(4)青森・恐山・みちのくのおく

 

  青森駅は実用本意の小さな駅だ。街もこざっぱりした近代都市といった感じ。結構活気が感じられる。ここに一泊しようと思う。既に郡山から予約を入れておいたセントラルホテル青森を捜す。ホテルは港の方を向いていて、通用口から入り、ロビーの横へ出た。予約がうまく取れているかどうか、緊張の時。何のこともなく、部屋にバックパックを置いて、まだ十分明るい青森の街へ繰り出す。港の方には何の象徴か巨大な板状ピラミッドビルのアスバム、観光物産館がそびえたっており、金はいらないようだったので入ってみる。観光客はあまり見かけなくて、いかにも近所の、PTAかなにかのおばさんたちというようなひとびとが、近々に館内で開かれる展示会の準備のお手伝いをしているといった風景がそこここに見られた。もちろん青森の物産が並べられた一角もあった。ひまな老人がゆったりと座って、ビデオの津軽海峡トンネルの説明の放映を見詰めていた。上階に展望台があるようだったが、お金を取られそうだったのでやめた。一階に“産直グルメプレゼント、290名様に当る、青函スタンプラリー?というちらしを見つけた。函館近辺も含めた観光の拠点指定場所に置いてあるスタンプを五個集めたら、一等は¥10K相当の食材が贈られるというもので、これこそ私のための催しであるとも思えるふしがあった。さっそく一個目のスタンプを押したあと街へ出る。

  ほぼ、駅前の一キロ四方が青森の繁華街と言えるようで、そのあたり、大きな市場が集まった一角を含めてゆっくりと歩きまわる。リンゴ専門の店が軒を並べるのも青森ならでは。繁華街と歓楽街。ショッピング街、ネオン街とい言い替えてもいいのだろうが、今は若者向きの服飾、身の回り品、ゲーセン、ファーストフード店などのかたまった、しゃれた一角が活気のある街づくりに貢献しているようだ。さいはての街とはいえ、当然ながら、三十万に迫る県庁所在地であり、若者たちも沢山いて街は華やいでいる。もっとも、その規模は大きくない。ひとまわりするのに一時間ばかり、私の勘はあまり外れてはいないと思う。タウン地図を見れば、市街はその数倍の規模で広がっているのだけれど、いわゆる繁華街はその中の一部に過ぎないのが通例なのだ。それとも、ずっと離れて、別の歓楽街があるのだろうか。私が捜していたのは、永六輔が紹介した“青森日江劇場?ストリップ小屋である。もっとも、三十年近い昔の話だから、既に歴史の中に埋没しているかもしれない。捜し当てたのは“デラックス青森?のぎらぎらした照明付き看板の残骸で、これがストリップ劇場のものだったことは明らかだけれど、もう光らなくなって何年にもなるような廃墟の看板だった。これは“青森日江劇場?の後身らしい。後日聞いたタクシーの運転手さんの話がそれを裏付けた。青森にはストリップはないということ。

  午後六時を過ぎるともう薄暗くなってくる。九州と比べて経度で十度違うので、日の入りは四十分早く、暗くなるのが早いわけだ。もっとも、日の出は逆にその割で早くなるはずだが、緯度も8度ほど高いから、日の出ている時間そのものが少ないということはあるだろう。どれほど少ないかは分からない。理科年表でも見ればわかるのかもしれない。

