151.小泉劇場のこと
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150)売春の社会史

 

「ポルノグラフィ」という言葉の語源は、ギリシャ語の「売春婦についての記述」という意味から来ているという(本書第3章 古代ギリシャ)。となると、この500ページ近い大部の史書はまさしくポルノグラフィーそのものといえるだろう(著者に怒られるか)。バーン&ボニー・ブーロー香川檀他訳筑摩書房19916刊。


いや、実際、面白かった。「古代オリエントから現代まで」という副題にたがわず、その資料渉猟は膨大微細をきわめ、あたかも遠い失われた歴史の古代都市の廃墟がよみがえり、その殷賑の中のあいまい宿を実際に覗いているような錯覚におちいるほどである。文字で書かれた最古の詩ギルガメッシュ叙事詩に出てくる英雄エンキドゥを誘惑する寺院娼婦はこう語られる。

腰巻を解いて、両の脚を開くと

彼は女の魅力に耐えられなくなった

彼女はためらわず、かれの情熱を受け入れた

彼女は衣を脱ぎ、彼は女の上に臥した

彼女は粗野な男に女の手管のすべてを使った

彼の激情はそんな彼女に存分に答えた

    以下略
古代エジプトについては
-----
女たちはかなり自由だった。おおかたの女性はめったに公の場所には出てこなかったが、小数ながら重要な地位につくものも居た。-----また、寺院の中だけでなく町なかにも楽師や踊り子をつとめる女性たちがいたが、そうした踊り子の大部分はどうやら売春婦だったらしい。というのも、彼女らはその肉体を誇示するために透き通った長衣をまとっていたし、時にはそれすら脱いで、足輪と腕輪、そしてイヤリングだけで踊ることもあったからだ(確かに、古代エジプトの壁画にはそんな魅力的なポップのヌード女性がよく見られる 筆者註)。普通の女ですら、たまにはセクシーな魅力をふりまくことが出来、特別のお祭りともなると普段女性に課せられている禁制のいくつかが解かれ、彼女の方から進んで男に身を任せるほどだったという。

もちろん売春婦は繁盛し、自分の稼ぎでピラミッドを建てたものもいたというが、これは明らかに作り話だろう---
既にバビロニアで見られた娼婦の階級化はエジプトでも当然あり、上記の女性はケオプス王の娘のひとりだった。彼女たちの手練手管の数々、そしてそれらに翻弄される男たちの行動の描写の数々は今に残る有名な古代文書「トリノ・エロチック・パピルス」に書かれてあるけれど、学者たちからは猥褻文書とみなされてなお公刊されていない(残念なことである)。
注目されるのは、これら古代の社会で既にセックスに対する恐れの規範、タブーがあったということだろう。

------しかし、セックスは危険であり、男たちは妻以外の女性に近づいてはならぬと戒められている。なぜなら、「男は彼女たちの紅めのうのように輝く肢体を前にすると、痴れ者になってしまう。ひとかけらの夢らしきものを手に入れ、だが彼女を知ったそのあげくには死がおとづれる」からだ。(前記文書より)

なぜ「死が訪れる」のだろうか。これは単なる性交過剰による生命力減退の比喩にすぎないのだろうか。それとも多くの生物(の雄)が性交のあとに死ぬことを人間にも敷衍した結果なのだろうか。

もちろん、これを古くから多くの社会で一般的に制度化されてきた一婦一夫制を破り、他人の妻(や他人の娘)に手を出すことへの戒めと取る事も可能だろう(いわゆる姦淫の罪か)。しかし、セックスの力は、こと動物のなかでも飛びぬけてセクシュアルな人間には、とてもこんな戒めだけではコントロールできない強いものだった(とされた)。
有史以前からあった宿命的な男女の間のアンバランスな実力差がこの問題を一応解決する。男が女を支配することがセックスに及び、女は、それならば、と開き直り、その代償を尊大な男に要求する。それが売春というシステムだった。


もちろん、そんなことを初めて売春に身を汚した女性が思ったわけではないだろうけれど、そうでも思わなければ、とても気が滅入る。男全般が有史以前から女一般を搾取し続けてきたことに対して。
もちろん、奴隷制がおおっぴらな時代には、売春を少女奴隷に強制させ、金をすべて巻き上げるということもなされたはずだけれど、これはまた論外の悪だろう。
もちろん、奴隷でない、自発的にその道に入ったおおかたの彼女が受け取る代償は、まことにささやかなものであり、殆どはピラミッドをつくるほどの財産を築くどころか、かつかつ生きていくための最低な料金だったろうし、踏み倒されないだけまし、という気弱な女性が殆どだったろうことは間違いないだろう。

いわゆる高級娼婦といわれた売春婦たちの最高峰は人類史の様々な時代における華やかな一群であり、彼女たちがいたおかげで人間の文化の少なくない部分が発展したことは否めないだろう。この書は古代から各時代、宗教文化圏をそれぞれ網羅し(日本の近世を彩った花魁に触れられてないのは不満だが)、特に近代ヨーロッパにおける様々なゴシップ種になった著名な美女、有名人の挿話の数々(それらは決して歴史の表には出てこなかったあだ花ばかりだ。多分、例外は古代エジプトのヒロインクレオパトラだけだろう)が愉しい。セックスを武器にして成功し、あるいは悲劇を生んだ美女たちの様々な姿は壮観だけれど、やはり総じて後味の良いエピソードはない。

中世から近代に至るまでて売春という社会現象の様々な弊害が言われ、それを法(や宗教)で規制したり、禁止したりすることが行われたけれど、それらはことごとく失敗した。つまり、「歴史的に売春を根絶した社会というものは存在しなかった」といわれる所以だろう。その教訓をもととし、または開き直りといわれてもしかたがない公的な規制のもとでの合法化、管理売春などといわれるもの(現在もドイツなどの先進国で行われている)も、その目的とする犯罪の防止や性病などの防止などが、実際に効果をあげているのかという大きな疑問があって、売春婦として登録される女性の人権の問題もあり、本書では管理売春には反対の立場をとっている。
いわゆるストリート・ガールといわれる最低の娼婦はもちろんのこと、社会のエリートだけを相手にする高級娼婦であっても、やはりそれらはいつの時代でも不道徳(な女)のひとつの典型として軽んじられ、あるいは蔑視されてきた。セックスを売り物にする恥ずべき女、あるいは好色な悪い女というステロタイプな見方が、ただ男からみた疎外された彼女たちの誤った、身勝手な観点だったことは、様々な勇気ある研究者の報告の積み重ねによってようやく最近明らかにされたことだった。
この労作は、人間のセックスという辛い万民が罹る病気、あるいはそのつかのまの療法である売春という現象にこだわり、さまざまな規制やら干渉を行い、またはそれにかかわる興味ある個々のエピソードを絵画やら文芸作品にしてきた人類が性に振り回され、格闘し続けてきた歴史の概説なのだともいえるのだろう。
2重規範という男性優位の社会で当たり前のように生み出された考え方(女は貞淑であるべし。男の好色は万やむをえないことだ)は、人間社会のどこにも、どの時代にも見られたし、もちろん今でもなくならず、連綿と行われている。現に私自身がこんな文を書いて嘆じている一方、怪しいサイトを公開している事実だってそうではないかといわれれば2の句をつげないのだが。

