人丸に関しての旅

(1)切実とはいえない動機と方法論

今回私がもくろんだ小旅行は、山口を通って石州津和野に入り、益田へ至る山陰、島根の旅である。最終目的は益田市、この地で刑死したとされる万葉歌人柿の本人麻呂(柿本人麿、人丸)の終焉の地を見たく思ったことにはじまった。これは結構古くから浮き沈みした願望で、思えばかれこれ二十年は経っている。さて、まず人麻呂のことから書かねばならない。

梅原猛氏の「水底の歌」上、下巻(新潮社刊S46初版、私はS56年版で読んだ)を読まれたかたはそのミステリータッチの古代彷徨に痺れただろうと思う。万葉集中の代表的な歌人、というより日本文学史上で最大最高の詩人人麻呂の死に関する、一般常識を覆す驚くべき内容を力強い文章で綴った歴史物語り。私もあの膨大な全巻をそんな興味に惹かれて一気に読了した。それはやはり既成概念と既製の権威が音を立てて崩壊する時の痛快さ、小気味のよさも含む大冒険思想小説ともいえる楽しさだった。しかもそれがフィクションでなく、多くの様々な資料と哲学者である氏一流の緻密かつ大胆な考証とに裏打ちされた推論の連鎖から画期的な結論にいたる本格重厚な論文なのだから、読者をこの上なく興奮させたのも当然だった。
 
人麻呂については万葉集の歌人として知られるだけで、その伝は未詳、名前は史書にもない(平凡社世百科事典‘72発行版)。近世最大の人麿伝として権威の書である斎藤茂吉の「鴨山考」によれば、人麿は下級の官吏として任期中に石見の国で病死し、山あいに葬られたという。この説は賀茂真淵などの正統的な人麻呂研究の延長線上にあった。
しかし、梅原氏は人麻呂の多くの作品、特に彼が死に臨んで詠んだ句、そして彼の死を悼んだ身内が詠んだ句、さらには後世の歌集に見る人麻呂の扱い(たとえば貫之が書いた古今和歌集の序)などを詳細に検討し、解釈しなおし、また彼の全国に散らばって残されてある奇妙な伝承などを吟味し、この千三百年前の古代日本の正史にかかわる大きな謎のひとつを明快に解き明かして見せた。つまり、人麻呂は従来の定説だった下級地方官吏などではなく、任地で病死したわけでもなく、もっと上級の中央文官であり、宮中での何らかのごたごたに巻き込まれ、罪を得て追放され、地方へ流されて、ついには石見の国の鴨山という島から海へ投げ込まれるという無残な刑でその生を断たれたという。

「死刑全書(原書房’96刊)には溺死刑として首に重りをくくりつけて水に沈める(古代ローマ)、皮袋に詰めて(もちろん生きたまま、蛇、蠍、ねずみなどを一緒にすることもあった)川に流す方法(イスラム)などが歴史上存在したと書かれている。しかし日本でそのようなことが行われていたということを聞かない。市井のやくざ同士のリンチとして、ひとを簀巻きにして水へ投げ入れる記述を読んだことがあるけれど、公の刑罰としてはなかったろう。稀代の大歌人を世から抹殺し去った刑はどんなものだったのか。そんな残酷な刑に等価する、どのような大罪を歌人は犯したのか。
島としての鴨山は後年の津波か何かで海中に没したという。しかし、私はこの本を読むうちに、人麻呂への興味とともに、その最期の地となった場所に立ってみたい、あるいは眺めてみたいという強い誘惑にかられた。どうせ何のこともない日本海の風景しかないだろうとは想像されたけれど、その思いはずっと内向したまま時々思い出したように私の旅への誘惑を突き上げた。

 


とはいえ、これほど長らく実現しなかったほどに、益田は遠い地ではないし、島根はひとつ山口県を挟んだ近県である。たいした大事業でもないように思える。結局、旅への動機としてはさほど切実でもなかったのだろう(他人事のように言うが)。しかし、私も年を食って、いずれ行けるだろうと思っているうちに足腰が弱って行けなくなってしまうかも、と危惧する年代に差し掛かり、ようやく決断した。やるとなれば小さな旅でも、こってりと旅らしい旅をしてみよう。

