(7)札幌・秋の吹雪、そして帰行

 

  札幌は既に大都市の風格を名実ともに備えて、地下鉄の発達が著しい。郊外へは早くゆけるようになったけれど、慣れない旅の者には地下道の複雑さに迷わされることになる。今度の宿は札幌駅から少し離れた、テレビ塔の向こうである。地下鉄東豊線の大通り駅の近くであるらしい。まず地下鉄東豊線の乗り場を捜したけれど、デパートの売り場が入り組んでなかなか見つからない。たまたま方角を聞いた女性も笑顔のいい美女だった。また気をよくして東豊線にたどり着き、切符を買う。大通り駅はひと駅隣りだった。慎重に考えて(方角を間違えないようにして)地上に浮上する。テレビ塔がすぐそばにそびえていた。成功。しかし、都会のタワーはどうして皆同じデザインなのか。ひと味違うのは京都タワーくらいのものだ。同じ設計者が作ったのかもしれない。いちいち文句が多い。

  ホテルを見つけ、例によってバックパックを置き、出る。目標はやはりすすきのである。こんな場合健脚がさえる。少し寒かったし、雨も心配だったが、長袖シャツを二重に着込んで万全を期した。何キロあろうと、目的によっては苦にならないのが人間である。地図で見当をつけたみちのりは直線距離で約一キロ、さんざ迷ってもその三倍位だろう。一時間あれば行ける。暗くならない内にたどり着きたかった。「旅慣れて/にやりと笑う/わが心の/ドン・ジョバンニ」とか吟じたのは伊丹十三だったか。私にはこの意味が理解出来ない。十三氏自ら、かの希代の女たらし、ドン・ジョバンニ(ドン・ファン)になぞらえて何か、旅先での解放感もあいまって、その土地の女を引っ掛けようとでもしているところなのだろうか。

  すすきのにはすぐ行き当った。巨大な歓楽街で、これに匹敵するのは歌舞伎町くらいしかないといわれるくらいだから、目標としては楽なものだった。札幌はしっかりとした都市計画から作られた町で、きっちり碁盤目になっているから、旅行者でもまず迷うことはない。問題はこれからだった。るるぶなどの健全な案内誌には載っていないから、あとは全くの勘だけで捜さねばならない。もっとも、今持ってきたのは、るるぶでもなくて、もっと簡単なホテルで取った案内地図だ。それを町の様子と見比べていたら、何やらセールスマン風のやさ男がからむ。何を捜しているの?ビルの名前は?。とか親切過ぎる。口をにごしてしばらく一緒に歩く。少し話してこの男がソープの勧誘員(オーナー?)だと知った。ただし自前の店は持たない。女を紹介して契約したホテルを利用させる。ホテル代はいらない。一回二時間で¥一七五百也。カバンから女のカタログを一枚一枚出してきた。大岡昇平の晩年の通俗小説にこんな場面があった、と私は思い出した。ただ、この男が出した写真の女はこと小説とは異なり、一応衣服を身につけていた。あまり深入りしたら変なことになる、と思って、私は男を振り切り、たまたま目に付いた劇場に飛び込んだ。男は諦めたのか、もう追ってこなかった。「札幌道頓堀劇場」で、¥三十五百也というのも手頃だった。さっぽろは過激なことで有名だった時期があったのだけれど、やっぱり関西とはひと味異なっていた。清水ひとみプロデュースという「眠り姫」の寸劇をつないだテーマストリップだった。中には煙草飛ばしなどの花電車や不思議なSM的一人芝居も挟まれ、男二人の狂言回しも唐突にあって、激しいオナニーショウの迫力はなまつばものだったし、ともかく飽きさせなかった。スタイルはともかく、ここも全員若くて、うっとりするほどの美形が見られるのはもったいないほどで、楽しいことだ。しかし、札幌も今はここだけということで、客は私を入れて十人に足りなかった。AVガールの簡単な手踊りばかりでごまかすよりも、こんな舞台のような工夫は好感がもてるけれど、さあ、これで一般客が戻ってくるか?。いずれはこの芸能も文化財として保護しなければ成り立たなくなるのかもしれない。寂しい。満足して帰る途中、さっぽろラーメンで夕食をとる。今夜はビールは飲まなかった。