女性が力をつけ、実力で男一般と伯仲するようになり、また、人間尊重主義の普遍化にともなって、この2重規範はいずれ、おそらく過去の遺物になってしまうだろう。確実な避妊法の普及もそれにおおいに力を貸した。そうはいっても、依然として売春は(少なくなる傾向にはあるが)社会からなくなることはないだろうというのがこの書の預言である。もちろん、それでいいというわけではない。ポルノグラフィを根絶するより前に、売春はなくならねばならないと思う。いや、ポルノを売春婦の代行としてその任をなせるなら、それはそれで結構なユートピアと言えるのではないか。
我田引水といわれればそうかもしれないが。




(149)ヤフードーム

7月の400CC献血でドナーへのサービスに籤引きがあって、こんなものには当たったためしがないけれど、一応応募しておいたら後日葉書が来た。当たってしまった!プロ野球公式戦へのご招待、8/31ソフトバンク(以後SB)Vsロッテ戦である。ヤフードームになってからご無沙汰であるので、半日勤めをさぼって行く気になった。車でいくのが一般だけれど、ビールも呑みたいし、駐車場の確保もこころもとない。JRと地下鉄を乗り継いでいくことにした。直方駅から筑北ゆたか線PM334分の快速で50分余り、もう博多駅の雑踏に立つ。電化されてから実に早くなった感が深い。博多駅から地下鉄で20分、唐人町下車、あとは徒歩で10分ほど、ももちのランドマーク、ヤフードームとシーホークホテルの威容が目に入る。


ドーム周辺はダイエーがしりぞいてから急に各種開発が促進されたように思える。工事中の看板があちこちに目立つ。4番ゲートで特設の引き換えデスクが出来ていて、献血マークの赤い十字うちわがはためいていた。葉書を見せると、驚いたことに2枚の座席券を渡された!ペアーでご招待とはどこにも書いてなかった。これは残念。
席は3塁側の中ほどだ。SBのベンチが見える好位置。

場内売り場で川崎弁当(\1000)と茶を求め、SBに続きロッテの練習が始まっているのを見ながら生ビールを若い男の売り子から求めて(¥700は高い)食す。


試合は麻生福岡県知事の始球式に続き斉藤清水の両エースの投げ合いで始まった。パリーグの頂上決戦、1位と2位との戦いはやはり力が入り、見ごたえがあった。



斉藤はこの試合までに開幕以来の14連勝を続けている。こういった記録はいつか途切れるものであり、案の定、最初の回こそ3人でしとめたものの、あとは毎回ぴりっとせず、ヒットを打たれ、走者を背負う苦しい戦い。2回に先制され、5回にも1点、清水の方がずっと好調で、SBは凡打の山をきづく。嫌な予感がして私は席を立ち、恒例のプロムナード散策。その間にカブレラが2ランを放って同点、更に鳥越にも長打が出て逆転したのを私は場内のTVで見た。残念!
ともかくトイレを済まし、宇治金アイスフラッペを買って席へ戻る。席は若い美女連に占領されていて、憮然としながらも文句はいえず近くの空いた席に座る。そのあともSBは鳥越の2度の快打(まぐれだろう)もあって、すがるロッテを6:3で突き放した。

私がこれまで観戦した試合で勝ち試合はこれが最初だったし、折角の機会だからと恒例のドーム花火を見ようと思ったけれど、
斉藤の15連勝タイ記録表彰やらヒーローインタビューやら、やたら長引いて、


これでは最終便に間に合わないかもしれない、と思い始めた。6時から始まった試合は両軍投手8人をつぎ込んで、斉藤が打球を受け倒れるトラブルもあり、既に4時間になんなんとして、まだ動く気配のないチタン製ドームの開閉も20分以上かかるらしい。
結局花火は見ずに帰途に着いた。残念!!


帰宅したら12時を過ぎていた(泣;;)。


(148)ルーツ

盆休みを利用して帰省、故郷の墓参りをしてきた。私の生家は京都府の舞鶴市にあり(あったというべきだろう。今は道路になって痕跡もないが)、先祖代々の墓がある菩提寺はその地にある。
一方、妻の里はその東方、お互い若狭湾の左右両翼に存する福井県敦賀市である。まだ義母(私にとっての)は存命であるから、そこに泊まって、墓参りをする。結局、先祖詣でに名を借りたレジャー旅行である。以前は家族全員の移動だったけれど、子供たちも社会人になったことで、ここ数年は夫婦だけの滅多にない気休め旅行になっている。


今回、以前の舞鶴自動車道中国縦貫道兵庫県は三田あたりから分岐)が舞鶴若狭道と名を一新したことで分かるように、舞鶴(東)止まりだった高速道が若狭湾の中央の小浜市(あの、拉致問題で難に遭った地村さんご家族の町だ)まで延びていて、移動が楽になった。普断日本道路公団にいやごとを垂れているにもかかわらず、こうして恩恵を受ける段になると、やっぱり高速道は便利だ、ということになる。身勝手なものである。

敦賀で二泊した。毎年のことで、さほどの新鮮さはないのだけれど、今年はメールの友人が芭蕉翁と「奥の細道」に凝っている最中で、私も頼まれたわけではないけれど、ご当地に残る事跡を見てみようという気になっている。昨年までは全く気にもしなかったことだった。

ネットなどで調べてみると、敦賀は芭蕉の句碑が異様に沢山ある町だということがわかった。確かに「奥の細道」は実質、その長い旅を敦賀で終えている。翁もなかなかこの地が気に入ったようで、まとめて十五も発句している。もっとも、全国的に人口に膾炙している、いわゆる名句はないようであるが。

ともかく全部の事跡を回るのは日程上無理としても、拠点になった市の中心にある官幣大社「気比神宮」とそこにある翁の像、句碑だけは拝見しておかねば、と朝早くから出かけた次第である(写真X2)。

