(6)小樽・ゆきあかりのにぎやかなまちで

 

  小樽駅前に立つ。案外元気な駅に都会めいた駅前のたたずまい。函館よりも都会らしい青森とあまり変わらない立派なビルがある。その一つに誇らしげに入っていく。今夜の泊まりは少しデラックス過ぎたかもしれない。小樽国際ホテル。なんといっても国際ホテルだった。エスカレーターで二階ロビーに上がる。提示された朝食¥千五百も豪華で、一瞬ひるむ。しかし動揺を押し隠して優雅に受けつつ、あと何回泊まらにゃならんのかと頭の中で素早く残金を計算する。

  晩飯のために夜の小樽へ出る。ご他聞に漏れず、この小樽目抜きの立派なアーケード街もかなりシャッターが下りていて何やら寂しく、観光地の華やかさはない。駅の活気が嘘のようだ。もっとも、時間が遅い(PM七時三十分)せいかもしれない。直方ではこの時間はもっと寂しいけれど。全部半額という古本屋に入る。若者たちがせっせと仕入れた本を仕分けている。彼等が主体のベンチャー企業なのだろうか。こんな風景は三十年前は全く見られなかった。何も買わなかったけれど、成功を祈るといった気分になった。

  小樽は鮨がうまいという評判だったけれど、鮨は一般に量の割りには高価だという定評を持つ。どこにでもある中華料理の店は、質、量ともさほどひどい店がなく、余り期待を裏切らない。珍しいものを食べたい向きには合わないだろうけれど。それでごく平凡なラーメンの店に入って、ラーメンは食べず、ギョウザでビールの付けだしにした。粒は大きかったが、焼きぎょーざの割りには水っぽいやつだった。面倒くさかったし、ともかく腹を満たそうと中華丼を頼んだ。これは、びっくりするほど大きいうつわにたっぷり盛られていて、美味で良かった。

 

  十月十七日、朝食は盛りきりで¥千五百分も食べさせなかった。九時過ぎに出て運河の方へ下りて行く。思い直して小樽バインを捜す。しかし、バインとは何だろうか。ぶどうなどの蔓Vine、ぶどうの木という意味があったはずだ。ぶどうの木ダブルでWineワインが出来るというしゃれなのだろうか。ワインを売る小樽バインのバインはBineだという。字面は何も意味していない。そんなことはどうでもいいけれど、家に少しいいやつを送っておいて、自分で楽しみたい。旅行の余韻を多少長く楽しみたい。ワインについては、それほどよしあしが分かるわけでもないけれど。町の凋落に伴って札幌へ逃げて行った公庁舎、銀行群の立派な建物が小樽には沢山残っており、それを観光目的でいろいろ使っている。小樽バインもそのひとつ。北海道銀行本店(!)、石造りで明治四十五年建設とある。十時開店と同時に私を含む観光バスからの客がどっと入り込んでにぎやかなことだった。ここはワインを飲ませる目的の高級レストランも隣で経営している。極めて快調なようだった。

  用事を済ませ、近くの小樽美術館を覗く。本館は工事で休館中、中村善策記念ホールのみ観ることが出来た。素朴な風景画に心がなごむ。入口に多少デフォルメされたヌードのブロンズ座像。斎藤吉郎の「縹渺」、びょうぼうと読ませるらしい。これは適当に通俗でよかった。同じ場所に文学館があるのだけれど、やはり休館中。ついていない。しばらくほこりっぽい道を海の方向へ進む。十時過ぎの町は活気がある。これが、宮脇俊三が「最長片道キップの旅」の中で“町はさびれても、駅は小さくならない?と慨嘆(?)した同じまちなのだろうか、と思う。これもやはり司馬氏の言う、野鼠が走り回った成果ではないか。

 