  例によって夕食が決まらず、暗くなった市街をさまよう。一見しもたやのような、小さな店に郷土料理と書いてある。誰も中にはいない。しゅんしゅんと大きな鍋がガスコンロの上で湯気を出している。引き戸を開けてのぞくけれど、人気がない。清酒のポスターなどが貼ってあり、二卓ほどのテーブルがある。余り高くなさそうなのが気にいって、本格的に入り込んでよばわった。五十年配の上品なおばさんが出てきて、何でしょうかと聞く。何でしょうかもない。何が出来るのか、と聞くと余り商売気がなさそうに、宴会が二階であるのでその準備中だという。何か食べさせて欲しい。どれほどの予算なのか、五百円位なのか、その位ならお断りしたいと言いそうな顔だった。酒が飲みたい。酒付きで二千円までならいいがと精一杯の見栄を張った希望をいうと、どうぞという。こんな交渉は初めてだった。なにしろメニュウもお品書きの張り紙も、なにもない。しばらく待って焼き魚の厚い切り身がしょうがと一緒に出て、酒は地酒の“爛漫?だと言った。これは九州でも聞く名前だ。それとも各地にある別々の銘柄なのだろうか。二合とっくりで、おいしい酒だった。そのあとほたて、ほや、まぐろのさしみなどが出て、飯は椎茸に小魚で味付けした“かまめし?のようなものだった。お吸い物がついて二千円は高くはなかった。ホテルへ戻って、翌日の作戦を練りつつ寝る。

 

  十月十四日、朝食をホテルに頼んで置いた。大抵割高になるし、いつもはぶらりと外へ散歩に出て、モーニングサービスを早起きの喫茶店で取るのが流儀だったのだけれど、こういった地方都市ではそんな早起き喫茶店が見つけられない危惧もあったし、やはりものぐさになって、朝がゆっくり出来る利点から、ついホテルで執ることにしてしまった。¥千也は朝食としては、高い。それでもバイキング方式で、和食洋食食べ放題はホテルとしても余り儲からないのではないか。私はそれほど貪ぼる方ではないけれど、中年の女性など、何度もおかわりしている。昼飯を抜く気なのかと勘繰ってしまう。それにしても、二十数年前の木賃宿などに比べて(質、量ともに)夕食のボリュウムすら越えていることは間違いない。あのころのビジネス旅館の朝飯は、まさしく一汁一菜だった。それに卵か、のりがついていれば上のほうだったと記憶する。日本は豊かになったのだ。

  今日は下北半島探検と決めた。九時四十分青森発快速しもきた。少しホテルを早く出て例のスタンプラリーの青森駅判を押したり、改札の前でうろうろしていた。早朝から雨がぱらついて、忘れてきた傘を¥千也で買ったのだけれど、すぐ晴れて、無駄な買い物をしたような気分になっている。ホームへ出ると快速はディーゼル車一両だけで、しかもジャージー姿の女子中学生の団体もいて、既に満員だった。さいはてのローカル線だと思って油断したのが、立ったまま一時間半過ごさねばならないのか。こんなはずではなかった。早く駅に来たのだから、もっと早くホームへ出れば良かった。この快速は昨日通った東北本線を逆走して、野辺地から下北半島を走る大湊線へ直接乗り込む。今日は土曜日で、学校は休みのはずだ。運動部が休みを利用して対外試合をやりに行くような雰囲気だ。本州最北の駅である下北まで彼女たちが同乗することはないだろうと楽観しつつ吊り革につかまり、窓辺の景色を眺めて慰める。車内の中学生は随分礼儀正しい。中にはテレビに現れても遜色ない可愛い子も、少し磨けばなかなかのものになりそうな子もちらほらいる。秋田は美人の産地だという。私も秋田地方を何日か歩き回った経験から、それを実感した一人だけれど、青森もこうしてみると悪くはないように思う。もっとも、今のところびっくりするような美人には出食わさないけれど、地理的に言って秋田に準ずるはずだと思うのだが、どうだろうか。何にせよ、下世話な話になるのは避けられないし、突っ込んだことを言う知識も資料もないけれど、美人不美人の差はともかくも、地域で顔の造作の偏差があることは確かだろう。日本人と北欧の大きな体躯の人々とは、まさしく一目で判別出来る。しかし、世界的にいっても、民族という概念は学術的(生物学的?)には意味がないという。各民族間の外観の差は個々の民族内の偏差よりもよほど小さい、というのがその理由らしい。それほどに人間同士の混血は進んでいる(逆に別れてから余り経っていないということかも)わけで、それは日本という狭い国土の中の人びとにもすんなりと言えることではあるけれど、やはり、我々は秋田美人、津軽美人の存在を信じたい気分がどこかにあることは確かだ。

