(5)函館・のねずみのことなど

 

  函館駅。華やかな観光駅の面影のまったくない駅前に降り、予約しておいたホテルを捜す。唐突に若いカップルの自転車二人乗りに出食わす。地元の男女なのだろう。後ろにしがみついた女の、トランクス全部をラフにちぎったような薄い超ショートパンツから剥き出た綺麗な太腿が目に痛かった。この街は幸先がいい、と私は思った。

  ホテルを捜しあて、バッグを部屋に置いて街に出る。さっきの男女と再会を果たしたかったが、外は既に薄暮から夜へ移行しつつあり、街が輝き出していた。駅前のバスターミナルから函館山夜の観光のバスが、まさに出発するところだった。乗ろうか、と一瞬迷ったが、バスはそのうちドアを締めて出ていった。では電車にしよう。駅前の電車道へ出て元町方面で待つ。若い女性の二人組がやってきて、乗車券はどこで買いますか?と尋く。どうも日本人ではないようだ。私はここの人間ではないが、券は電車に乗ってから、中で買えばいいのでしょうと答えてやる。理解したようだった。やがて電車が来て、乗り口の整理券を取らずに乗った二人に注意を喚起する間に自分の分も取り損なった。馬鹿。

  前面の料金表を説明しようとしてなかなか通じない。何処へ?と尋いても要領を得ない。そのうち十字路の停留所にきて、電車は私自身の目的だった元町方面でなく、左へカーブして宝来町方向へ進んで行く。二人はそれを知って、乗っていたようだ。対照的に慌てる私。馬鹿、ばかっ!

  宝来町で引き返すために降りた私と一緒に二人も降りて、違う方向へ去っていく。手を振って別れの挨拶を交わしたのが多少の慰めになった。可愛いひとたちだったが、何者?。韓国人か?。宝来町は例の高田屋嘉兵衛の像で有名だ。既に真っ暗だったし、明日、また来ようと思う。彼女たちに会うだろうか。

  地図では宝来町方面も随分観光スポットはあるのだが、夕食も食べられるいわゆる函館ベイエリア、金森倉庫群のあたりを目指したのだけれど、電車道はひと通りも少なく、地図を持ってこなかったので皆目見当がつかない。おまけに雨がぱらついてきた。傘くらい持ってくれば良かった。ともかく明日の負担を少なくしようと目に付いた北方歴史資料館へ入る。午後六時閉館で、あと三十分しか残っていない。慌ただしく資料を見ていく。大きな木彫りの頭部像は、明日見ようと心に決めたあの高田屋嘉兵衛の像の一部分だった。ともかくこの資料館は嘉兵衛で埋まっていた。函館がいかに嘉兵衛に負っているかを物語るものばかりだ。嘉兵衛のことは、やはり司馬遼太郎の「菜の花の沖」で知識を得た。江戸末期の豪商で、千石船を何杯も持った大海運会社社長、多くの航路を発見し、難破船を彼の身内から出さなかった凄腕の大船長、商品としての多くの海産物を開発したベンチャーマネジャー、等々。しかし、彼を世界の高田屋として高名にしたのは、やはり隣りの大国ロシアとの困難な、きわどい交渉に民間人として果敢に臨み、双方を和解に至らせた、その見事な手腕、というより双方を強い信頼のきずなで結ばせた、彼の優れた全人性だろう。ロシアとの間には、そのわずかな一時期より、以前も以後も全く、再び蜜月の機会はない、冷めた関係が続いている。嘉兵衛ほどの人物が日本の政治には生まれていないということの傍証なのかもしれない。