 

  十月十八日。やや早目にホテルを出て、道の雪に驚く。近郊から朝着いた車から落ちたものだというけれど、やはり北海道だ、初雪が平地に、十月の半ばで見られるのだ。そういえば寒い。余り意味もなく大通り公園など近くをうろうろして、ともかく時計台だけは見つけた。これは新婚旅行の時に見ている。やはり十月の、一週間ばかり早い頃だった。二十四年前になるらしい。それはさておき、計画通り地下にもぐり、東西線に立つ。西十八丁目で降りて北海道立近代美術館を目指す。青森のことが頭にあって、九時三十分頃についたけれど、開館は十時からという。それならと続いて行った近くの三岸好太郎美術館も同じ開館時間で、あたりをうろうろ回って時間を潰す。寒風が吹いて、遂にはらはらと雪まで舞い出した。そこここの空き地にくるみの大木や、赤い実をつけたナナカマドなどがよく茂ったゆったりした住宅地で、ぐるぐる歩いて寒さと時間をしのぐ喫茶店などを捜すけれど、あっても閉まっていたりしてなかなか見当らない。ようやく一軒のティールームを見つけて入る。また司馬遼太郎の「北海道の諸道」でおさらいをする。三岸好太郎の場面である。彼は三十一で惜しまれつつ夭折するが、既に多くの賞を得た大家であった。同じ洋画家で人気作家の三岸節子は彼の妻である。夫婦揃って同じ分野で大家になったというのは例を見ないのではないか。十時が近付いたのでコーヒー代を払って出る。

  三岸好太郎美術館を見る。特別展として「それぞれの青春―俣野第四郎・三岸好太郎・久保守展」が催されていた。同時代、同じ環境に生きて、影響しあった三人の画家の業績を一堂に見られるのは幸いというべきだろう。その同条件の中で、どうして三岸好太郎が(最も短い活動期間ながら)一番もてはやされるのか、それはなぜか、どこが違うのか、それを見られるはずだった。もちろん、そんな試験のようなことを自分に課して美術館に入るのは楽しいことではない。何も絵画の審査員になる修行をしなければならないわけはないし、まず楽しめばいいのだ。

  芸術作品すべてに言えることだろうけれど、人気があるものは、要するにそのものに多くの人間の心を捉える魅力、他と差別化できる強い個性があるわけで、それの中身をあれこれ言葉で説明するのは、とても難しい場合が多い。単純な要素で成り立っている芸術ほどその魅力ははっきりと見えてくるような気がする。例えばドレミファの音だけで構成される音楽などその最大のものだろう。世に才能ありと認められた作曲家は大変少ない(他の芸術、例えば画家などに比べて)し、この芸術(で認められること)の難しさを示しているのではないか。歴史的にも、魅力のある、個性的な作曲家ははなはだ少ないのだ。忘れられた作曲家はその何十倍も存在しただろう。しかし、それに比べても画家は多い。美術年鑑に名前の出る日本の洋画家だけでも一万人以上いるわけで、この膨大な裾野の広がりは、またその優劣のつけかたが難しいということにもなるだろう。何しろ、絵というのはまず誰にでも(多少の絵心があれば)技術が水準に達しなくても、そこそこ描けるものだ。それはさておき、職業で画家をしているひとに絞れば、ともかくそれで食べている(学校の美術教師レベルでなく)人はその一割、名前の通った人気画家はそのまた一割と言われる。その百人は、多分他と差別出来る魅力のある絵を書く、才能のある芸術家なのだろう。そう思って見れば、やはり三岸好太郎の個性は(他から)浮き上がって見えてくるように思える。錯覚かもしれないけれど。風景画や静物にも強さはあるけれど、やはりこの人の特徴は、人物画の存在感だろうか。有名な「兄(異父兄―作家の子母沢寛)とその長女」の画も出ていた。代表作のひとつとされるが、見方によっては稚拙な感じもする画だった。