  野辺地から東北本線と別れ、ワンマンカーになって陸奥湾を左に見ながら下北半島を北上する。日が降り注ぎ明るい海は北の海の印象はなく、大きな湖のような感じだ。松の多い海岸は夏にはいい海水浴場になりそうなきれいな砂浜が多い。陸奥横浜というバンガロー風の寂しい駅にとまる。かの大都市、横浜との余りの格差を考えてしまう。

  JRでは同名の駅を避けるために、二番手以降は東西南北、新、上下などの他、その地域の古名を頭につけることも多い。もっとも、JRでなくとも、市制をひくと同時に、自主的にそうして引き下がった自治体は多いようだ。例えば大和郡山とか、会津若松とか。しかし、この場合、本家の若松はとっくに市でなくなり、北九州市の区の一つに格下げになっているし、人口ではともかく、会津若松市は(腐っても鯛)威張って頭上のイニシャルを返上していいのではないか。

  下北駅は本州のJRの駅では最北にあたるという。それを示す立派な碑に見とれて駅を降り、今の便に連絡しているはずの下北交通の大畑線を捜すが、駅前には何もない。確か余り時間の余裕はなかったはずだ。焦って窓口の駅員に聞くと、今降りてきたホームを指さす。ホームの反対側に、乗ってきた車両と良く似た電車風のディゼルカーがとまっている。

  JR最北の駅から更に北へ、この路線は下北半島を横断して津軽海峡沿いの大畑まで行くが、私は路線のほんのとば口、恐山の登山バスの出る田名部で降りる。このあたりがむつ市の中心、都市部であるらしい。ここにある観光物産館に例のスタンプラリーの印が置いてあることになっている。しかし、駅のそばにつけたバスは、すぐにでも出発しそうな雰囲気だったし、戻りにでも、と諦めた。バスには二十人ほど、みな中年、老年以上のおばさん連中がほとんどだ。むつ市の町なみをすぐ抜けて、深い山へ入った。ひばの自然林では全国でも有数という山間を三十分以上走る。その間全く人家がない。私たちは秘境下北半島のまさかりのほぼ中央にある火山湖宇曽利のほとり、恐山菩提寺へ向かうのだ。途中で三杯呑めば死ぬまで寿命が伸びるという名水の流れる場所でとまり、水を呑む。美味しい水だった。

 

  恐山が日本三大霊場のひとつ(他は比叡山、高野山、いずれも近畿地方)というのはここで知ったのだけれど、例えば比叡山でそう喧伝されているかどうか。余り過大に取らないほうがよいのだろうけれど、恐山はそんな先入観もなく私にとって特別な、魅力のある場所だった。寺山修司の作ったイメージが強過ぎたのだろう。彼の作ったモノクロの前衛映画、荒涼たる岩だらけの野を大きな時計を抱えて老婆が走る場面は、彼の不思議な詩の世界をそのまま情景にしたものだった。その詩集「田園に死す」を私はいつ読んだのだろう。いや、フォーレディスと表題のついたピンクの表紙の甘い詩集「ひとりぼっちのあなたに」が先だったのだろうか。いずれにしても、この早熟の天才で既に大家となっていた作家が、社会に出てすぐの私とたった十しか違わないことを知った時の驚きと羨望を今でも思い出すことができる。美しい女優の妻を持ち、しかもなお若くて美男子だった。一生懸命彼の歌や俳句を覚えようとしたあのころ。寺山が死んでからもう十七、八年たっているから、私は彼よりもよほど長生きしているのだろう。おめおめと。

  何にせよ私が青森に降りたのはこの地が寺山の故郷だということが大きい。彼の二面性のうち、青森はその甘美な面、そして恐山はそのどろどろした、暗く異様な面。そんなきめつけをしていたわけで、だから、やはり恐山は見ておきたかった。出来れば死者を呼び寄せる能力を持つとされるイタコの姿も見たかった。