翁が海路舟で乗りつけたという色ガ浜へも車で行ってみた。一応のドライブ道はついていたが、難所であり、海水浴シーズンでもあって車があふれ、わずかなあき地は皆当地の地主管理人たちが縄を張り、油断なく見張っていて、結局、写真もとれず涙を呑んで引き返したことだった。あとで義母に聞くと、その地の寺(本隆寺)には翁の弟子曾良さんの真筆の日記が残されているという。思いがけず様々な薀蓄を聞かされたことだった。敦賀市は義母を含む市民に芭蕉ツアーなどを無料で体験させているようだ。
芭蕉だけではない、敦賀は千三百年の歴史を誇る気比神社からも推察できるように、なかなか歴史の重い町なのである。ひとつ妻の家の菩提寺である来迎寺は明治維新の一幕、武田耕雲斎を首魁とする水戸烈士130余人が捕らえられて打ち首になった場所なのだ。敦賀は異様に寺院の多い町でもあるが、この来迎寺は中でも上位に属する時宗の寺である。時宗といえば、また芭蕉翁に戻るけれど、ここでの発句では一番有名な

「月清し 遊行のもてる 砂の上」

は時宗の名僧遊行師が敦賀でなした尊いボランテア活動(埋め立て)を思い起こしたものである

あとさきになったけれど、何を隠そう、私の実母は敦賀の出身で、小さいころからこの青松白砂の故郷について私などは様々聞かされて育った。更に私の祖父も敦賀(余座)の出身であり、祖母の入り婿として舞鶴へ来た。私が結婚した時、わが家は三代続けて敦賀から嫁(婿)を貰った、と珍しいもののように言われたものである。私の内なる敦賀の血がいかに濃いものかがこれで分かるだろう。

全く余談であるが、実母の父(つまり私の母方の祖父)は、私の生まれた後まで生きて、私のものごころつかない顔を見ているはずだ。この人物は昔語りをよくし、子供たち(母ら)に愉しい物語りの数々をよく語って聞かせたらしい。なかなかの魅力的な語り手だったとも

一方、この配偶者(つまり母方の祖母)は、しがない駄菓子屋を営んでいた夫の数倍の生活力があり、敦賀から定期航路で繋がっていた大陸対岸の裏塩(現在のロシア・ウラジオストック)へ、夫を国内に置いたまま、子供たち(私の母を含み)のみを連れて出稼ぎ(当時のパーマネント業)に行っていた(
1924年前後か?)。治安が悪くなったので早々に引き上げたようだが、よい判断だったと思う。

これもどうでもいいことではあるが、あとでメールの友人に指摘されて気がついたのだけれど、私が今回敦賀に逗留して芭蕉翁の事跡を回っていた8月
1415日は、「奥の細道」によれば、翁が敦賀に居た旧暦の日取りと完全に重なっていた




147)混沌

面白い、興味のあるこのごろの情勢。一歩引いて見れば、この文化爛熟たる日本社会の振る舞いが世界の中でも独自の混沌を呈していることがよくわかる。

なんだ、大人ぶって、そういうおまえは何なんだ、とぶったたかれるのを覚悟のうえで、前述の理由と気分とを説明してみようと思う。
東アジアでも独自の地位を占めた日本は、最近ずっと近隣諸国への関心を深めている。(経済的、政治的<これは多少付箋つき>にもそうだけれど、より広い国民レベルでそうなりつつある)韓国ブームはその最大のもので、芸能界に関する限り、敷居はなくなった(多分に日本主導ではあるけれど)といっていいだろう。つまりかっこいいものはかっこいい、人種的偏見はこの観点からはゼロに近くなった。日本からも韓国台湾はじめアジア各国へ芸能人が向かい、交流はますます盛んになっている。
一方、この潮流に逆らうように韓日関係、中日、台日関係は政治面で多くの問題を噴出している。中国の対日バッシングは一時はひどいものだった。それぞれ外務当局同士の激しい衝突も少なからず現出している。しかし、一般市民レベルではさほどのこともない。中国、韓国が市民レベルで排日運動が激しくなった(これだって政治主導であり、深刻なものではない)といっても、日本社会ではそれに対応する目だった動きは殆ど見られない。韓流ブームは冷えるどころかますます盛んになる。これを私は「混沌(日本人社会の)」と感じたのだけれど、韓国人やら中国当局なんかは拍子抜けなのではないか。

以前なら、そんな「事件、事象」を契機として、国民同士は敏感に対応して全面的に対立することが普通だった。政治的にもその熱気をあおり、対外戦争への動機づけにしようとした。60年前に終わった対米戦争は、日米それぞれにそんな一面があったことも否定できないだろう。
そんな昔の日本の情況を髣髴とさせる中国などの国内情況をニュースで見るにつけても、日本の冷静さが逆に浮き立って強調される。もちろんこれは日本人の多くが対外の事象に無知であるとか、鈍感であるとか、無関心であるとかいうことではない。知っていながら、さほどのリアクションを取ろうという気にならない、いわば、これにはそれだけの行動を取る価値がない、と考えているのだ。情報は様々なメディアを通じて逐一我々に豊富に伝えられる。むしろ中国人たちよりもよく把握できている面もあるだろう。毛沢東が数千万人を粛清したといわれるあの紅衛兵の時代(情報が極めて少なかった)や、ごく最近の天安門事件(情報の少なさに加えて無関心が大半だった)の頃と比べてみても、その差異、変化は際立っている。それら異国の内部事件に終始した2つの事象に比べて、今度の事件は、直接日本に向けられた憎悪の感情がかたちになったものだったから、我々の関心は比べ物にならず高くなったはずだけれど。
何にせよ、今回それらの冷静な対応はおおげさにいえば日本人の民度、レベルの高さを示したものだと私は思う。様々な局面において、我々が示す対応の総体は、多分、相手国が期待したよりもはるかに日本にとって理想に近いものになったのではなかったか。

一部の日本人、ナショナリズムを標榜するひとたちにとっては、はなはだ物足りないものであっただろうことは想像にあまりある。しかし、歴史が示すように、国民の一方的な感情の激発(殆どはナショナリズムによるものだろう)、暴走が殆どの場合ろくな結果を生まないことは明らかなのだ。中国当局だってこんなことはとっくに気付いていなければならないはずのことだろう。
日本の戦後を象徴する国境問題(ロシアの北方四島占拠、沖縄の米軍基地)、そして靖国神社の問題は、国民のナショナリズムの喚起によって(日本のペースで)解決できることなのだろうか。北朝鮮との、いわゆる拉致事件の解決伸展には、国民の総意といったバックアップが大きな効果をあげたといわれているけれど、これだってその限界があらわになって久しい。その他、尖閣諸島やら竹島問題についても、相手国が軍艦などを繰り出して挑発まがいのことをやっているのに、日本がてをこまねいて眺めていれば、結局北方四島のような屈辱をなめる結果になってしまうというおそれなきにしもあらず、とこっちも棍棒など持って現場に押し出す人間がでてもおかしくはない、のだろうか。私は悲観的である。てっとりばやい解決なんか何もないと思う。
軍隊を持ちたいという動きも、結局はナショナリズムが根底にあるのだろう(国連に参加するための軍隊、などまやかしだろう。国民レベルでそんなことに易々合意できるはずはない。どうしてもというなら、国外の傭兵に参加しているごく一部の戦争好きのひとたち<居れば、の話だが>に任せばいいと思う。)。
日本人が他国に比べて堅固な国境と法律に護られ、いい暮らしが出来るということは事実だろうし、それは感謝すべきことだろう。しかし、それは多くの努力と偶然も幸いして得られたものであり、このさき軍隊をもって独り占めしたいと思ったところで、それはどうだろうか、と疑問に思う。なるようになる、とはいわないし、もう幸せはいいよ、とも言わない。幸せを維持するためには、軍隊やらナショナリズムで武装するよりももっと(迂遠ではあっても)有効で犠牲も少ない賢い方法を模索しなければならないと思う。それはあるはずだ。そのひとつの方向と答えが最近の混沌であり、冷静さだろうと思うのである。

