「うすき・ゆめみし」


(6)按針と情報戦

 

 

  静かな美術館を後にして、また住吉橋を戻り、古い町並みを野上弥生子記念館へ足を向ける。さほど広い町ではないのだけれど、ここと見当をつけたあたりにそれらしきものは見当らず、ぐるぐる回り、いたずらに時間を費やす。ようやく見つけた軒の低い商店街めく素朴な古い家並みの中にその「記念館」は見つかったけれど、もう閉館の時刻を過ぎていた。残念、また明日来ることにしよう。

  あちこち、古い造作の白壁やら櫺子窓などの伝統的な家が残り、またその形を生かした新造の土産もの店、カフェなどがあちこちに出来ている。なにやら西洋の教会風のしゃれた白い建物が目に入った。多分、古い土蔵を改造したものではないだろうか「サーラ・デ・うすき」と読める銅板の銘が掲げてある。入ると臼杵の観光案内所のようなインフォメーションコーナーがあり、中心は戦国時代の終わり頃(1600年だと。このきっぱりした偶然性には、大げさに驚くことも出来る。関ヶ原の合戦のあった年。)この臼杵湾に漂着したポルトガル船、リーフデ号の模型と説明板だった。そうなのだ。この歴史的な出来事、ことに、その船に日本を目指した最初の英国人、ウィリアム・アダムス(三浦按針)が乗っていた事は、臼杵と、その後彼が仕えた徳川家康に世界の正しい情報を教えたなど、日本のゆく道と世界に何らかの歴史的影響を与えたことは確かである。このあたりの事情は、司馬遼太郎なきあとの歴史小説の衣鉢を継いだと言われる白石一郎の「航海者」に詳しい、といいたいが、私はまだこれを読んでいない。臼杵を訪れるについては、やはり必見の書のひとつだったろう。こんな知識も、この旅のあとの付け焼き刃なのだから、どうしようもないのだが。

 

  三浦按針は、三浦半島に由来する名だとの漠然とした知識が私にはあったし、この地に漂着したことは今度の旅で知ったくらいなのだ。私の貧しい知識は、このアンジンの存在だけはぼんやりと知ってはいたけれど、その漂着当時の臼杵城主が、かの高名なキリシタン大名の大友宗麟だったと、全く誤って考えていた。宗麟は、その時にはすでに滅びて、既に徳川の代にこの地で栄えた稲葉家の代になっていたらしい。

  いずれ、歴史は出来る限り正確に覚えておきたいと、私なんかもつねづね思ってはいるのだけれど、いい加減ながらくた知識の多いのにはわれながら情けなくなることだ。だから、この「サーラ・デ・うすき」でしっかりした情報を得て欲しいという意味があるのだろう。様々な郷土の歴史、参考資料なんかがガラスケースに陳列されてあった。その他にも、最新のパソコン=16インチの本格的な液晶CRTだ=がずらっと並んでいて、誰でも無料で借りれ、ネットサーフが出来る。私もしばらく遊んだ。この愉楽はどこにあっても余り地方色はない。もっとも、最初に出てくるホームページは臼杵の観光案内で、これはこれでなかなか参考になった。明日行こうかという旧跡などをチェックしてみた。

  ちょっと気になったことは、ここのブラウザが「ネットスケープ6バ−ジョン」というマイナーなもので、いつも私などが使っているIE(インターネット・エクスプローラ)と異なったところがある。ちなみに私のHPを覗いてみたら、最初の表紙から違和感があって、背景の砂色が青くばけていたし、「更新情報・NEW」のマーキーも全くスクロールしない。もっとも、文字化けはしなかったし、「激白」のフレームは普通に見れた。IEは、多分全世界で90パーセントを遥かに超えるシェアをもっているのではないだろうか。これはこれで競争原理が働かず(マイクロソフトのひとり勝ち)困ったものではあるのだけれど、標準化によるサービスメリットも考えれば、何がいいのか、難しい問題である。

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