  しかし、正午すぎに着いた恐山は、明るく、さほどどろどろしていなかった。境内正面に並ぶみかげ石の巨大な地蔵尊像がことさらに人工的な神秘性を押しつけようとしているけれど、周囲を山に囲まれた閉塞感は、そばに広がる湖の解放感で帳消しになり、むしろすっきりした境内に大きな樹木が全くないだけ、あっけらかんとした明るさがあった。地獄谷といわれる有名な一帯には奇岩が並んでいたけれど、それらには寺山の難解さも、おどろしさも何も感じなかった。ただ、終始あたりを漂っている亜硫酸ガスの臭いが恐山の名の所以をかすかにではあるが示唆しているようだった。おい、ガスには気をつけろよ。うっかりすると、巻き込まれて窒息死するぞ。その意味での恐山だったのだろうか。湖(宇曽利湖)は酸性が強く、わずかな種類の魚しか住まず、それも絶滅しかかっているらしい。生命の息吹きに乏しいこの静かな一帯は、確かに、深い森林を分けて、ここを初めて訪れたひとびとを驚かせただけの異様なものがあることは確かだ。この眺めに彼等が神秘を感じ、霊場としたのは理解出来る。死者の魂が集う場所という連想もうなずけないことはない。ただ、それは無機質になり終った死者たちの、ただの風の音だけが呼び合う場所なのだろう。寺山の魂はまだ生臭いはずだし、少なくもここにはいないようだった。

  本堂の右手奥、温泉ありますとの標識にひかれて何もない赤土むきだしの谷間へ入っていくと、粗末な小屋がぽつんと目についた。窓が半分開いて、手ぬぐいを被った無精ひげの三十男が顔を出している。多分湯浴客で、ほてった顔を外に出して冷ましているのだ。「ここは、只なんですかあ。」

と聞いてみたら、にこっと笑ってうなずいた。ひとの良さそうな中年だった。入口に混浴と手書きで表示がある。もちろん何も期待していない。たてつけの悪い引き戸を開けて中を覗くと、足の悪い老人と、それを介護する老嬢、別にどうでもいいけれど、彼女は服を着たままだった。そして窓から覗いていた三十五、六見当の男。さっそく服を脱いで湯船に浸かる。熱くも、ぬるくもない湯船は三つに分かれて、それぞれ一坪ほどの広さだった。三十男が話しかけてきた。近くに住む夜間高校の教師で、東京の大学時代に、九州の人間たちと出会い、多くの友人を作った。九州人とは気が合う、という。当人は札幌の出で、むつに住んで余り長くない。どちらかと云えば文科の人間のようで、大学でサンテクジュペリの「星の王子さま」をテキストにフランス語をやったのが面白かったなどと、鄙びた湯の雰囲気とはそぐわない話題を持ち出す。良く喋るのは、やはり教師の気質からだろう。いろんな話題が出たけれど、後から思えば、青森県にはアイヌの地名が幾つもある、というのをもっと突っ込んで喋らせれば良かった。私は戻るバスの時間が気になって、湯船から出ようとしていた。男も一緒にあがり、私が来たのとは逆の方角へ、自転車で来たから、といってひょうひょうと去っていった。入山料の五百円を払わずにここヘ来れる間道があるのだろう。それにしても、ここから十キロの範囲に人家はないはずだし、では彼はむつの市街からバスで四十分かかる急峻な山間の道を一人、自力でやって来たのだ。なるほど筋肉質のいい身体をしていた。