今年も夏が来て、八月になった。あの日から満60年が経過した原爆記念日ということで、多くの書き物が新聞紙上にもあらわれている。「毎日」の8/3日付けで阿川尚之というひとが「戦後60年の当惑」という題で発表している。この大学教授は広島をルーツに持ち、知人に多く犠牲者を出している。そんな人物でありながら(いや、だからこそ、というべきだろう)、「原爆記念日の行事に違和感を覚える」というのである。

原爆の犠牲者が、毎年強調されるように、それほど特別なのだろうか?世界の歴史は悲惨な出来事に満ちている。今次の大戦では世界でおよそ5千万人が殺された。ナチスドイツはユダヤ人6百万人を殺した。スターリンや毛沢東は千万の単位で自国民を殺したといわれる。そうした無数の悲惨な死に比べ、広島・長崎の犠牲者は特別だろうか?”

氏は更に、原水禁運動のメッセージに見え隠れする正義感の発露を、中国の執拗な日本の戦争責任追及と似たようなものではないか、と正直に感想を述べている。戦後60年経った今、もっと静かに、個人的に戦没者の魂を鎮められないものだろうか、と。

私の個人的な感想を述べさせていただくと、ヒロシマ・ナガサキの犠牲者は、(お気の毒としか言いようはないが)やっぱり特別なのだろう、と思う。そのホロコースト(大量虐殺)としての悲惨というより、人類史上初めての特殊な巨大殺戮兵器が無辜の市民の上に使用されたということ、その「特殊な悲惨さ」を強調し、象徴化することでその最悪の兵器の使用をともかくも現在まで封印出来たというこの政治運動の有効性のために。

もちろん、その効果を疑問視することは可能だろう。現実に核兵器は最近も拡散を続けてはいるけれど、全体として量の増加は抑えられている、ということも含めてどう評価するかということはあるけれど、しかし、日本と広島市、長崎市が戦後続けてきたこの根強い反戦運動の価値と継続を、意味がないと退けることは誰にも出来ないと思う。
原水禁は中国の戦争責任追及運動のように相手国へ向かって難責するわけではなく、極めて宗教的な,止揚された運動になっていると私などは思う。それだけに一部のナショナリストからも最近の記念碑損壊事件などにみられるような挟み撃ちを受けている、国内的にも強力とはいえない運動ではあった。しかし、これまで阿川氏のような方向から感想を発する著名人は居なかったと思う。

氏(米国憲法が専門であるらしい)の気分と考え方は私にも理解できる。極めてまっとうな、正統的で控え目な、しかしユニークな意見だと思う。

このような、様々な問題に、様々な立場から自由な意見が、しかも大きな場で発表できる、そういった万華鏡のような混沌が現在の最先進国日本の面白さとつよさなのではないだろうか。




(146) アール・デコ

アール・デコ展福岡市立美術館)を見にいった。やたら、こういったものは好きなのだけれど、客寄せとしての宣伝の絵に惹かれたということがある。去年の暮れに出遭った女流画家、レンピッカが見れる、という期待もあった。実際はそのCMにあった1点だけだったが。


アール・ヌーボーといわれる芸術運動があって、その流れを引継ぎ、更に普遍的に、大きくなったのが「アール・デコ」だといわれる。呼称の示すようにフランス、パリあたりをひとつの源流として世界に広まった。日本の作家も昭和初期に影響を受けている。
ひとつの説明として、最後の芸術主体の(工業)デザイン運動だとも書かれてあった。つまり、アール・デコ以後は、デザインよりも、使い勝手(とコスト)が重視されるようになったつまらない時代なのだ、と言えないこともないだろう。もちろんそれは大衆が力を得て、圧倒的多数になり、新しい王様になった彼らの形而下の欲望を満たすためには、芸術だのなんだのとはいってられない時代になったのだ、という説明は可能かもしれない。

アール・デコ以後のことは置いて、この芸術の範疇は、小は安物のコーヒー皿から家具類、ポスターの様式やら舞台の衣裳、自動車のデザインから大はニューヨークの大摩天楼群、あのエムパイヤ・ステート・ビルディングまで含むというのだから恐れ入る。とまれ、このニューヨークを象徴する芸術的な大建築物に9/11の旅客機が突っ込まなかったことはラッキーだった。現代のテロリストもまんざら芸術を知らないわけでもないのだろう。

一時期、随分バカラなどのガラス細工に出遭うことがあり、その中でもガレラリック
の製品によく見られる様々なヌードの美しさには目を剥くことが多かった。それらは芸術作品ではなく、機械加工された量産品であるという説明はあったけれど、それにしても
われわれがたやすく購入できるような代物ではないからこそ、美術舘に入っているのだろう。
それらはやはりヌードが目に付いたブロンズ製品と一緒に、多く、アール・ヌーヴォーといわれる芸術の分野に入っていたと記憶している。その流れは今度の展示にもわずかではあったけれど残っていた(やはりガラス器)。というより、殆ど姿を消していたというべきだろう。

アール・デコには、いわゆるエロチックな芸術要素はまったくないといえる。この傾向と、いわゆるタマラ・レンピッカなどに代表される女性の力の社会への台頭とは無関係ではないような気がする。
しかし、レンピッカはどんな種類の情熱を傾けてそのケバい女性像を描き続けたのだろうか。もちろん、マリー・ローランサンにも同様な疑問はあるけれど。ロダンの愛人で、彼のヌード像のモデルにもなったといわれる彫刻家カミーユ・クローデルも含めて、彼女たちの共通点は非常な美女で、男性にもてたということだ。彼女たちが芸術を創造する必然性はどこにあったのだろうか?と思う。