  高田屋嘉兵衛も良かったが、私は像の作者だという梁川剛一なる人物が気になった。午後六時になり、追われるように(別に追い出されたわけではなかったが)そこを出た。再び金森倉庫を求めて海峡通りを進む。函館市文学館がまだ開いていた。午後七時までやっていますというので、試しに入ってみる。¥三百也。安いものだ。中は上下二階あり、なかなか広い。函館というロマンチックな風土が殊更に文学者を生み養うのだろうか、沢山の著名人がここには展示されてあった。石川啄木は特別展示で、今尚一番人気なのだろう。二十六才という若さで死んだ不幸を云うけれど、やはり人気の衰えない彼は今幸せなのだろうと羨ましく思ってしまう。一握の砂のもとか、または例の東海の小島の磯の白砂の有り場所だったのか、函館の終戦後すぐの航空写真に砂山が残っていたという展示もあった。お世話になったひとたちには今東光、高橋掬太郎、久生十蘭など。辻仁成もここで一時期を過ごしたらしい。もっとも、私はかれの物を「ピアニッシモ」以外殆ど読んでいない。それより梁川剛一なる人物がこの文学館にもいて、はっきりと思い出した。私の少年時代の読み物の挿し絵画家だ。小松崎茂などよりも私好みの、ドラマチックで人間臭い、写実風の絵が得意だった。こんな絵が描けたら、と夢想したこともあった。彼が彫刻家でもあり、長期間同じ主人公の小説の挿し絵を描く時に、その人物像を彫刻で作っておき、一助にしたというエピソードは、最近のアニメーションの原画書きの方法でもあり、驚くこともないのだろうけれど、当時としては珍しい発想だったに違いない。確かに、精悍な嘉兵衛の木彫りの顔は、よく馴染んだ梁川剛一好みのものだった。

  電車でまた駅前へ戻る。ダイエーホークスの応援歌(我々福岡県人には馴染みが深い。ホークスは先日リーグ二連覇を遂げた。)をしきりに流している駅前のデパート(ダイエー系か?)の前を過ぎて、ホテルの方へ戻りつつ安そうな食い物屋を探す。いかにも大衆食堂といった感じの暖簾をくぐって明るいガラス戸を引き開けると、中は案外広かった。客が全くいないのが気になったけれど、疲れていたし、何でもいいといった気になってカウンターに座り、ショーケースの、ほっけの開きの焼き魚で飲み、豆腐で飯を食べた。

 

  十月十六日、七百円の和朝食。八時過ぎには宿を捨てて駅に行き、四本目のスタンプラリー。これであと一本、元町公園の観光局できまりだ。それまでに逆の方角へ、電車で五稜郭へ近付くことにする。湯川温泉行きに乗り、途中の曲がり角で降りる。堺をうろつい

 

  十月十六日、七百円の和朝食。八時過ぎには宿を捨てて駅に行き、四本目のスタンプラリー。これであと一本、元町公園の観光局できまりだ。それまでに逆の方角へ、電車で五稜郭へ近付くことにする。湯川温泉行きに乗り、途中の曲がり角で降りる。堺をうろついた時もそうだったが、バスなどと違い、電車は軌道が比較的単純で、安心して乗れる。間違ってもあまりひどい場所へ連れて行かれることはない。昨夜も間違ったけれど、被害は最小で済んだ。五稜郭公園前で降りる。あとは一キロ弱を歩くのみ。何やら高いコンクリートの物見櫓が見えて、消防署の近くに来たのかと思う。そこが五稜郭を上空から俯観するための展望台で、そのすぐ先に目的の史跡五稜郭公園があった。

  司馬遼太郎などをよく読んでいるという自負がある癖、私はこの有名な建造物を誤解し続けていた。この西洋城(の半製品)が海の近くにあるという先入観を持ち続けていたのだ。これは、多分ここを占領した榎本武揚が海軍総督で、軍艦を率いてここへやって来た(らしい)という故実から連想したのだろう。実際には、艦隊は江差の港に繋がれ、しかもその旗艦だった開陽丸は、彼等が五稜郭で戦う前に、大砲もろとも嵐で海に沈んでしまった。榎本の単純なミスだったといわれる。今度持ってきた「街道」十五巻北海道の部分を昨夜読み直して細部を確認した。ともかく五稜郭は函館の町の、港からかなり内陸へ入った場所にある。函館山からはきれいな五角の星形がくっきりと見えるはずだ。この場所は、艦砲射撃を避けるために、むしろ積極的に内陸へ持ってきた結果だという。有料の展望台から改めてその幾何学的な美観を確認し、満足して降りた。五稜郭の中にある博物館は締まっていた。公園内を突き抜けた向こうの出口に男爵芋の高い石碑があった。ぐるりと堀割りの周囲を半周してそこを離れ、地図で近くに見つけていた道立函館美術館へ向かう。正面の巨大な半裸の戦う女神像といったイメージのコンクリート塊を見ながら入ろうとしたけれど、閉館中だった。ダブルパンチにがっかりして電車通りへ戻る。電車で取って返して元町へ行こう。