  午後二時のバスで田名部へ戻る。来たときの同じおばさんグループと一緒だった。田名部に三十五分着。次の下北戻りの便は十五時十四分。かなり時間があるので、出た時に押せなかったスタンプラリーの三つ目を近くのむつ市物産館へ入って済ます。ついでに二階を覗くとレストランがあって、生ビールが美味しそうだったのでつい注文してしまう。付けだしに出たもずくの上にいくらを載せたのがなかなかいけた。きれいなレストランだったが、他に二人、ひと組女性客がいるだけで、ウェイトレスの若い女性も暇そうだった。下北十五時二十分着、同三十九分で連絡発、野辺地に十六時三十八分着、すぐ青森への連絡が二分後に出て、もう薄暮の青森に十七時三十一分着。しばらく繁華街を散策し、朝、もう一泊をと頼んでいた同じホテルにバックパックを放り込み、晩飯の店を捜す。たいした予算はないけれどもう二度と来れない(多分、そうだろう)遠くまで来たのだから、せめてその土地の特色のものを食べてみたい。旅の情報誌には大抵一流の店ばかりが紹介されていて、探す気にもなれないけれど、青森は小さい店にも“郷土料理?と出ていることが多くて、多少安心して入れる。そんな半軒間口の薄暗い店に入る。魚料理しか出来ませんよ、と念を押してくる。さんまの焼いたものに大根おろし、それに定番のほたてが出てなめこしめじのこばち。ダブルの酒は予想していなかったけれど、美味しかった。店に貼ってあったポスターからねぶたの話になった。今の電飾より、昔のロウソクで明かりを取った頃が情緒もあって良かった。ろうそくが中で燃え尽きて暗くなれば、その夜の祭りは終わったという。今はバッテリーで光っているのだろうけれど、ロウソクよりは寿命があるようで終夜消えず、明るくて賑やかにもなったけれど、コマーシャルペースになって味気がない。余りに人出が多すぎる。町の人だけで楽しんだ頃に戻ったほうが良いと。それにしても、あの巨大で立派なねぶたが、一年ごとに作り代えられるのだとは驚いた。なるほど大きいことは確かだけれど、結局、構造は、はりぼての灯篭のようなものだし、博多の祭りの飾り山傘も毎年新しいものが作られる。祭りというのはどこのものでも壮大な無駄事なので、だからこそはかなさの美があり、感情の陶酔も、爆発もあるのだろう。

 

  十月十五日、昨日はパン食だったので、今朝は和食バイキングにする。いつものペースを守ろうと、出来るだけ少食で済ます。しかし、コーヒーだけは飲みたい。九時少し前にチェックアウト。今日は昼まで青森市内の気になる公共施設を回り、函館へ移動する予定。大抵、大きな町に来たら、その地のルーツである城蹟、あれば美術館などを見ることにしているというのは平凡な、無難な選択なのだろう。青森観光などというあちこち効率よく回るバスもあるし、観光タクシーというものも一般だけれど、こちらは時間が半端だし、別に行って欲しくもない場所、例えば物産館などみやげもの屋に長時間寄るというのも彼等にはありがちで、金もないし、やはり足と公共交通機関で回ることにする。沢山回れなくても、見たい場所をじっくりと腰を据えて見られる利点はある。有名な三内丸山遺跡も見たかったけれど、城跡なんかよりも更に我々素人には面白くないのが日本の古代遺跡であり、かなり市内から離れてもいたので、パスする。

  駅前のバス停から最初に向かったのが市文化会館近くにある(はずだった)棟方志功記念館。ともかくそこで降りたけれど、地図を見るとまだかなり南へ行かねばならない。平和公園を右に見て、一キロほど歩き、記念館の標識を発見する。小じんまりした日本庭園の奥に校倉づくりを摸したという建物がひっそりとあった。九時三十分開館とあって、ぴったりその時間に着いた幸運を喜ぶ。

 

  どこだったかの週間誌の末尾に、ある芥川賞作家が各国の著名な美術館(の名画)を訪ねてその感想などを書き綴っている。その連載を時々覗くことがあって、羨ましい気がしていた。この美術館というものを考え出してくれた先賢に感謝しているというようなことが書いてあって、ともかく、私は彼がわくわくしながら名画を眺める態度に共感を覚えたわけで、彼の小説を読む機会はなかったし、今後もないだろうけれど、この連載が本にまとまったら(大抵彼等は連載ものを単行本にする)、多分、私は買うだろうと思うけれど、名画も一緒についた豪華本で、非常に高価なものだったら、買えない。ずっと後年、古書店で半額以下になったら、その時は買うかもしれないけれど。

