「うすき・ゆめみし」

(8)臼杵城址=藩主邸=野上記念館

 

  朝、7時半起床、すぐ階下のレストランへ降りる。ご近所から手伝いに来ているようなおばちゃんがいて、あじの焼き魚にちゃわんむし、湯豆腐などかなり量のある和朝食。ごはんのお代わりも勧めてくれるが、少食の私はいただかなかった。勘定はチェックアウトの時でいい、という。宿代は先払いを済ましていたけれど、領収書を貰っていなかったので、何か悶着が起きるかもしれないと嫌な気分があった。逆に、電話代を請求されただけだった。朝食を食べたのだが、と正直に言った。あら、そう、食べたの。とあっけらかんに言って、¥700なり追加。(言わなければ良かった。)しかし、商売になっているのだろうか、ここは。

 

  静かな朝九時の臼杵駅前をまた市役所方面へ下る。今日はまず桜の名所、臼杵城址へ登ることにする。警察署まで行って回り込み、裏山のような寂れた登り口からラフな杭の土止め階段をあがっていく。上りきると案外広い城あとが広がっている。散策路に沿って桜の木がつぼみを膨らませているが、それを待ち切れないひとびとがもう幾つもテントを張って店開きを準備している。今日は土曜日であり、ここ臼杵公園でも桜祭りの前哨戦が始まるのだ。中央あたり、左右に空濠と呼ばれる大きな凹みが見られる。特に左手のものは石垣も完全に昔のままで、四方を閉じられた深い、意味もなさそうな巨大な空間は異様な感じを受ける。こんな遺構は初めて見た。

  大友宗鱗がこの高台に城を築いた450年ほど前、1560年頃は、ここは海に浮かぶ島(丹生島)だった。海の中にあったわけで、攻めにくい堅固な城だった。その後、周囲が埋め立てられて今の臼杵の町が出来たとある。確かに、この城跡からも海を見ることはもう難しくなっているほどだ。大阪城も確か海に突出していたはずだ。江戸城も海の近くだったし、福岡もそうだ。皆、今は全く想像も出来ない内陸だ。例外もあるが(唐津城)、昔から日本人は埋め立て、土木工事に熱心だったのだろうか。私の想像ではあるけれど、この数百年間に海の水がかなり退いたこともあるのではないだろうか。日本列島は太平洋側で隆起し、日本海側で沈み込んでいるという噂もある。では福岡などはどうみるのか。余り奇妙な想像を書かないようにしようと思う(いずれ恥をかく)。

 

  大門櫓からNTTのパラボラを見ながら市街へ降り、稲葉家下屋敷を覗く。200年以上前に建てられた各地の立派な日本家屋は、今は殆ど建て替えられてなくなっているので、完全に残っているものは観光資材になるのだ。しかし大名篭やら鎧兜やら、様々な江戸時代のものがこのように現存しているのは更に奇跡である。今の人間は捨てることに頓着しないようになっているし、珍しいものがあれば、まずオークションにかけて金にしようとする癖がついているので、今後このようなものはますます無くなっていくだろう。

  しかし、昔にものにも今に通じているものは多い。罪人を縛るときの型模型だという変なものもあった。大きな日本庭園は武家屋敷らしく、からっとした、シンプルなものだった。私が例によってデジカメを構えると、小鳥が何羽も飛び立った。

 

  宗麟が南蛮貿易をしていたころの、外国人の居留地だった唐人町を通って、ようやく野上弥生子文学記念館に到る。昨日も含めて三度目の正直というところだ。彼女の生家だった軒の低い造り酒家をそのまま展示館にしてある。腰を屈めて入っていかねばならないような、庶民的な雰囲気のミュージアムは初めてだ。受付けの女性に勧められた「臼杵と弥生子」という十分ほどのビデオを一人で観る。私は多分、今日初めての観覧者なのだろうと思った。平土間が少々寒い。何人もの客が後から入ってきたけれど、ビデオに関心を持つひとはいなかった。

 

  小手川弥生子は、学生時代に恋愛して、卒業早々その野上豊一郎と結婚し、野上姓になる。それからもやりたいことをしっかりやり、夫を通じて夏目漱石に自作の小説を添削して貰ったりしている。豊一郎も文学を志していたし、法政大学の教授から学長にまでなった人物だから、妻などには負けぬという気分があったとして不思議ではない。しかし、若い自分の嫁女の作を、こともあろうに自分の師である大漱石にぬけぬけと見せたりしているのが、私なんかには全く理解出来ないのである。べったり惚れぬいていた(妻ばか、いや夫ばか)のだろうか。それとも冷静に妻の真価を見抜いていたのだろうか。そうかもしれない。漱石もまた実に立派である。冗談にせず、しっかりとその作を読み、新進女流作家デビューの手助けをしている。

  芥川龍之介の自殺の直前、弥生子が彼に、自殺の幇助のような会話をしていたというエピソードもここで知った。芥川が創作欲の減退に悩み、家族の多いこともあって、生活苦に悩み、漱石山房で知り合った野上夫妻の家へ愚痴を言いに来たとき、その問題発言があったらしい。自殺したら貴方の保険が家族に渡って問題は解決するよ、と。何にせよ奔放不羈な性が「秀吉と利休」のような、きらきらした名作を作らせたことは確かだろう。芸術家というものは、どこか型破りなところがあるものなのだ。

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