ミケランジェロは異様なまでの情熱を傾けて逞しい男性全裸像を多く描き、刻み、創った。彼はほもだったといわれる。これまで(カミーユなどを除き)画家を主体とする芸術家は例外なく男性だったし、彼らの顧客も殆どが男性だった。彼らがせっせと魅力的な女性のヌード像を創ってきたのは理解できる。もちろん今でも男性は世界の半分だから、そんな傾向はなくなりはしないだろう。けれど、アール・デコに見られるように、そんな男性天国はもう過去のものになっているのだろう。
ここまで書いて、今回さぞかし落胆したのだろうと推定されるご仁もおられるだろう。確かにそうなのだけれど、落胆の最大のものは、ちょっと違う。当時のパリの夜を席巻したといわれるアメリカ人の踊り子ジョセフィン・ベーカーのフィルムが公開されてあったが、おおいに期待に反した。

 



(145)うちあけ話

例えば美女が自分のヌードについて自慢する。“私のバストの美しさを見て!どう?私のおへそのかっこよさ、わかる?もちろん私の最大のポイントは尻の線のかっこよさでしょうね。皆そういうのよ!本当よ”

こういう美女は、まず世界広しといえども居ないだろう、多分。少なくも私は聞いた事がない。なるほど、ネットなどで名だたる世界の美女映像を渉猟すれば、そんな自慢をしても不当ではないような、思わず唸りたいような完璧な美女が(決して多くはないが)存在することは認めるとしても。けれど、多分、彼女がもしそんな行動を取り出したら、私はしらけてしまうだろう。
美女のヌード(の美)は、自分からひけらかすようなものではないと思う。たとえ、それが誰もが認める素晴らしいものであったとしても。実際、彼女たちはそれをただ職業として、仕方なく、生活のために見せているのだ。いや、一部の数寄ものが強いるから、どうしようもなく裸になってやっているのだ。要求する異性のために、我慢して衣服を脱いだのだ。それは世の常識、いや良識だろう。
素晴らしい肉体を自覚する美女とても、進んで肌身を見せたいとは思っていないはずだ、と私などは願望的に思っている。だからこそヌードにはテンションがあり、感銘も生まれるのだ。三島由紀夫が、ヌードモデルは笑ってはいけない(不自然だ)といったのはそんな意味があるのだと思う。もちろん、露出嗜好症というものもあるだろうし、本来自分のヌードに自信があるからこそのヌードモデルなのだろうけれど、基本としてそういったメジャーな考え方があることは疑いえないだろう。

小説を書く、ということと、ヌードモデルになるということの共通点は、そんなところにあるのだとわたしなどは思っている。もちろんこれは一般的に認められた考え方ではない。私のような小説を書く私の個人的な偏見かもしれないが。つまり、自分の心を、恥部もろとも(かなり赤裸々に)表現する、ヌードになって見せる(心を)、ということになるのだろう。

私が自作のものについて余り言いたくないのにはそんな理由がある。それがたとえ傍目には美しかろうと(さして美しいとは思えない)関係ない。きれいなところがあって、そこだけ強調したって同じことだ。隠したって無駄なのだ。美女が恥部を隠して現れたところで、皆それを容易に想像するだろう。自慢のバストだって、肩だって普段は目にしない部位なのだし、好奇心というものは、隠せば隠すほどその部位に向かうのが常なのだ。つまり、彼女の露出、その行為自体が問題なのだ。
小説を書く、卑近な想像上の男女のふるまいの描写で自分の心の向かう方向を人目に晒す(そればかりでもないが)、それが問題なのだ。私はその行為自体が恥だと思っているので、まして、その作物を自分であれこれ言うこと、自作の論評は恥の上塗りになる、そう思っているものである。

こんなことを書いたら、ただでさえ希少なわがサイトの読者を更に離れさせることにはなりはしないか、と危惧もするのだけれど、これは本当のことだから、仕方がない。
もっとも、他人が作品を論評することは、まったくこれとは関係のないことで、その評論自体もう作品から離れて別の作品になっているから、あとはその作者、論者が責任を持ってくれるはずだ。もちろんそんな論評はおおかた世評の定まった大作品にのみ着くものだろうけれど。
それだけ恥だと思っているのなら、さっさとやめたらよかろうといわれるのは正論である。しかしやめられないところに人間の情の世界の理屈で割り切れない部分があるのだと思う。前述の文の後ろ半分はやけくそである。要は、やめられないのだ。

さてこれからが本文なのだけれど、ありがたいことに私にも拙作を褒めていただける読者が存在する。それだけでもまことに有難いことである。しかもこのたび、そのお一人が、ある投稿サイトに私が書いたもの(現在12作、近日中に13)を見つけられ、それらの中の、似たような短編群を、つじつまがあうように並べなおしてほしいといわれるのである。それら同じ主人公の小説群を時系列で並べ、いわばひとつの長編に見立ててじっくり読みたいと仰るのである。
つまり、私自身にわたしの小説のことについて一種の解説をせよというご指示なのだ。

この読者は高度な小説の読み手で、私が最近身につけたような小説のテクニックやら、分析法などをよく知っておられるし、私の未熟な小説の更なる深読み的なことへまで踏み込まれて、私はてごわくもありながらありがたくもある氏の様々なご指摘からは、非常に勉強させていただいた。こんな読者を得たことは作者にとっては幸福以外のものではないのだけれど、しかも今度のご指示である。私は、はたと思い当たった。私の書き散らした短編小説群の中に、いわゆる連作といわれるものがあるらしい。

手塚治虫はその活動初期からスターシステム(限定された個性的な登場人物群の体系)なるものをデータベースとして創造確立し、自作の作品群の中でそれを駆使した。その膨大な作品群のなかへ、彼が創造したそれぞれの際立ったキャラクターを、まるでハリウッドのスターシステムよろしく自在に投入していった。彼の多彩な作品群を親しみのあるものにした大きな要素だった。
けれど、私の用いる主人公(ヒロイン)は殆どひとりだけである。従ってどんな作物にも彼女は同じ名前で出てくるということになる。ひとつ気に入った彼女の情況があれば、それをベースにして様々なバリアントを書くということにもなる。一応ドラマであるから、それらの間の時間の経過はやはりある。時の経過は事態の変化の大きな要素なのだ。こうして自然に連作のようなものが出来てきたのだろう。しかし、私は若い美女しか描かないので、せいぜい4,5年の間のドラマなのだけれど。
氏のご指摘から、私はもういちどそれらの短編をざっと読み直し、一応時間経過に沿った並べ替えを行ってみた(「掲示板 445」)。私は普段殆ど自作を読み直すことをしないのだけれど、今度ばかりは実に愉しい作業だった。単に読み返すということでなく、ある目的、結局、自作を分析した小文を書くという作業のために自作を読むことは、また違ったものがあるのだろう。私はこんなことを思いつかせた氏に感謝したい。