  高校生の頃、棟方志功のインタビューで、その天衣無縫ぶりをもてあましていたNHKTVのアナウンサーを思い出す。その作品は即興的で、稚拙な感じすらする極限までデフォルメされた人物像や花、模様は原始的な強さというのか、縄文的な明るさ、痛快さが魅力なのだと思う。そんな分析もこの刷り絵一枚が最初は¥二千だったのがバブル期には¥七百万也に跳ね上がった現象を説明することは出来ない。今は落ち着いて、¥百五十万ほどだという(室伏哲郎「入門、美術コレクション」宝島新書)、有名な釈迦十大弟子が主な展示だった。これは、確か、倉敷の大原美術館かどこかで見た記憶がある。版画だから、油絵などと違って複数が世に出ているということだろう。板が残っているはずだから弟子か家族がそれでばんばん刷って出せばいいのにと思うが、そんな単純なものでもないのだろう。訪れるひとが少ないのを幸い、ゆっくりと場内の雰囲気を楽しみつつ、いろんな想像、妄想に耽る、美術館での楽しみ。贅沢な時間の浪費。

  次に訪れようとする県近代文学館は、直線距離で三キロ以上、かなり離れていて、時間もないし、これはタクシーでも奮発しようかと思い立つ。記念館の出口に停まっていたので、頼んで行ってもらう。タクシーは余り趣味に合わないし、金もかかるので、これまで数えるほどしか利用していない。恐らく会社の業務で仕方なく使ったのと、仲間と相乗りしたことを除けば、この半生でシングルに収まるのではないか。パチンコ屋に入った回数といい勝負だ。もちろん、先年の単身赴任の時は一度も乗らなかった。車は東北本線を越えて郊外へ、ご他聞に漏れず間延びして広がる青森市街を走る。礼儀正しい方形の大きなビルが高架道路の向こうに見えて、階下の図書館と併設されていると運転手が説明してくれた。あいにく一万円札しかなく、おつりがないというので、有り金全部¥千二百也を出し、二割ほど運賃をまけてもらった。つれずれ草にいわく、いい人間は、ものくるる友、まけてくれる運転手。

  よく施設の整った都会地の図書館も、時間を潰すのには(パチンコなんかよりコストパフォーマンスの点でも)なかなか良好な場所だけれど、今回は横目で眺めつつ二階の文学館へ上がる。無料なのが嬉しい。最初に明治以後の青森出身の文学者群像の概括がビデオで見られるコーナー。メモをしなかったけれど、随分沢山の文学者を輩出していることに驚く。次の間、この文学館のメインの特別展示は三浦哲郎だった。文学活動三十周年とかいうことだ。私も、彼が芥川賞を取った「忍ぶ川」は読んだ。主人公の恋妻との初夜で握った彼女の乳房が大きくて手のひらに余ったという一節が記憶に残っている。しかしそのあと(「夕雨子」とか、多少の接触はあったけれど)随分御無沙汰していて、こうして思いも掛けず、青森県の代表作家になって、数々の文学賞に輝いて、大家になった彼と再会すると、随分時代が動いたんだなぁ(諸行無常)という感慨が浮かぶ。でも、私のお目当てはやはり大宰治であり、寺山修司だった。通俗的に過ぎると笑われるかもしれないけれど、彼等は私の青春を彩った、忘れられないスターたちだった。大宰を面白く読み始めたのは十年ほど前で、つまり遅く来た青春というやつだろう。彼の生家の地へはとても行けないけれど、せめて、ここで彼の遺品か、自筆原稿でも見て再会した気分になりたかったし、それは果たされた。大宰の字はやはり神経質な、訂正の多い原稿だった。寺山の原稿も見た。専用の大きなマス目に丁寧な鉛筆書きで、几帳面に書かれた文章「奴婢訓」は、訂正や書き加えの跡などがまったく見られなかった。天才の所以か?。故郷で寺山と短歌を競って作った友人が青春時代回想のビデオで云っていた。彼は周囲をあっと云わせるようないい回しや言葉を使うこつを知っていた。確かにそうだ。私は寺山のそんな、高校時代に書いた多くの短歌に驚いた。何事であれ、そういった“こつ?を知って、実践出来る少数の人間を天才というのだろう。その希少さゆえに。私はここで、病いを得て大学生活を中断したどん底の寺山の才能を見いだし、舞台に押し上げる大きな力になった人間が、谷川俊太郎だったということを知った。ずっと死ぬまで身近な友人だったということも。出会いがそのひとの人生を作るというのは本当なのだろう。類は類を呼ぶというが、出会いは才能と関係があるのだろうか。理想的な静かな場所で、私はしばらくいい気分でいた。こんな不便な、他に何もない、ごく日常的な場所に来る観光客は、都合がいいことに、余りいない。当然ながら、私がいる間は学生風の若者と、もう一人、妙齢の美人(若妻?)がコーナーを覗いただけだった。