  昨夕降りた同じ電車通りの宝来町にまた降り立った。高田屋通りという、分離帯が広い植え込みになっている立派な通り。ここは余り車は通らない。昨夜頭だけ見た嘉兵衛の高々とした像が函館山をバックに建っている。司馬遼太郎なども、普通日本では銅像など余り周囲にそぐわないけれど、こればかりは良い、と誉めていたとおり、絵になっている。ただ、彼は像が海に向かって立っていると書いているが、これは錯覚だと思う。像は函館山を背に、自分の作った函館の町を、いつくしむように眺めているのだ。

 

  嘉兵衛の像の近くの何やら老舗らしい菓子屋に寄って、気に掛かっていた我が家へのお土産を選び、発送してもらう。我が家の彼女たちはとかく質より量だから、余り高級菓子はそぐわない。おそらく、このお土産も私が戻る頃には箱だけになっているだろう。ともかく肩の荷が下りた思いだ。函館山を巻く道に沿って、例のスタンプラリーの最後を〆る判のある場所を目指す。日差しが暖かく、気持ちがいい。カメラを持ってこなかったことを少し後悔する。途中、何組かのツアーグループと出会う。素人じみた若いコンダクターが説明している。「つまり、ここは、イギリスとフランスと、そしてロシアの教会が仲良く集まった国際協調の場所なのです。」有名なロシア正教の教会、フランス人が建てたカトリックの教会、そしてプロテスタントの聖ヨハネ教会がそれぞれ隣り合わせに建った珍しい一角で、急坂でもあり、それぞれが、なかなか絵になっている。中でも、ロシアのハリストス正教会は他を圧して見事な偉観を誇っている。これも司馬遼太郎の同じ文だけれど、随分この建物の美しさを誉めている中で、しかしこの教会は、観光客の心ないいたずらに懲りて、普段は門を閉ざしているのだ、と書かれている。教会も道具を取られたり、相当嫌な目にあったらしい。遼太郎氏は“つて”があって、中へ入って見ることが出来たわけで、別に彼自身が怒ることもないのだけれど、続いてかなり感情的になって書いている。「……日本の観光ブームは歴史的な異常現象といっていい。彼等は日常の猥雑の中から逃れるために、秩序的な美しさをこい求め、国内にわずか残されたそういう場所に殺到して荒らし尽くした後、笹の実を食い尽くした野鼠の大群が海に向かうように海外にまで進出して駆け回っている……。」全く同意出来ない感情でもないけれど、この野鼠たちのおかげで生活が成り立っている観光地のひとびとも少なからずいるはずだとも思う。ぐるりとこのエキゾチックな界隈を回るうちに、この、司馬氏が来たころは確かに閉ざされていたハリストス教会の門が開けられていて、中へどうぞ、という張り紙もあるのに気がついた。司祭が変わったのだろうか。とまれ、良かったと思う一方で、観光客連中に、真面目にやってね、と願う気分になった。何人かが入っていったが、私は入らなかった。

 

  元町公園で、例の観光案内所をとうとう見つけ、中の美女ににっこりされて気を良くしながら最後のスタンプを押した。五十円切手も五稜郭のそばの臨時販売所で買ったし、これで賞品の毛がに、檜山の活あわび、八甲田牛は私のものになったも同然だ。もっとも、三十本だけで、当っても上記どれかひとつなのだけれど。ついでに二階の写真歴史館を見る。昔の風景を立体写真で撮ったものもあって、なかなか面白かった。初期の写真は左右反対に写るため、カミシモや刀、襟や後ろに立つ家来の位置や着方を逆にセットして臨んだという。結構時間もかかったようで、随分緊張しただろう。何人もの従者を従えて機材を持たせながら写真を撮影した初期の巨大カメラの取扱いは、まるで映画の撮影のようなものだった。彼等には今のポケットに入る使い捨てカメラなど、想像もつかなかっただろう。坂道をベイエリアへ向かって下りていく。腹が減ったけれど、途中北方民族資料館に入る。

