益田、人丸終焉の地 へ進む

人丸に関しての旅 目次へ戻る

メニュウページへ戻る