しかし、この一文を含めて、こういった「自作を語る」ということは、みだりにするべきではない、と私は思う。ま、やってしまったあとでいってるのだけれど。
愉しく過ぎるのだ。ただ似通った自作の連関を調べて時系列で並べなおすという、それだけの作業でも愉しいのだから、その内容に踏み込んで、いろいろ語りだすということの愉しさは想像するに余りある。しかし、そうして出来上がった雑文、随筆のようなもの、その価値はどうだろうか。ほとんどありはしない、と私は思う。まず、他人は興味を持たないだろう。自分が愉しくても、それを読む他人が面白いと思わなければ、価値はゼロだと思わねば成らない。
とかく、愉しく過ぎるものには、一応の警戒が必要なのだ。

このごろのコミック単行本などには作家自身の自註、解説文などをつけるのがはやりのようだけれど、私はあまり面白いとは思わない。もちろん大家のもの(たとえば「サザエさんうちあけ話」など)にはたまに面白いものもあるけれど、おおかたは自分で勝手に面白がっているだけのものだろう。やはり作家は純粋に作品で勝負するべきだと思う。

 




(144)秩序

ロンドンの自爆テロは、9/11以来の衝撃で世界を震撼させた。日本だって、東京だってその脅威から逃れられないことではひとごとではない。いや、もちろん日本以外のところでこれがまた起これば、世界的な影響は必ずある。現に9/11の直接的な影響であるアメリカの対テロ戦争の勃発は日本にも直接的に大きな影響(自衛隊のイラク派遣、イラク関連での何人もの犠牲者、そして石油価格の高騰など社会コストの増大、等々)を及ぼしている。当然ながら無関係ではないのである。わけのわからない狂気のような自爆テロは、あってはならないことであるけれど、今後も起こるのだろうか。
何事によらず原因があり、結果としての事件が起こる。我々はビン・ラディン以来の過激なテロルの発生原因のひとつとして、アメリカの世界における覇権行動への彼らの嫌悪と怒りを知っている。彼らイスラム原理主義者の言葉の中に必ず現れるアメリカの横暴、世界最大の国力、暴力装置を担保とした様々な理不尽な力の誇示、それは間違いないところだ(日本人である私もそれには共感がある)。米国の覇権行動を認め、それに寄り添うかたちで共同歩調を取っているイギリスが今回のテロルの標的になったことは、ある意味で成り行きというものかもしれない。いや、もちろんその卑劣なテロル活動を正当なものだといっているのではもちろんないけれど、起こるべくして起こったものだということは出来る。
イギリス国内のイスラム系社会と過激派の存在は、二次大戦以前の侵略政策、植民地獲得の後遺症がもたらしたものだ。彼らの歴史的な失策に今になってかたきを討たれているといえなくもない。テロルの原因はこれほどに多様なのだろう。もちろん、日本はその点でも無縁とはいえない面がある。イスラム系住民が少ないからといって安心は出来ないだろう。

どうすれば、この種のテロルを避けられるか、なくすことが出来るのか。もちろん多方面の専門家が日々思考を重ねていることだろうけれど、目だった動きとして、アメリカの軍事力によるテロル国家の攻撃がおこなわれていること、それ以外に何があるのだろう。
それが果たしてコストに見合って有効なのか、有効だったのかということは当然正確に検証し、懸命に考えていかなければならないだろうと思う。われわれの危惧は、それが肝心なテロリストたちの“やる気”に正面から挑戦しているということだ。アメリカの覇権を脅かすためになされているテロル、それを計画しようかという彼らのモチベーションを逆に強めこそすれ、決して低下させては居ないのである。ただ、彼らの存在そのものを抹殺するための、力に対する力の行動、これはまことに危険なことではないのか。その方向に錯誤はないのか。どうしてもそれをやらねばならないのか?
確かににアフガンの戦争は大きなテロル拠点を潰したことでは有効だったのだろう。しかし、そのあとの同じ目的から行われたイラク戦争は、その大きなコストに見合った成果は上がっていないし、むしろテロル実践の現場を提供しているという点でマイナス面が大きかったというのがおおかたの見方だろう。もちろん、テロル撲滅以外の大きな目的、フセイン政権打倒は成ったのだから、という見方もあるのだろうけれど、これほどの大掛かりな行動が必要だったのか、どうか。

9/11
以前にも大使館爆破など国外での大きなテロルはあった。しかし、9/11という特異なテロルはその後、スペイン列車爆破などを含めても、その危惧にもかかわらず、というか、幸いにしてというか、余り多くは発生していない。彼らの勇ましいメッセージにもかかわらず、これらの行動が、彼らにとっても容易ではないことを証明している。いや、希望的にいえば、彼らもこの種のテロルを積極的に遂行する気分にはない、その卑劣さとコストの合わなさを自覚している、ということではないのだろうか。こんなことを想像するのは気がひけるけれど、ニューヨークだってシカゴだって、ロンドン並みの自爆テロをやろうとして出来ないことはないはずなのだ。出来ないというより、やる気がないことは明らかだろう。小形核のテロも言われて随分になるけれど、いまだに現れていないのは、やはり彼らにも自制心があるということに違いない。いや、とりあえずはする必要がない、ということなのだろう。
 
彼らがアメリカに挑戦し、彼らを震撼させたことで、その当初の目的は十分達成されたといっていいのではないだろうか。彼らも十分に高度な論理的思考力があることは確かだ。そこを理解せず、ただこわもてに彼らに対処するだけでは、結局相手を更にいきりたたせ、無限の地獄へ落ち込む。両者に完全な勝利がないことは明らかだ。北朝鮮のように、彼らに対しても、問答無用として力で押さえ込むのではなく、話し合いの余地はあると思うのだが、どうだろうか。

力を持ったものはとかく驕りたがる。今のアメリカが最大最悪の例だ。彼らがあらゆる面で暴力的な行動を手控えることが、逆説めいてはくるが、結局、世界秩序の向上に益すると思う。核の廃棄から小形兵器の販売防止まで、アメリカがすぐやれることは無数にある。それを同時にしめすことでテロルは終息するに違いない。






143)プライド

 

一寸の虫にも五分の魂」ということわざがある。この「魂」とは、虫のアイデンテティ、つまりその虫の人格、尊厳されねばならない実体とかいった意味なのだろう。つまり、プライドのことだ。小さな虫にもそれなりの無視できない個性はありますよ、まして人間においてをや。

最近東京で起こった15歳男子高校生の両親殺害事件('05.6.20)で、その少年は殺害の直接動機について「自分を馬鹿にしたから」というような意味のことを言ったという。
人間が何歳から自分のプライドを自覚しはじめるのか、興味のあるところだけれど、私自身の記憶では自分の受け持ちの教師についてそれなりの客観的な評価を持ち始めたのは小学三年生のころだったから、そのころにははっきりした自我、あるいはプライドのような萌芽はあったのだろう。何にせよ、プライドを主張するには彼我に相対的な価値付けが必要だ。普通、未成年の子供が、親、特に父親から「馬鹿」といわれても、面白くはなくともそれで怒りを爆発させることはないだろう。社会的に、生物学的に優劣の差が際立っているからだけれど、もちろん自分の子供ではあっても不用意にいうことばではないが。
これらのことから、この事件がかなり特殊なものだということはわかるけれど、それにしても、プライドというものが人間には、それこそ死活問題にもなりうる重要なアイテムだということが改めて身に沁みる事件だった。