  小樽には私なりのイメージを持っていた。北海に面したさいはての港町、静かな雪の中に半ば埋もれた、しかしさほど貧しいこともない町並み。これは私の高校時代に耽溺した余市出身の作家伊藤整の詩集「雪明かりの路」や幾つかの自伝めいた青春小説―それらからは、控え目ながら、性のにおいが感じられた。私の身の丈に合った文学だった―でつちかわれたものだった。しかし、戦前すでに二十万ばかりの人口を持った小樽は、大きな都市銀行の本店が座るほどの大都市だったのだ。それが私のイメージ通り“小さくなった?のは、さほど昔のことでもなかった。宮脇俊三が慨嘆したのはS五十三年だったし、もう一人、私にとっては重要な証言もある。木ノ内みどりという女優がいて、彼女は小樽の出身だった。その彼女が当時の観光雑誌(るるぶだったか?)に故郷の印象を語っている記事があって、“帰省するたびに町が小さくなり、寂れていく。いつか、なくなっちゃうんじゃあないの??と、彼女なりの町への愛情を篭めて書いているのが記憶に残っている。彼女の華やかな愛らしさはまた果敢なげでもあって、それが小樽の町や伊藤整の、多少生々しい感じを漂わせながらも控え目なままの女性像にも良く合って、まさに小樽のひとという感じだった。彼女がロッカーと掛け落ちして姿を消したのはいつだったか。ま、そんなことはどうでもいいか。いや、宮脇俊三氏の慨嘆と余り変わらない頃だったと思うけれど…。

  小樽はまさに奇跡の復興を遂げたように、私には見える。それは多分、観光によってだったし、同じことだけれど、また快速で一時間とかからない巨大都市札幌の繁栄に便乗したものだったのかもしれない。小樽築港に出来たという新しいレジャーセンターなどは明らかに札幌市民のためのプレイランドなのだろう。ひととおり運河のスポットや、ベイエリアの倉庫群に現れた新しい名所などを見ての印象は、函館などと比べてまだ野暮ったい部分が沢山残って、全体として軌道に乗ったとは言えないけれど、それは投資額の問題だろうし、更に投資すればもっと良くなって、洗練されていくだろうと思う。もちろん客もまだ増えるだろう。でも私の心の中の静かな小樽はもう失われたような気がする。

  水族館へ行こうと港のベイクルーズのコーナーへ入って、今年のシーズンは終了しましたという張り紙を見る。バスなどで行けないこともないのだろうが、諦める。アーケードの商店街に戻って食堂でまぐろ丼を頂き、近くの銭湯で少しゆっくりした。湯船が深くて、座り込んだら溺れそうだったからしゃがみこんで首を出した。地下に温泉があったらしいが、しかし白湯だけで我慢して駅へ戻った。十四時四十五分快速で小樽発。次の駅、小樽築港のレジャーゾーン、マイカル小樽の賑わいを横目に過ぎる。カラフルな観覧車が完成間近だった。

  途中銭函で下車。ここに降りたのは、直方−札幌間の乗車券を留保したかったからだ。既に発駅の直方のハンコも含めて十の途中下車駅印を押された券はかなりの貫禄をつけてきている。これを記念に自分で取っておきたかった。しかしJRの規則ではどうなっているのか。どうも、札幌の改札出口では巻き上げられそうな気がしていた。自動改札だったら当然、自分の手には戻って来ないし、ひとつだけ開いている人手の改札でも、余り融通は利かないに違いない。銭函はこの切符で出ればそれ以遠が無効になる札幌市内圏から駅一つ外れていた。ここは小樽市内なのだ。銭函−札幌間は¥三百五十也。小樽の銭湯も同額だった。少しもったいない気がしたが自動販売機で購入した後、少し駅周辺を歩く。海がすぐそばだ。ここの地名はニシンの千石場所といって、かつて大漁に湧き、各漁家には儲けた金を仕舞う大きな銭箱が置いてあったという故事に由来している、と明治十三年に出来た百歳を経た駅の、ホームに吊り下げた、銭箱を摸した掲示板には書いてあった。今はニシンもこないし、さほどのこともないのだろう。ホンダプレリュードの旧型がレトラクトランプを剥き出しにしたまま畑で粗大ごみになっていた。

  小樽−札幌間は準電車区間のように本数が多い。銭函のようなローカルな駅にも九州では余り見られない自動改札の設備が整えられている。乗降客が多いのだろうか。二十分後にはまた快速が来て、私はそれに乗った。向かい合わせの通勤電車で、正面に座っている若い学生風の三人が申し分ない美女ばかりだった。中でも中央のよく喋るボーイッシュなショートカットが浜崎あゆ風の勝ち気な目をした個性派で、私は眼福を楽しんだ。やはり北海道は美女の産地か、と思う間もなく、札幌市圏に入って乗ってきた何人かが一挙にレベルを下げた。

  札幌駅に十五時三十五分着く。拒まれれば即銭函で買ったキップを突きつけてやろうと意気込んで改札に向かったけれど、あっけなく駅員は、いいですよ、と言い、固執した券には〈無効−札幌〉の印が押されて戻ってきた。表紙参照
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