  一階二階と一時間弱いて、次の近代美術館へ移動した。ここの特徴は、やはり近代アートとしてのガラス工芸だろう。質量ともにこれほど沢山の、多彩なものが揃えられた美術館を知らない。階下の見上げるような男性ヌードのブロンズ像はここの目玉なのだろう。函館の美術館同様に北海道の美術館は像の大きさで競っているような感がした。地下鉄に戻り、札幌駅から南北線に乗り換えて中島公園へ。道立文学館を訪れる。受付嬢が今日一番の美女だった。

 

  ひとは文学館などに、何を期待してやってくるのだろうか。あるいはよく心に馴染んだ詩の一節などを再発見して、いい気分になるために来るのだろうか、私のように。美術館へ、よく知っているポピュラーな絵を楽しむために来る人は多いだろう、例えばベルサイユなどはそんな世界的に知られた美術品が沢山あるわけだし。しかし普通日本にはそんなポピュラーな絵を持っている館は余りないから、そういった楽しみ方は出来ない。海外の有名なコレクションが来た美術展で満員になるのは、そんな傾向を証明しているような気がする(私などは後ろから押されながら急いで眺めて回る美術展などへは出かける気はしないのだが)。クラシックでも、ポピュラーな曲の演奏会に人気が集まるのと同様だろう。カラオケがはやるように、ひとは馴染んだ曲を聴き、口ずさむことに生理的な快感を覚えるのが通例だ。この道立文学館では多くの作家の作品解説がビデオで楽しめる。利用するひとも多いに違いない。

  北海道の文学としては、小樽の時に書いたように、私はまず伊藤整が浮かぶ。彼が「女性に関する十二章」を頂点とする流行作家だったころの記憶は私にはない。それはずっと後年知った。ひたすら彼は古い文庫本で読んだし、その最初は「雪あかりの路」だった。詩がいいものだということ、そして文学はこんなものでもあるのだということをこれで教えてもらったという、恩義のようなものを彼には感じている。その、私にとっての大事な作家が、この文学館でどんな扱いを受けているのか、重要な位置を占めているかどうかが私のひとつの関心事だった。小樽の文学館が見れなかっただけに、なおここは見ておきたかった。その願望と期待はここでともかく満たされた(彼の端正な自筆原稿も見られた)結構重要視されていたし、「雪あかりの路」はビデオにもなっていた。気恥かしくて見れなかったけれど。それはさておいて、作家伊藤整の重要性については、それはそうだろう。ひいき目に見なくても、彼は一時期、日本最大の人気作家で、ベストセラーを連発していた大作家だったのだ。(小説だけではない。芸術と猥褻のはざまが法で裁かれたチャタレー裁判では被告となって論争の中心になり、社会的な大事件として一般の耳目を集めた。彼が流行作家としてもてはやされたのは、この裁判がきっかけになっていることは確かで、彼自身としては不本意だったのではないか。その罪滅ぼしとして書き始められた)前人未踏(ユニークな)の大著「日本文壇史」も、今なおあちこちの作家、評論家に引用されているほどの「いい仕事」をしたのだから。といって、別に私がなした仕事ではないから、威張ることはないのだけれど。

 