最近の中国、韓国などから責められている「靖国参拝」問題にしても、これは過去に両国のプライドを日本が深く傷つけたという事実がずっと尾を引いていて、これは未来永劫に残っていく問題なのだろう。もちろん、だからといって、逆に彼らの謝罪要求に簡単に膝を屈するのは、また、日本ないし日本人のプライドの放棄以外のものではない。
これらの問題が国外から何度も蒸し返されるのは、やはり今次の戦争、ひいては極東裁判におけるA級戦犯の意味をふくむ確固たる歴史的価値観を、いまなお日本人自身が持たない、あるいは持てないということにあるのだろう。よく言われることだけれど、経済的には超大国になっても、そのわりには日本ほど国際的にアイデンテティがはっきりしない国民もいないと言われるのはまさしくこのことを言っているのだろうと思う。プライドを持てない国民、そんなところに外国からつけこまれる原因もあるのだろう。

ドイツはこの点で日本とよく比較される。戦後すぐ、著名な哲学者ヤスパースが自国の犯したホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)についての考察と自国の責任の限界についての論文を発表し、それを国としての公式見解にして戦後賠償を行った。他国への侵略そのものに関してはノーコメントのままだった。驚いたことに、どの国とも講和交渉などしなかったが、どこも文句をつけていない(国民の歴史33・ホロコーストと戦争犯罪 西尾幹二著)。

外国の企業でもそうかもしれないが、日本の企業では肩書きが社内外で随分威力を発揮する。よく仕事の出来る人間が肩書きを貰い、新たなプライドを得、自分への励みにして更に仕事が出来る環境を獲得し、ますます業績を伸ばす。
これが企業の狙いであり、望ましいことなのだろう。近年は実力主義ということで、年功を無視して序列がドラスチックに変わっていく企業も多いに違いない。

 

もちろん一応合理的なやり方だろうと思う。選考を誤らなければ企業は理論上栄えるだろう。しかし、合理的ではあっても、本来の年功式からあぶれた、プライドを砕かれた人間たちが従来の力を発揮するとは思えない。
まして、実力主義の虚名を借りた偏狭な家族主義から人事がなされた日には悲惨なことになるだろうことは明らかだ。

年功序列方式は基本的に個々のプライド尊重の人間的なシステムだといっていいだろう。いずれにせよ、全体としての効率をいかに向上させるか。それにプライドをどう絡ませるか。これは古くて新しい問題であり、中央官庁では彼らのプライドを尊重するために、同期生のひとりが突出して昇進すると、他の人間はいっせいに辞め、関連企業や公社などへ出て行った。

最近の企業は利益追求が極限に達し、派遣社員やB,C社員など人間尊重とはとてもいえない人事管理が主流で、内部の人間関係は更に複雑怪奇になっている。雇用員個々のアイデンテティ、プライドなどは顧慮に値しないという情況があるに違いない。

回り道ではあっても、人間尊重というのが結局、企業存続の基礎だと思うのだが。




142)静かな落日

劇団「民芸」公演 「静かな落日」 をみた。副題は「広津家三代」。直方ユメニティ5/27

作 吉永仁郎、演出 高橋清祐。おおざっぱにいって小説家広津和郎の伝記だ。

広津和郎の小説は読んだことはない。けれど、松川事件の裁判という戦後の事象と重ねることで私は彼の名前を記憶していた。事象といったけれど、やはりこれは単なる事件(犯罪)でも、裁判でもなかった。大きな社会現象だったのだ。「静かな落日」も当然、松川事件と広津との係わりを主軸にして構成している。作家広津和郎は、やはり松川事件の広津和郎なのだ。彼の小説を読んでいない私にそんなことを断じるのは彼に対して失礼だろうとは思うけれど、やはり、現在読むことが難しい広津和郎という小説家の作品の重みに比べれば、松川事件裁判批判を行ってこれを成功させた社会運動家広津和郎の方が格段に重いといえるだろう。

松川事件の詳細は長くなるのでその専門サイトで知識を得てもらいたい。民芸の「静かな落日」は、当然、松川事件を描いてはいるが、それ自体が主題ではない。この大事件の裁判(何者かが列車転覆を計って死者3名を出した。一審では容疑者20名のうち死刑4名他全員有罪)に重大な誤りの疑いがあると堂々と主張して、当時の大部分のマスコミも含めた国家権力に対峙し、十年に及ぶ戦いをたたかい抜いて、結局全員の無罪をかちとったという、それ自身小説以上にドラマチックな事件(ノンフィクション)を作ってしまった凄い人間の物語なのだ。

これは、考えるほどに凄いことなのだ。
単に、一時はあやうかった正義が、逆転勝利することも、世間にはままあるのだ、という感銘だけでなく、それ以上の、奇跡にも近いことなのだ。

たとえは変だけれど、これは9連覇を成し遂げたころの常勝巨人軍を、ローカルな草相撲の関脇が負かしたようなものだ。いや、巨人軍に例えるのは変だろう。松川裁判の司直は国家権力として国民にのしかかってくるけれど、権力といえども間違いはあるし、それを彼らが認めるのは至極当然の義務なのだが、でもかなりの割合で認めないらしいともいえる。
単純に“負けたくねえ”という至極人間的な気分が誇り高い彼らを支配していることも多いらしい。いやらしい、権力の権力たる所以だ。
だから広津は苦労した。権力はそれ自体おもねるものをとりこみやすい。一審に続き、二審でも広津陣営は負けた(三人だけ無罪、あとは死刑四人など一審とほぼ同じ)。その時のマスコミの広津への揶揄罵倒は凄かったらしい。広津は、しかし負けなかった。

その粘り腰が次第に支持基盤を広げ、最高裁の差し戻し判決から全員無罪を見届ける。

どうして畑違いの土俵で広津は勝ったのか。そういったところの裏話(でもないが)みたいな部分がこの劇のコクになっている。もちろん明晰な理論家広津にして法律の一夜づけがり勉の努力は凄かったに違いないけれど、劇中で彼に言わせている「結局、裁判も、やっぱり人間のやることなんだ、そこを押さえることが肝心なんだ---」というところが彼がこの困難な戦いに勝った原因を解く鍵なのだろう。
なぜ今広津和郎なんだ?というのは愚問だろう。松川裁判は誰も忘れてはいけない歴史の希望とでもいうべきものだからだ。日本はこの歴史を誇りに思わなければならないと思う。