  館のフロアにある暇なパーラーでコーヒーを飲み、近くのバス停と青森駅行きの時間を教えてもらって出た。二十分ほど待ったあと、客のいない、軽そうなバスが来た。駅に戻り、今夜の宿をまっぷる函館から選んで電話を掛ける。うまく駅前の安い宿が取れた。今度乗る津軽海峡線の快速十四時零七分を確認して、駅の食堂で少し遅い昼食を取る。アサヒの生ジョッキにマグロ丼¥七百也は結構いけた。

  まだ時間があるので、かつての青函連絡船八甲田丸の繋留されているベイエリアへ散歩する。はるかな頭上、港の突堤へ突き出た駅の構内をもひとまたぎにして、巨大なアブストラクトのような斜張橋、青森ベイブリッジが横切っている。以前は駅構内が海へ延びた先に船が停泊したのだろう。そのレイアウトから見て、青森駅はもともと、この青函連絡船の港につけたしで置かれたような駅だったのだ。東北本線も、奥羽本線も、この松葉のつけねのような駅(港)へ東西から収斂してくるようになっている。お互いの本線へ続いて運行する列車は、このために機関車を前後つけかえて、向きを反対にして再出発することになる。連絡航路がなくなった今、青森駅は形としてターミナル(終着)駅になったのだろうけれど、果たして真の意味で、その重責を今後ずっと担い切れるのかどうか。八甲田丸の上り口のタラップあたりに長方形の黒い石碑が建っていて、人が正面に近付くと突然、石川さゆりの「津軽海峡冬景色」が流れ出すしくみになっている。私は近付かなかったが観光客が多く、彼女は何度も、何度も繰り返して唄わされている。昼下がりの陽ざしは暖かだったけれど、少し気分的にうそ寒い感じがしないでもなかった。

 

  昨日の失敗に懲りて、私は早目に海峡線のホームへあがった。ちょうど当の列車の改札がアナウンスされていた。客寄せのイベント列車なのだろう。車体に大きなどらえもんの絵がべたべたと書かれた超派手な列車だった。見る車両全部が指定席になっていて、あわてた。車掌に聞いても、さあ、毎日変わりますので、と要領を得ない。十二両の長い列車の横を二度往復して、ようやく自由席を見つける。例の超派手な列車で、乗り込むのが気恥ずかしい。中も沢山の吊り下げはどらえもん一色だった。もっとも、車両には家族連れは少なく、おじんおばんが主流だった。しかし、カーペットが敷かれた「お座敷列車」も繋がれてあったから、子供連れも沢山乗ってくるのだろう。しかし私は毒気を抜かれたようで、ビールなどを買い込む気も起こらないままに列車は出発した。

  いずれ、この津軽海峡線は新幹線が走るようになるのだろう。しかし、今その計画はない。まるきりローカルな左右の寒村の景色を見ながら行く内に、青森湾の海が近くに寄ってきた。列車は蟹田で止まり、ここでJR東日本がJR北海道の担当に交替する、とのアナウンスがある。そんなことは、我々乗客にはどうでもいいことで、早くトンネルへやってくれ、という気分になる。大宰治の故郷金木村(今は金木町)へはここで降りるのだろう。その内、陽が陰り、雨が降ってきた。これから九つの陸上トンネルを経て、青函トンネルへ入ります、というアナウンスがあった。このイベントは、どらえもん生誕三十周年を記念したイベント列車です、ともいった。あれ、三十周年は三浦哲郎ではなかったのか。私は三十五年勤続の社内褒賞休暇でここにいるのだが。