  この文学館とは関係がないのだけれど(ないはずだ)、私はひとつの北海道の(文学としての)思い出を持っている。九州へ来た年’70に、たまたま小倉の本屋で好奇心から手に取ったぺらぺらの同人雑誌に載っていた無名の大学生詩人の作品。それに惹かれて、とうとうその雑誌が9号で消えてしまうまで買い続けた。その詩人は平出隆といって、昨今は全国紙に高橋尚子のメダルなどについてのコメントを出す作家になっているけれど、その詩人が三十年前同人誌に載せた一文「幻の北海道」に、私はいつになく興奮してしまい、彼にファン・レターまで送ってしまったのだ。その返事はすぐ来たけれど、彼との関係はそれきりだった。詩集が出来たら送ってくれるはずだった(よね?)のも、たぶん、留保されたままだった。その出会いの場小倉金栄堂も先年つぶれてしまって今はないけれど、この若い詩人の「センチメンタルジャーニー」は、今読み返しても、ビビッドな楽しさで私をあの頃へ呼び返してくれる。この詩と童話のような恋の渾然した淡彩画の魅力をここでこれ以上説明することは困難だけれど、そしてずっと押さえて来たように、ここに別の文学作品を引用することはしないけれど、この作品と三十年前に出会ったことが、今、私をこの旅にかりたて、これを書かせている見えない力の、幾分かを担っていることは間違いない。もちろん彼のように私も旅上にある美少女と(淡い)恋に入りたかったなどという、大それた幻想を持ったわけではない(念のため)。

 

  地下鉄駅へ戻る途中、ラーメン屋に寄って少し遅い昼食。この旅二杯目のサッポロラーメンはやはりおいしい。地下鉄駅へ入る前に、今夜の宿を電話で予約する。今から向かう野幌森林公園の途上にあるJR駅のステーションホテル。どうせ最後だ、奢っちゃえ。

  そこまで行くのは地下鉄で足りた。新札幌駅周辺はこれから発展していくのだろう。この駅に隣接したスーパーダイエーの中にあるサンピアザ水族館を見る。水族館は私の好きなもののひとつだ。ここが水槽内でマリンガールの餌付けをしている数少ない館だという噂にもひかれた。しかしショウは日曜祝日だけだった。残念。ひととおり、魚のサーカスショウなどを見て、バス乗り場へ行く。うまく午後三時の野幌開拓村方面行きに乗れた。十分ほどで開拓村入口に着く。バスを降りて坂道を二十分ほど歩く、広々とした森林公園が目前に開けるが、降り出した雪に風が伴い、もう吹雪だ。正面のシンプルな錆鉄色の百年記念塔が雪中にかすむ。行こうか行くまいか。吹き飛ばされそうになりながら、何とか塔の下にたどり着く。人の気配がしてガードマンの定年後のようなおっさんが出てきた。エレベーターがあるんでしょう、と聞くと、駄目だ、歩いて上がれ、とそっけなくいう。もっとも、料金は取られなかった。百メートルあるというスマートな塔の、八階相当の高みまでぐるぐると歩いて狭い階段を上がり続けた。外で荒れ狂う雪と風がますますひどく感じられ、高み(上空)へ行くのだから当然かとも慰めるが、こんな時節に、なんでひとり好きこのんでこんな場所へ上がらねばならんのか、と我が身の不運を嘆いた。七階では窓が半ば開いており、吹雪がもろに入って凄まじいありさまだった。しかし、意地があったし、私は八階まで上がり切った。大きな一枚ガラスの眺めだけが愛嬌の、何もない部屋だった。雪のために遠くがかすみ、せっかくの眺望がだいなしだったが、しかし見える限りにおいて、眼下の原生林の広がりは、これが北海道なんだ、と思えるような、まさに北の自然そのものだった。真冬の眺めはまた異なったものになるのだろう(葉が全部落ちてしまうのだろうか)が、雪が舞い、木々が揺れる森の俯観は凄みが感じられた。

