(5)益田、人麻呂終焉の地

益田駅前はあまり観光都市らしくないこじんまりした、よく言えばとりすました感のない、親しみやすい顔だった。電話
しておいたホテルを探す。3度までビルと階段を間違えて、ようやく四度目に目的のビジネスホテル「とらや」に行き着き、バックパックを投げ入れて町へ出る。鍵を預ける時に、貴重品はありませんね?と念を押された。金は身につけているけれど、その他の持ち物も盗られたらやっぱり困る。しかし、その念押しは理由があった。あとから気がついたのだけれど、このフロントには基本的に人はいなくて、カウンターに置かれたままの鍵は、誰が黙って入って来て使っても、チェックされないようだった。こんなサービスの悪いホテルは初めてだった。
ともかく身軽になって、まだ日は明るい。天気もいい。最初にやっておくこと。海岸へ出て鴨山(島)のあったあたりを確認し、人麻呂を偲ぶこと。私の日常履くスニーカーは息子のおふるであって、すでにマジックテープが地から剥げかかっており、朝、家を出る時に強力ゴム両面テープでそこそこ補修してきたのだが、果たしてこの旅での過酷な使用になお耐えられるかどうか、疑問だった。駅の東、地下通路で山陰線をくぐり、益田川に直面したあとそれを右手に見、土手道に沿って海岸を志す。土手の下で自家のプランターに水やりしていた六十を過ぎた紳士に、海岸の方向を確かめる。さあ、十五分位か?橋が三本あるから、その先に海が見えるよ、というのが紳士から得た情報だった。しかし実際はおおはずれ、橋は四本あったし、私の健脚をもってしても十五分で海に達することはまったく不可能だった。
川は大きな鯉や少し小型のよく跳ねる魚など、ずいぶん魚影は濃かったけれど、しかし釣り人はほとんどいなかった。途中、高校生らしい釣り人が二人、水門の取り入れ口から本流へ釣り糸をたれているのが見えただけだった。魚はいても、釣れるかどうかは別問題だというひともいる。しかし九州の汚れた川よりもまだこの川は悪くないように思えた。

三つめの橋で、その先の土手道が工事のために崩されており、やむなく私は川を渡った。もっとも、益田駅から大きくカーヴして海岸線へ沿おうとしている山陰本線の鉄路も見え隠れする川の東側へは、いずれ渡らねば目的地には行き着かないことがわかっていた。その先に更に一本の橋が見えていたし、すでに紳士に出会ってからも三十分が経過していた。タクシーを使うべきだったろうか。しかし余り部外者には説明しにくい目的と目的地(私にもはっきりとはわからない場所なのだ)を、タクシーの運転手には言いにくいことがある。もちろん公共交通機関などあるはずもないし、第一、自動車が行き着ける場所かどうかすらわからないのだ。

千三百年昔は、このあたりはどんなありさまだったろうか。鴨山島へ挽かれていく人麻呂はこの土手道を歩いていったのか。それとも舟に乗せられたのかもしれないが。
左手に河口のあたりが見えてきたけれど、海はまだ見えない。正面は小高い山になってその向こうにあるはずの海の存在を隠している。その中腹あたりに鳥居から石段のようなものが見えて、私は興味を覚え、土手道を降りて荒れた田んぼ道を突っ切り、その鳥居へ近づいていった。犬を連れた男性が近くを過ぎた。人家もあるらしい。石の鳥居をくぐって、暗い竹林の中の急な石段をかなり登り切ると、あっけなく人家や遊園地のある明るい団地に出た。その向こうに鳥居の主人である神社の本殿があった。この町内の、彼らの氏神さまなのだろう。とりたてて人麻呂との関係はなさそうだった。この地にある人麻呂神社は益田駅の西方、高津川のそばにあるはずだ。本殿の壁に思いがけなくダイエーの若いエ
ース和田のポスターがあった。島根県人のイメージポスター。和田は島根の出だったのか?
海へ通じるらしい下り道を進むうちに、沸くように包みを手にした子供たちが現れた。女性やら大人もいる。華やかな、高揚した雰囲気だ。新築の白木の家の骨組みが見えてきた。直前に上棟式のもち投げの儀式があったらしい。そのあたりはすでに河口の土手近くで、再び自動車道に出て海を身近かに見る。強い海の、しおのにおいが漂う。日本海がすぐそこだ。
人麻呂が沈められた海、鴨山(島)の沈んだ海はすぐそこだった。砂浜が広がり、ダンプカー、ショベルカーが砂を日常で取っているらしい、落ち着かない現場だった。河口は突堤で囲われており、海からの波止めが万全であるようだ。沢山の漁船やモーターボートがその内側から川の上流にかけてもやってあり、それらを保護するための突堤なのだろう。海の向こうに遠く島が見えるが、あれは鴨島ではない。益田川の河口あたりは、小高い丘のような山が海際まで来て急に落ち込んでいる。

「水底の歌」上巻の記述では、鴨島の残渣である大瀬(海中の浅い岩塊)は今、海岸から千二百メートルの距離になっている。深度三メートルといい、海が荒れた時はそこに白波が立つという。人麻呂がそこへ挽かれていき、そこから沈められた時は、まだわずかな高さの山(島?)だったけれど、九百年前(万寿三年)の地震と津波でその島自体も一挙に沈み、その後も徐々に海岸から遠ざかっている。何も見えないわけだ。

私は海岸にそった道を更に進んだ。道は浜の高さから再び高さを増して、何か公共の試験場らしい敷地の前で行

き止まりになった。海に背を向けて黒い石碑が立
ち、「柿本人麻呂終焉の地」と彫ってある。ここから海を眺めよ、というご託宣なのだろう。それでも余計な親切という以上の効果がその石碑にはあった。わけもなく私は安心し、カメラにそれを収めた。時刻はちょうど午後5:00、駅から1時間かかって私はここにたどり着いたわけだ。

人麻呂はここに立って自分の流刑の地をまだ遠くに見ていたのだろう。そこですぐ処刑されるとは思わなかったかもしれないけれど、穏やかな気分ではとてもなかったはずだ。当時、流刑の島はそこでひとりでは生きることの出来ない、ただ野たれ死ぬしかない、小山のような島が選ばれたという。そこは無縁墓ばかりがやたらにある、小さな孤立した島だった。鴨山(島)もそんな海抜五メートルばかりの高さの無人島だったらしい。ただ、陸続きだった可能性もあるというから(だから島でなく山?)、そんな岬めいた島を見て、人麻呂は「また女と会えるかも知れぬ」などと、少時安堵したかもしれない。

石見のや 高津の山の木の間より わが振る袖を妹見つらむか
                         万葉集巻二 人麻呂

既にあたりはゆっくりと暗くなりはじめていた。私は川土手を帰路についた。もう魚の気配はなかっ
た。代わりに五羽一組のかるがもの家族が3セット、暗くなりつつある川面をゆっくりと移動していた。
六時をかなり過ぎて、とっぷり暮れた益田市街へ戻った私は、駅の北側の開発途上の道で少々迷い、ようやく線路を越えて繁華街に入るころは結構疲れていた。何でもよかったけれど、たまたま目に付いた中華飯店に入った。焼きぎょうざはべたべたして余りよくなかったが、生ビールで流し込んだ。しかし野菜炒めはボリュームもあり、なかなか美味だった。ホテルに戻り、読書の気力もなく、早めに就寝。

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(6)雪舟庭、日本刀のうんちく
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