もっとも、この劇は社会思想劇ではない。人間関係、親(広津柳浪-やはり小説家)、自分(和郎 伊藤孝雄が好演)、子(桃子?後年小説家 樫山文枝 劇の主人公で語り手)の間の物語、また、親友というものがどんなに良いものなのかという(広津と同年の文芸評論家宇野浩二 彼が和郎に松川裁判のことをもちかけたのだ。そして年上の友人志賀直哉、表には出なかったけれど、和郎を終始バックアップした)人間賛歌でもある。艶福家和郎のよき妻(内縁)であった松沢はまのさっぱりした描写も含めて、盛り上がりの少ないこの劇の気分のよさを形作っている。
実に魅力的な人間だった広津和郎、松川裁判の悪戦を戦い抜いた偉大なヒーローとその仲間の群像をあくまで人間的に、暖かく描ききった佳作だった。


ちなみに「静かな落日」とは、代々学者を輩出し、明治から3代続いたこの作家の家系が、語り手である桃子(広津桃子=「石蕗の花」で女流文学賞他)の死去で途絶えたことを意味している。



(141)モローと松江


モロー、ギュスターヴ・モローは特異な画家である。さして絵がうまいとも思えない。女性の顔は決まらず、癖があって決して一般向きとは思えないし、構図だって、最高傑作とされている「一角獣(ポスターの絵)」にしても、色彩の絢爛、ヌードの美しさはあるけれど、ごちゃごちゃ沢山のテーマが押し込まれてまとまりのないものになっている。
でもやっぱりその魅力には逆らえない。それは何だろう。やっぱり彼の描く世界の異様な雰囲気に惹かれるのだろう。もちろん魅力的な女性、人物も沢山ある。眺め続けて飽きない作品は少なくない。私は原画主義ではないし、画集があれば、さして海外へまでいってオリジナルを再見しようという気にはなれない(多少の負け惜しみはある)。もちろんデジタルコピーもおおいに結構だ。だから、彼の画集は2冊持っているけれど、パリへまでいってその高名な国立の個人コレクションを見ようとは思わなかった。一生見ることもあるまいと思っていた。
でも、その門外不出の多くの作品群が、今回大挙日本にやってきて特別展が開かれるという噂を聞いたからには、これはぜひみなくては、という気分になったのは別に変節でもないし、不自然ではないと思う。その最初のモロー展を開く栄誉に浴した島根県立美術舘、松江に行ってきた。
展示は6つのコーナーに分けられ、それぞれ「神々の世界」、「英雄たちの世界」、「詩人たちの世界」、「魅惑の女、キマイラたち」「サロメ」そして「聖書の世界」でそのテーマに沿った作品が展示されてあった。しかし、ここでは最初からモローが終生惹かれつづけた強く、悪くはあっても魅力的な美女が様々な装飾を施されて出現する。ユピテルの雷光に打たれて死ぬセメレの姿はそんなモロー自身の贖罪の意識が描かせたものだろうとも思える。
しかし、私の好みはやはりそんな弱気のモローではなく、闇と怪獣どもを引き連れ、臆面もなくその悪魔めく魅力を存分に発揮して私たちを強く誘惑しつづける全裸の妖精「妖精とグリフォン」やらダリラ(今度はなかったが)の姿なのだ。多感な少年だった詩人のA・プルトンがこの絵に強く惹かれて、夜の館内へ灯かりを持って忍び込む不義の逢瀬を夢見たという話しもうなずける。私だってそうしたかもしれない。
圧巻はやはり「サロメ」の有名な「出現(あるいは顕現とも)」だろう。
さすがにオリジナルは細部の透かしレースめく線描の飾り紋まではっきり見られ、その生々しい場面をひとつの非現実的なファンタジーにして、安心して鑑賞できるような効果を与えている。しかし、この有名な絵も、モローは何度となく、少しづつ形や装飾や、色を変えて書きなおしているのである。この執念には恐れ入る。今度見られた同じものを画集で見たように思うけれど、最も完成されたものはこれではなく、オルセー美術舘にあるものらしい。しかし、他の作家に衝撃と影響を与えたというこの異様な発想は何だろう。この場面は何を示しているのだろうか。やはり前述の非業の死を遂げるセメレのように、悪女の見本であるサロメがその悪業に復讐され、恐れおののいているという場面ととるのが自然なのだろう。モロー自身心のバランスを取るための発想だったのではないだろうか。


松江は独身時代、友人と訪れたことがある。30年前のことだから記憶もさだかではないけれど、ヘルン記念館を覗き、城の堀端を散策しただけだった。余り活気がない、山陰の典型的なくすんだ町という印象があった。今回、町は観光開発という方向で活気に満ちたきれいな都市に変身していた。ここにはコアとしてオリジナルの城郭があり、温泉(玉造温泉、宍道湖温泉)があり、そしてなによりもその景観の美しさを保証する面積80Kmの宍道湖がある。これだけ3拍子そろった都市も珍しいだろう。

しかも最近は今度モロー招聘に成功した県立美術舘(宍道湖湖畔で夕日の沈む景観が楽しめるという設定も憎い。今回も目玉のモロー展はもちろん見ごたえがあったし、他にも浮世絵のコレクション<見れたのは北斎の富岳36景など>やら日本近代のモダニズム、美人画ポスターなど質量ともに多く、その実力には恐れ入ったというしかなかった。)を筆頭にいくつもの特色ある美術舘を町の内外に設立して観光客を呼び込むことに余念がない。それで、ついでというわけで訪れたのは、2年前にアール・ヌー・ヴォーのガラス工芸、ステンドグラスを中心とした作品を集めて開館した「ルイス・C・ティファニー庭園美術舘」、

そしてちょっと松江からは離れているけれど、安来にあるこの手の館では老舗の「足立美術舘」の二つ。それぞれ特色があって立派な作品群を揃え、多くの客をひきつけていた。


私がこれまでイメージしていた美術舘というのは、国ないし県、市町村が市民の啓蒙を目的として公費を使って地元の作家を中心に作品を集めて、ただに近い入館料で観覧できるという、図書館に近い公共施設だったのだけれど、これらの私立(?)の立派な施設を見ていると、例えばディズニーシーなんかのようなテーマパークに近い、経済的にもそれ自身で自立してやっていけるような、あるいは事業として動かせるようなものになりつつあるということなのだろう。もちろん何億円もする世界的に有名な絵画を集め、豪華な施設を造り、運営にも専門家があたりという事業が儲け仕事になるはずはないという感じはするけれど、ひとりの篤志家の個人コレクションを種にして順次発展していくというパターんなら(最初の投資は比較的少なかったはずだし)、足立美術舘に見られるように結構成功することも可能なのだろう。中身が充実しているなら、そこそこの入館料をとっても、客はくるはずなのだ。

 

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