  塔を降り、少し風の収まった森の道を開拓記念館へ向かう。巨大な煉瓦色の建物へ裏口から入っていく。受付へ回り込むと外人客が沢山いたが、もう見終わったあとのようだった。既に午後四時近くになっており、閉館の三十分前で、全部はとても回れないでしょうから、と特別展の分を省いた券を渡してくれた。どうも駆け足で回らねばならないようだ。のっけから巨木やマンモスの(骨の)標本などで度肝を抜かされる仕組みになっている。北海道の原始のたたずまいを彷彿とさせるそれらの自然のシンボルは、巨大な建物をうまく生かした展示になっていた。アイヌや松前藩など時代を追った様々な展示の内容は、つまりここは北海道の自然と人間の歴史博物館なのだった。閉館のアナウンスがあり、慌ただしく二階から誰もいない受付の前を通って正面玄関へ出る。雪も風も収まっていた。旗竿から旗を降ろしながらお疲れさまといってくれたガードマンのひとは、さきほどのひとではなかった(と思う。どうも歳なのか最近他人の顔を覚えられなくなっている)。広い公園はゆけども果てしない程に思えた。また、来るときに降りたバス停まで歩かねばならないのか、二キロはたっぷりあるな、暗くなってきたし、とうんざりしていたら、三人目のガードマンに出会って、思いがけず近くのバス停を教えてもらった。十分後に新札幌駅行きが通るらしい。地獄に仏ならぬ渡りの舟の心境だった。

  ネオンが目立つころ、新サッポロ駅の、わがホテル前にバスは着いた。何やら感慨が湧いた。私の旅も、最後の夜を迎えようとしている。明日の飛行機搭乗のための利便性を考えてこの地を宿にしたのだけれど、余りに味気ないことではなかったか。多少早起きする必要はあるにせよ、すすきのに近い宿をとって、華やかな夜を楽しむことも出来たのだ。そこまで考えて、ふと自分の滅法軽くなった財布のことを思い出す。やっぱりこの宿でよかった。

  ステーションホテルにチェックインし、例のスタンプラリーの葉書に切手を貼ってホテルマンに託し、ホテルの広いレストラン(高い)を横目に見て、外の大衆食堂を捜しに出る。隣接したダイエーの、客のいないファミリーレストランに入り、ビールセット。サラミと枝まめとチーズを2キレずつ。それでジョッキ二杯(成功裡に終わりつつある旅と私が乾杯)をもたせ、そのあとカキフライ定食、これは今夜の定番(サービスメニュー)だった。まあまあの最後の晩餐。北海道の最後の夜。

 

  十月十九日。ホテルを八時三十分にチェックアウト。ステーションホテルの強みで、あっという間にホームへ。同四十三分発の快速エアポート八十四号に乗る。新千歳駅近くで本線をスパイラルに巻いて地下へ潜ったと思うと、やがて、空港駅九時十一分着。初めての空港で、二階に上がったり、また下がったり、少しうろうろして、エア・ドウの受付を捜すのに手間取ったが、結局、同二十分に、四十分ばかり余裕をもって手続き完了。これなら、三十分後のエアポート九十号でも悠々間に合ったかも。なに、いまさらじたばたしても…。何にせよ私の旅は終わりに近付いている。いや、もう、帰り支度を始めた時にもう旅は終わっていたのだろう。

 

  「…けれど、旅はいつでも帰る旅だ、…」といったのは、三十年前の平出隆だった。けれど、本当にそうなのだろうか。旅に出る私は、常に同じ場所に帰ることを運命づけられているのだろうか。帰り支度を始めるまでは、帰る旅だとはいえないのではないか。いや、今帰ろうとしている場所だって、本当に七日前に出てきたのと、同じところだとは限らないのではないか。私がそう思わなければ、旅をした私は七日前に日常をスピンアウトした同じ私とは限らないのだし。そう、七日間のささやかな旅が描いた円環は、きっちりきれいな円を描いて元の場所にすっぽり収まるはずもなく、ややよれながらとんでもないところへ飛びすさっていくだろうことはほぼ確実なような気もするのだ。そうして、私はやや強引に(あるいは多少気ぶせげに)次の旅を生き始めるのだろう。人生とは旅にほかならないのだから(注―このあたり、かなり剽窃あり)。

終わり  ’00,10,31
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