  アイヌ(北海道アイヌ)の位置付けすら、今なお確立していないという。最近の研究ではどうやら白人系ではなく、ごく初期のモンゴリアン、つまり我々と系統の少し異なる黄色民族らしい。原日本人、例えば縄文人がアイヌだったのだというひともいる。梅原猛氏などが主張している説で、以前「水底の歌」で斎藤茂吉を徹底的にうちのめした彼は、「日本の深層−縄文・蝦夷文化を探る」ではユーカラを集めた金田一京助を、アイヌ語は日本語とは関係のない言葉だと決めつけて辞書の編さんの努力もせず、結果として研究の息の根を止めた、と手厳しく批判している。私ごときが口を挟む余地はないけれど、北方民族の問題は日本人、日本語のルーツに関する問題でもあるし、なかなかミステリーに富み、面白いお話なのだ。ここの展示の最大のものは三人乗りの皮舟で、世界的にも唯一の貴重なものだという。しかし、これはオリンピックでもカヌー競技にすぐ使えるような、洗練された物だ。先人の知恵に驚く。他にも見事な刺繍が施された山丹服は今でも充分晴れの場で実用に耐えるデザイン、仕上がりだ。これを着て家康侯の前にまかり出た松前氏は、家康が驚いてこれを欲しがることを前もって予想し、すぐ目の前で脱いで献呈したという。四百年前は、更に色彩も華やかだったろうし、彼等が驚き、珍重したのもうなずける。

  いろいろ驚いて、頭が混乱した分腹が空いて、もう午後一時近くになっていたし、餓鬼のようになって食堂を捜しつつベイエリアに来た。このあたりは西波止場といって、木造のウエスタン風建物が人なつっこく我々を誘う。もっとも、腹が空いていたからかもしれない。二階はレストランで空席がない位よく入っている。一部バイキング風になっていて鮨の皿盛りなどを自由に選んで取れる。もっとも、殆ど売り切れで、高そうな一、二皿が残っているだけだ。若いカップルが多く、大きな毛ガニなどをついばんでいる。高そうだ。メニューから選びに選んでスモークサーモンと赤の地ビールを注文する。ビールはおいしかったが、やはり真っ赤なスモークサーモン二きれは堅く、噛み切るのに苦労した。もっとも、付けだしとしては苦労しただけ長持ちしたのはよしとせねばならないだろう。函館なので、奮発していかめしを追加した。もっとも、余り高くなかった。よく出るので量産効果があるのだろう¥四百也。もっとも、いかの胴に詰めた飯の密度が低いのか、柔らかく、さほど嬉しくないものだった。

  落ち着いて金森ギャラリーの、見たいと思っていたバカラコレクション、フランスの古いガラス彫刻、実用品を芸術の域まで高めた華麗な品の数々を見る。バカラは大阪のサントリィミュージアムでびっくりした記憶がある。だから今度はびっくりしなかったけれど、やはり、どうしてこんなものが作れるのかとその仕上げの見事さに見とれた。ここはサントリィと違って、展示即売をやっているようだった。もちろん我々に買えるような廉価品はほんのわずかで、大抵は¥十万以上、¥百万も珍しくない品じなだった。見るだけで満足とせねばなるまい。若い監視の女性たちが私の一挙一動を見守っているようで息が詰まった。

  函館駅へ戻るために金森倉庫群を眺めながら電車通りへ向かう。月曜日だとは思えないような人の出だった。テレビ局の中継車が停っていて、撮影が行われた形跡もあったが、人出はそれとは無関係のようで、ベイエリアは成功しているようだった。電車通りに出たら近くの電停からまさに発車したところだった。あきらめて次の電停まで歩く。歩き着かないうちに次の電車がやってきた!こんな悪循環を繰り返したら、駅まで歩き続けねばならないかも。危機感もあって、全速で走って電停へ突進する、踊りまわる背中のバックパックを片手で押さえつつ。辛うじて間に合ったが、いささか(本当はかなり)疲れた。スポーツには実用性があることを実感する(それに、もう少しかっこよく走れたら良かった。旅の恥はかき捨てという言葉も、あるにはあるが……)。