「ひとは様々な理由から旅に出るであろう」という書き出しで、哲学者の三木清はその著「人生論ノート」の中で「旅について」という考察をはじめた。これを国語教科書で読んだのはいつだったか。どんな文章が後に続いたのか、当の本が身辺にはないので読み返すこともなくうろ覚えのままここに書いているのだけれど、最後の結論のようなもの、「旅は人生そのものなのだ」という一言は今もよく覚えている。そのころは方丈記も、おくのほそみちも当然知らなかったし、やはりこの中で(注釈の中だろうか)紹介されてあったので知ることになったのだろうと思う。へえ、たかが旅行ひとつについて、これだけあれこれぐちゃぐちゃ考えて、書くひともいるんだー。というような軽い驚きを覚えたことも思い出す。ま、それが哲学というものなのだ、と気がついたのは随分あとになってからだ。
昨今のレジャーブームとしての旅行と、三木清の言う「人生にも比べられる旅」とは、何か違うような気もする。というのが、人生の旅の終着点は死であって、そのこと自体はみな一緒なのだし、そこへ到る過程に様々あって、やっぱり同じ死ぬなら、途中で愉しもうや、とかいう結論を導き出すのも道理である。三木清はそれを、旅は解放と自由の時間であると定義していたようだけれど、まさに、わたしたちは知る、知らぬにかかわらず、人生において自由なのだ。それを意識している人間だけがよりよい人生を生きるのだろう。

昔の旅は、当然ながら途中の過程で楽しみもしただろうけれど、大変苦労もした。いや、苦労が殆どだったろう。歩くか、例の庶民レジャー旅行ブームのさきがけとなったお伊勢参りだって、せいぜい一部が船旅で、かかる時間、日数の膨大さに加えて途中での苦労、災難の可能性は随分高かったわけで、そんな江戸時代以前の旅を踏まえて三木清は「人生は旅である」とかいっているのだろう。
昨今の新幹線、飛行機の旅、もちろんバスツアーなども、途中で乗り物酔いに苦しまない限り、至って楽しい宴会の延長のような旅行を愉しむことが出来る。つまり点と点、華やかな旅行先=レジャーランドと灰色地の生活空間を繋ぐワープ、空間移動の娯楽なのだ。これは「人生の旅」なんかとは全く違ったものだよね。

とはいっても、いまさら歩いて長距離旅行するもの好きは皆無だろう。目的地があって、それは日本国内とはいってもやっぱり歩いていけば随分時間が掛かる。せっかくの交通機関を利用しない手はない。自動車はなかなか便利なツールだけれど、それなりに危険も多いし、高速道路は金がかかり、地の道を走ればまた交通信号が多くて歩くのと大差ない時間がかかる。
ここに宮脇俊三といわれた天才が出て、在来線鉄道の旅の醍醐味を宣伝された。氏はもうすっかり旅を終えて、世にはいらっしゃらないけれど、現代の旅というものをそれなりに甦らせた大家であった。つまり、この便利な時代にあって、旅行というものを本質的に捉え、精一杯旅を旅として楽しもうとされたのだ。
鉄道在来線による旅行は、新幹線、飛行機、バスツアーなどに対置する、地を這い、旅程の眺めを楽しみ、ローカルの人々との接触と交流も可能な、実に旅行らしい旅行、旅の過程そのものを現代人として精一杯愉しむことのできる旅なのだ。それが「人生の旅」といえるほど重みのある旅なのかは、さておくとして。

くだらぬまくらが長すぎた。誰もあきれてここまですら読んではくれないだろうが、ともかく、今回の私の小さな一泊貧乏旅行は鉄道で、それも全部JR在来線、各駅停車の旅としよう、と決めたのである。ぶっちゃけていえば、

財布の都合上そうなったのだけれど、ここまで理由付けをすれば少しは格好もつくだろう。現代に可能な旅らしい旅、宮脇イストとしての精一杯の旅の楽しみを味わいたいということだ。何にせよ、出発するまでに、ここまで回りくどく書くことはなかったろうけれど、しかし、もう書いた以上消すことはしないで置こうと思う。わずかの読者であれ一分の理を感じ取っていただければ書きがいもあろうというものだから。


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