  雨に濡れた津軽半島から地下へ潜り、いよいよゾーン五三九、つまり青函トンネルへちょうど十五時に突入する。途中で竜飛海底駅、吉岡海底駅の二駅に停まり、そこを見学したひとを収容し、また見学する人を降ろして行くとのことだった。もちろん、二つの駅はその真上、地上の竜飛崎などへも行ける(エレベーターがある?)はずなので、そこを観光するひとも降りるのだろう、乗せるのだろうと思ったら、時刻表の末尾にそれは出来ませぬ、とあり、しかもそこで途中下車する(トンネル内を見る)だけに¥840也の別料金がいるのだという。この列車の指定席はそのためのものらしい。そんな、閉所恐怖症のひとには極限的な場所へ、ワザワザ大金を出して入っていくひとが沢山いるのだろうか。

  何にせよ、二つの駅に結構長く停車し、地下二百四十メートルという想像を絶する大深度を経験した(らしい)あと、十五時五十分過ぎにようやく列車は相変わらず暗い北海道の空の下へ出る。その間約五十分!。長い地下生活だった。この世界最長のトンネルを二十四年間掛けて掘り抜いたひとびとの努力には頭がさがるし、申し訳ないけれど、やはり、トンネルは橋などに比べて、利用するひとにとっては余りに魅力に乏しい施設だと思う。連絡船などに比べてさえ、それは言えるのではないか。もちろん、トンネルをやめて、連絡船を復旧させろと主張するものではないけれど、やはりここは早く新幹線を引いてもらって、二百五十キロで突っ走ってもらい、十二、三分で、乗客が意識しない内に通り過ぎるようにしてほしい。作ったひとにしてみれば、利用者連には歩いてくぐってほしいくらいの気分であるのは理解出来るけれど。

  列車は木古内から津軽海峡をすぐそばに見て一路、海岸線に沿い、函館へひたはしる。雨のせいもあるのだろうが、見るからに寒そうな風景が続く。黄色くなった木々が目立つ。もっとも、植物相に本州との明らかな差はブラキストンさんの云う通り感じられない。しかし、青函トンネルの工事中にも、熊(もちろんヒグマだろう)がよく現れてくま(困)ったという。北海道を旅するにはこのように、非業の死の危険をも覚悟せねばならないのだ。

  函館湾岸に入って、市街地になる。箱型の比較的新しいプレハブ風住宅が殆どで、しかも暖炉でもあるのか皆作り付けの角柱の煙突がついている。ない住宅も太目のブリキ巻きの煙突が必ず壁から突出して、冬季の寒さに対処している様子で、内地では見かけなかった風景だ。しかし、この風景も司馬遼太郎によればほんの二、三十年にもならない近年になされた住宅革命(暖房革命)の結果だという。函館の一流の旅館にあって、お粗末な暖房で厳冬の夜を震えて過ごさねばならなかったことが彼の昭和四十一年冬の実地体験で語られている(街道をゆく十五巻・北海道の諸道)。そんな昔のことではない。一般の民家の状況がそれで想像出来るということだ。洋風のホテルが全国に建ち始めたのがそのころで、その一律な“冷暖房完備?の住宅様式に合わせて“北海道の暖房?も合理的なものにようやくたどりついたというのだけれど、それまで、道民もよくぞ辛抱し続けたものだと感心する。それとも、日本人一般の、合理性をひたすら排除しつつ横並びの反美学に固執し続ける、馬鹿げた特性に呆れるべきなのか。これなどは、私自身の日々の実体験とも重なって、さもあろうとうなずけるけれど、まあ、そんなことはどうでもいい。旅は日常から脱却することなのだ。十六時五十二分函館駅着。
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