  駅の売店で、るるぶ札幌小樽富良野を買う。るるぶとは、乗る、見る、遊ぶ、の略だとか聞いた。まっぷるよりもよほど古い、旅行誌のしにせだ。先にも書いたが両方に余り差はないようだ。夜泊まる予定の小樽のホテル(の安いの)をそれで探して電話をする。余り安くはなかったが、駅前で便利そうだったのを決めた。ホテルは外観を見てから決めた方が良いというひともいるけれど、飛び込みで断られたみじめな経験が私には何度もあり、電話での申込みよりも格段に効率が悪い。一般化するほどに数をこなしているわけでもないが、足元を見られるということもあるし、予約は早いほど良いのは理屈だから、今回の旅行では予定が固まり次第、電話で一報することにしている。

 

  スーパー北斗十三号で函館十五時二分発。函館本線をいよいよ道南の旅へ本格的に踏み出す。天気が良く、大沼公園あたりの箱庭めく景色は抜群だった。そして噴火が懸念されている駒ガ岳の裾野を列車は悠々と進む。峰が片寄っていて、列車が進み、見る方向が変わるに連れて印象が変わる。その姿が馬に似ているところから名づけられたらしい。私には巨大なサーカスのテントのようにも見えた。森を過ぎると噴火湾(内浦湾)が視界一杯に広がった。気のせいか室蘭あたりの向こう岸が水平線上見えるようだ。当然、有珠山の噴火の時はここからもよく噴煙が見えたことだろう。この湾の回りにはそんな活火山が多く、名前の由来になったのではないか。湾の水深は随分浅いそうだし、これ自体が火口だったはずはない(だったら、阿蘇山を抜いて悠々と世界一の火口になっていただろう)。

  眺めを楽しんでいるうちに十六時十三分長万部についた。スーパー北斗はここから室蘭本線へ入り、我が函館本線へは来てくれないので、接続する鈍行列車に乗り換える。五分後に出るその列車の待っているホームに来て驚いた。我々(私一人だったが)を待っていたのが、古いデーゼル車であったことは許せるとしても、それはたった一両のワンマンカーだった。それが函館本線を行き継ぐおしゃまんべ発おたる終点の列車(たった一両だから、列車は変だし)だったのだ。小樽が斜陽の町だというのは良く知っているけれど、まさか、駅員のいない無人駅になり果てているわけもないだろう。

  この普通車が四座で、通勤用でなかったことに多少の慰めを見いだして、私はショックをしばらく時刻表の読書で癒した。さっき乗り捨てたスーパー北斗は室蘭本線、千歳線と辿って、十八時十八分に悠々札幌に着く。その間この車両はせっせと北海道の南を縦断し、積丹半島を切りそいで石狩湾に出、小樽に着くのがそれより一時間近くあとだった。かなり道のりは短いはずだったが、特急と鈍行の差だろう。この本線は沿線に大きな都市や魅力的な観光地を持たないために、室蘭本線に客を奪われてしまったのだ。一両だけだったけれど、席は三分の込みで、沿線のひとばかりのようだった。時間帯にもよるのだろうが、さみしい旅になった。沿線は畑地のあとらしいものはあるけれど、全く人影を見ない荒れた粗林が延々と続く。どこかで大きな熊のうごめくのが見えないかと、私は目を凝らし続けたが、熊も、人間も見えなかった。農道のようなものもあったけれど、車が走っているのを見なかった。駅にちかずくと、少数の集落が見られる。箱型のプレハブ住宅だった。黒松内駅で北限ブナの木という表示があって、天然記念物指定とあった。次第に北へ向かっていることを実感する。やがて日が暮れ、蝦夷富士とその美しい姿をうたわれた羊蹄山も残念ながら見ることは出来なかった。倶知安でしばらく停ったので改札で途中停車印を押してもらった。ニッカウイスキーで有名な余市あたりから車内賑やかになり、小樽十九時十二分着。
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